ウィーン美術アカデミー

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シラープラッツのアカデミー本部
アカデミー内の教室

ウィーン美術アカデミー(ウィーンびじゅつアカデミー、ドイツ語: Akademie der bildenden Künste Wien)は、オーストリア地方に存在した美術教育機関で、ハプスブルク君主国時代は帝国美術アカデミーとも呼ばれた。

沿革[編集]

ウィーン美術アカデミーは1692年にハプスブルク君主国の宮廷画家で、文化教育の総監役でもあったペーター・シュトゥーデルの個人学校として開設されたのが始まりとなる。シュトゥーデルは1701年に帝国男爵に叙任されるなど宮廷画家として活躍しながらアカデミーで弟子を育てたが、1714年に彼が死ぬと個人教室であった学校は自然に解散された。

1725年1月20日、ハプスブルク家の当主カール6世は宮廷画家ジャコブ・シューペンを新しい文化教育の総監に任命して、シュトゥーデル死後に解散されていたウィーン美術アカデミーを再開させた。更に1751年にはマリア・テレジアの命令によってアカデミーは近代的な教育機関として再編され、高い名声を持つアカデミーへと成長した。1767年、皇女マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒらによって最初の名誉会員が選ばれた。

1772年アントン・カウニッツ帝国宰相による再度の改革が行われ、領内全ての美術教育機関を統合する存在へと発展した。名前も「帝国総合美術アカデミー」(vereinigten Akademie der bildenden Künste)へと改名されたが、後に「総合」の部分は撤回された。それから100年後の1872年には遂に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の同意を得て、帝国美術アカデミーを美術教育の最高機関とする布告が出された。1877年4月1日、シラープラッツにテオフィル・フォン・ハンセン男爵の設計による新しいアカデミーの建物が完成、今日に至るアカデミーの体制が確立された。

19世紀から20世紀初頭にかけて、アカデミーは新時代の美術運動である世紀末芸術に携わる多くの芸術家を輩出したが、その陰で入学に失敗した人物の一人がアドルフ・ヒトラーであった。1907年1908年に立て続けて試験に落ちたヒトラーは貧しい絵葉書描き(主に水彩画であった)に落ちぶれ、正規の美術教育に対する強い復讐心を残す事になった。隣国ドイツの独裁者としてオーストリア併合を果たしたヒトラーは退廃芸術追放運動を展開し、多くのユダヤ系画家彫刻家がアカデミーから追放された。第二次世界大戦後、ナチの強圧的な統制から逃れたアカデミーは新生オーストリアで組織再建を模索し始め、1955年に政府から自治運営の許可を得て新しい出発を行った。

1998年、新しい時代の教育に沿うべく大学としての教育課程を創設、国家からも高等教育としての承認を得るという大きな改革を行う。しかし改革後の現在も「大学」の呼称は使用せず、組織名は「ウィーン美術アカデミー」として登録されている。アカデミーは現在900名程度の学生を持ち、その四分の一が留学生で占められた国際色ある学校となっている。教員もペーター・スローターダイクなど個性豊かな教授陣が集められている他、図書館は11万冊の蔵書と15万の図面を保有しており、後者はオーストリア国内最大の規模を誇る。

組織[編集]

美術アカデミーは以下の組織に分けられて運営されている。

  • 純粋美術学会:絵画(3分野)・彫刻・線画・視覚芸術
  • 美術理論学会:美術理論、美術史、美術哲学
  • 美術修復学会:美術修復
  • 美術技術学会:美術関連技術
  • 教育学会:工芸、テキスタイル、デザイン
  • 建築学会:建築

著名な出身者[編集]

参考文献[編集]