フロッセンビュルク強制収容所
座標: 北緯49度44分08秒 東経12度21分21秒 / 北緯49.73556度 東経12.35583度
フロッセンビュルク強制収容所(KZ Flossenbürg)は、ナチス・ドイツの強制収容所の一つ。ドイツ、バイエルン州・オーバープファルツ地域(Oberpfalz)のフロッセンビュルク村(Flossenbürg)の近くに存在した。
[編集] 概要
フロッセンビュルク村は人口1200人ほどで、上バイエルンに属し、ニュルンベルクから北東120キロ、ミュンヘンから北250キロ、チェコスロヴァキア国境から5キロのところに存在する。冬には寒さがかなり厳しい地域である。1938年5月8日にダッハウ強制収容所から最初の囚人100人余りが到着。続いてブーヘンヴァルト強制収容所やザクセンハウゼン強制収容所から続々と囚人が送られてきて1938年12月末には囚人数1500人に達した。フロッセンビュルクに強制収容所が定められたのは囚人たちを同地から産出される花崗岩の強制労働にあたらせるためである。総統アドルフ・ヒトラーやそのお抱え建築家アルベルト・シュペーアは、ベルリンをはじめとするドイツ大都市再整備計画や次のニュルンベルク党大会での荘厳な建築物の建設などを計画しており、そのために少しでも多くの花崗岩を求めていた。早速、ハインリヒ・ヒムラーはここの花崗岩作業場を親衛隊企業「DEST」で買い上げさせ、囚人を連れて来て強制労働を開始させたのである。しかし間もなく戦争が開始されたため、その任務も戦争経済への奉仕が第一となっていった。1943年以降には花崗岩は副次的な産業と化しており、メッサーシュミット社はじめ軍需工場での強制労働が中心となっていった。
1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に関与した者達はベルリンの刑務所が連合軍に空爆された後にこの強制収容所へ移送されている。ヴィルヘルム・カナリス提督、ハンス・オスター将軍、ディートリッヒ・ボンヘッファー、フリードリヒ・フォン・ラーベナウ(de:Friedrich von Rabenau)大将らである。1945年4月8日にフロッセンビュルク強制収容所で彼らの軍事法廷が開かれた。フロッセンビュルク所長マックス・ケーゲルも裁判官の一人を務めていた。彼らは死刑判決を受け、1945年4月9日朝に収容所内で絞首刑に処された。
1945年4月中旬から撤退作業が開始され、囚人たちはダッハウ強制収容所へ移送されることとなった。囚人達は徒歩で移動させられ(死の行進)、移動中に7,000人は死亡した。しかしそのため、移動は遅く、ほとんどの囚人はダッハウに到着する前にアメリカ軍の保護を受けている。1945年4月23日にはアメリカ軍第90歩兵師団538連隊がフロッセンビュルクを解放した。
[編集] 収容所
正門にはナチスの強制収容所お約束のスローガン"Arbeit macht frei"(「働けば自由になる」)がついていた。所長はヤーコプ・ヴァイゼボルン(de:Jakob Weiseborn)、カール・キュンストラー(de:Karl Künstler (SS-Mitglied))、エーゴン・ツィル(de:Egon Zill)、マックス・ケーゲルが務めた。歴代所長の補佐役はハンス・アウマイヤー(de:Hans Aumeier)、ついでカール・フリッチュ(de:Karl Fritzsch)が務めた。両名ともアウシュヴィッツで勤務していた経歴がある大量殺戮者であった。フロッセンビュルクにはガス室はなく収容所内には売春宿が設置されており、12人の女性囚人が慰安婦を務めていた。囚人への罰には「棒打ちの刑」が執行された(これはすべての収容所の共通の罰だった)。
[編集] 参考文献
- マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所』筑摩書房。ISBN 978-4480857507