ジェントルマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

ジェントルマン (Gentleman) は地主貴族を核とするイギリスの名望家。16世紀から20世紀初頭にかけて事実上イギリスの支配階級であった。貴族ジェントリを中核とし、経済活動の活発化にともない興隆した中流階級を随時取り込む形でその境界を広めながら支配体制の温存を図った。そのため、本来は不労所得者である地主貴族層(つまり貴族とジェントリ)を指す言葉であったが、時代を経るにつれて英国国教会聖職者、高級官吏将校医者弁護士などエリート教育を受けた特定専門職従事者(家督を継げない支配階級の二男坊・三男坊に多い)も含めて「ジェントルマン」と見做されるようになった。「家柄」や「出自」とともに身に付けた「教養」や「徳性」(道徳性)といった要素がジェントルマンの条件とされたため、「紳士的な」人物に対しての形容として用いられることもある。

概説[編集]

gentleはラテン語の"gentils"に由来する。"gentils"はもともと「同じゲンス(氏族:Gens)に属する」という意味であるが、そこから転じて特に高貴な血筋や名門一族といった意味合いで使われる。つまり"gentleman"とは本来「高貴な人物」といった意味合いである。ジェントルマンはイギリス近代におけるエリートであると同時に名士として尊敬を集める存在であり、独自のコミュニティを背景に政治社会に大きな影響力をもった。このジェントルマン階級には上流階級である貴族、ジェントリ、および中流階級に分類される英国国教会聖職者、法廷弁護士、内科医、上級官吏、陸軍士官海軍士官、大貿易商、銀行家などが含まれる。これらの共通点は建前上、自己の利益のため(だけで)労働しない、あるいは社会のために奉仕する身分(職業)と考えられていたことである。また、ジェントルマンとして必要な下地はパブリックスクールからオックスブリッジに至る教育課程にて培われると考えられていた。そのため、新興の産業資本家やネイボッブ(インド成金)のように商業的に成功し領地を取得するまでに至っても、ジェントルマンとしての教養を持ち合わせていない場合(エリート教育を経ていない場合)、ジェントルマンとして認められることはなかった(上流階級の交流の場である社交界やクラブでも相手にされなかった)。

ジェントルマン階級の形成[編集]

貴族とジェントリの統合[編集]

貴族とジェントリは両者とも16世紀前半には既にジェントルマンとして認識されており、上級と下級のジェントルマンという区分が為されていた[1]テューダー朝以前のジェントリは貴族の私的な封建家臣団を形成する事が多く、貴族とジェントリの間には大きな格差が存在したが[2]薔薇戦争による疲弊で貴族が勢力を大きく減じたこととテューダー朝期にジェントリ層が積極的に登用されたことより、その差は確実に小さくなっていった。両者は生活スタイルや文化の点で近く、称号貴族院議席以外に特権の差も存在しなかったため、通婚が進み、単一の地主貴族層を形成した。

ジェントルマン的職業の受容と拡大[編集]

本来、ジェントルマンは土地に立脚した不労所得者である。しかし、16世紀中頃には国教会聖職者、法律家、高級官僚、士官など一部の職業はジェントルマン的な職業と認められている。これらの職業は社会あるいは国王王国に奉仕するものと考えられたとともに、領地を相続することのできない、地主の次男・三男が生きるために就いた職業でもある[3]。またこれらの職は人脈や経済力、大学での教育などが職を得る際に必要であったため、ジェントルマンと富裕な市民以外は就くことが難しかった[4]

新興中流階級の包摂[編集]

イギリスにおける「貴族制」の最大の特徴は上層(貴族)への接近が閉ざされていたのに対し、領地を購入することによって下層部(ジェントリ)となる途が開かれていたことにある。商業革命などの結果、経済活動が活発になり、中流階級の中から突出した富裕者が出るようになると、彼らは経済的な成功に加え社会的な名誉を欲するようになり、土地を購入することでジェントルマンの仲間入りを果たそうとした。貿易商や銀行家などは本人は働かないという点でジェントルマンに生活スタイルが近かったため、比較的容易にジェントルマンとして迎え入れられた[5]。その後、イギリス帝国の拡大とともに富裕な中流階級も増大するが、彼らも同様に領地購入、ジェントリ化という途を望む。他の西ヨーロッパ諸国で政治エリートとしての貴族が衰退していったが、勃興した中流階級上層部を体制内に取り込んだイギリスでは、ジェントルマンによる支配体制が20世紀まで温存されることとなった[6]

教育による育成[編集]

上層中流階級のジェントルマン化が進むにつれ、ジェントルマンと非ジェントルマンの境界条件も変化した。土地や不労所得者という要素は必要条件から、むしろある種の理想像といえる位置づけになり、ジェントルマンをジェントルマンたらしめる要素は教養と教育が決定的になる。ジェントルマンの美徳として教養を重視する立場は16世紀まで遡ることができるが、これは15世紀末にイタリアから輸入された人文主義の影響もあり、ジェントリが武芸に秀で伝統的権威を持っていた貴族に対抗する上で教養が必要になったためである[7]

T.エリオットは『為政者の書』を著し、ギリシアローマ的な西洋古典教養を備え、地方行政を担うことのできる人物を理想のジェントルマンとして描いている。その後、中央集権化が進むにつれ、ジェントルマンは地方行政のみならず、中央の宮廷においても重視される様になるが、その様な情勢の変化に合わせて求められるジェントルマン像も変化した。1561年に翻訳されたカスティリオーネの『宮廷人』は古典教養に加え、音楽舞踏作法礼節など更に広い領域における知識と素養を求めている[8]

この様な「必須科目」は家庭教師から教わるのみならず、オックスフォードケンブリッジ両大学において習得された。両大学は中世以来、聖職者養成機関としての性格を強く残していたが、ヘンリー8世エリザベス1世によって、教会の勢力を削ぎ宮廷に人材を供給するべく古典研究を重視する方針へと転換がされた[9]。聖職者養成機関としての役割自体は残るが、オックスブリッジから宮廷というルートが確立された事によって、聖俗両方の上部構造が二つの大学出身者によって占められることとなり、エリート社会全体に広がるジェントルマンの共同体が形成された[10]。大学教育によるジェントルマンの選別という方法は新参者を共同体から排除する働きをした一方で、新参者本人はジェントルマンと認められなくとも、子や孫の代でのジェントルマン化に途を拓くものであった。特に、イギリス帝国の拡大に伴い、新規に中流階級出身のジェントルマンが増えた19世紀には、土地の取得に代わるジェントルマン化の方法として活用された。

金融サーヴィスへの移行[編集]

地主貴族以外のジェントルマンが増加しても依然として土地はジェントルマンにとって重要な要素であり続けた。土地に立脚した生活がジェントルマンとしての理想であった事もあるが、ナポレオン戦争以後、穀物法によって穀物価格は高値で維持され、領地からの収益が温存されていたためでもある。19世紀半ばに穀物法が廃止されてもロシア、東欧における輸送手段の遅れから地主支配体制への直接的な打撃となることは無く[11]、農業技術の進歩とともにイギリス農業は「黄金期」と呼ばれる時期を迎える。しかしイギリス農業が空前の繁栄を遂げたこの時期にも、水面下では現実的な影響は無くとも穀物法廃止に不安を覚えたジェントルマンたちは少しずつ金融サーヴィスへ重心を移し始めていた。その後、続く農業生産の増加から穀物価格は低下を始め、農業分野での利益率の低下から、金融サーヴィスに新たな財源を求めるジェントルマンはますます増加した。これらの新たな富の源泉となった分野は「ジェントルマン資本主義」と呼ばれる。具体的にはシティを中心とした銀行・証券などの金融資本、公式・非公式を問わず帝国内での人・モノの移動を支える流通分野、および未だ危険の残る帝国内での経済活動の安全を担保する保険分野などである。これらはイギリス帝国の拡大に伴い発展し、19世紀末には土地に代わるジェントルマンの主要な財源となった。

脚注[編集]

  1. ^ 村岡・川北、2003、p.114.
  2. ^ ブリッグズ、2004、p.146.
  3. ^ 村岡・川北、pp.117.
  4. ^ ケイン・ホプキンズ、1997、I巻p.19。またジェントルマン的職業、特に国教会聖職については指昭博「聖職者・ジェントルマン・プロフェッション」(『ジェントルマンであること』)に詳しい。
  5. ^ 村岡・川北、p.55.
  6. ^ 前掲書、p.115およびp.157.
  7. ^ 前掲書、p.115.
  8. ^ 前掲書、p.116.
  9. ^ 前掲書、p.117.
  10. ^ 前掲書、p.117.
  11. ^ 前掲書、p.149.

参考文献[編集]

  • A.ブリッグズ 『イングランド社会史』 今井宏他訳、筑摩書房、2004年
  • 村岡健次、川北稔編著 『イギリス近代史 [改訂版] 』ミネルヴァ書房、2003年
  • 山本正編 『ジェントルマンであること』刀水書房、2000年
  • 大下尚一他 『西洋の歴史 近現代編 増補版』ミネルヴァ書房、1998年
  • P.J.ケイン、A.G.ホプキンズ『ジェントルマン資本主義の帝国I』名古屋大学出版会、1997年
  • P.J.ケイン、A.G.ホプキンズ『ジェントルマン資本主義の帝国II』名古屋大学出版会、1997年

関連項目[編集]