リヒャルト・シュトラウス

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リヒャルト・シュトラウス
Richard Strauss
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基本情報
出生名 Richard Georg Strauss
出生 1864年6月11日
出身地 War ensign of the German Empire Navy 1848-1852.svg ドイツ連邦
バイエルン王国の旗 バイエルン王国 ミュンヘン
死没 1949年9月8日(満85歳没)
西ドイツの旗 西ドイツ バイエルン州
オーバーバイエルン行政管区
ガルミッシュ=パルテンキルヒェン郡
ガルミッシュ=パルテンキルヒェン
ジャンル 交響詩オペラ
職業 作曲家指揮者
シュトラウスの肖像画 (マックス・リーバーマン画)

リヒャルト・ゲオルク・シュトラウスRichard Georg Strauss, 1864年6月11日 - 1949年9月8日)はドイツの後期ロマン派を代表する作曲家交響詩オペラの作曲で知られ、また、指揮者としても活躍した。ウィーンヨハン・シュトラウス一族とは血縁関係はない。

シュトラウスの生涯[編集]

出生とその成長[編集]

青年期のシュトラウス

彼は、1864年6月11日にバイエルン王国ミュンヘンで、ミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者であったフランツ(Franz Strauss, 1822年-1905年)の子として生まれた。 母親はミュンヘンの有名なビール醸造業者(プショール醸造所)の娘だった。リヒャルトは幼いときから父親によって徹底した、しかし保守的な音楽教育を受け、非常に早い時期から作曲を始めた。1882年ミュンヘン大学に入学するが、1年後にベルリンに移った。そこで彼は短期間学んだ後、ハンス・フォン・ビューローの補助指揮者の地位を得、1885年にビューローがミュンヘンで辞任するとその後を継いだ。

音楽の変化と発展 [編集]

この頃までのシュトラウスの作品は父親の教育に忠実で、シューマンメンデルスゾーン風のかなり保守的なものであった。モーツァルトを崇敬しており、「ジュピター交響曲は私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいる思いがした」[1]と語ったという。なおシュトラウスは1926年に自身の指揮でこの曲を録音している。

シュトラウスが当時の新しい音楽に興味を持つきっかけとなったのは、優れたヴァイオリン奏者で、ワーグナーの姪の1人と結婚したアレクサンダー・リッターと出会ったときからである。シュトラウスが革新的音楽に真剣に向き合うようになったのは、リッターによるところが大きい。この革新的傾向はシュトラウスに決定的な影響を与え、1889年に初演され、彼の出世作として最初に成功した作品、交響詩『ドン・ファン』(Don Juan)が生まれた。この作品に対する聴衆の反応は、半数は喝采したものの、残り半数からは野次が飛んだ。シュトラウスは彼の内なる音楽の声を聞いたことを知って、「多数の仲間から気違い扱いされていない芸術家など誰もいなかったことを十分に意識すれば、私は今や私が辿りたいと思う道を進みつつあると知って満足している」と話した。シュトラウスは他にも一連の交響詩の作曲を続けた。その中には『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(Till Eulenspiegels Lustige Streiche, 1895年)、シュトラウスの死後に映画『2001年宇宙の旅』で使われ有名になった『ツァラトゥストラはかく語りき』(Also sprach Zarathustra, 1896年)がある。

1894年、シュトラウスはバイロイト音楽祭で『タンホイザー』を指揮する。彼はこの時エリザベートを歌っていたソプラノ歌手パウリーネ・デ・アーナ(独語版)とたちまち恋に落ち結婚した。シュトラウス夫人となったパウリーネはその激しい性格により、恐妻家シュトラウスの「悪妻」として数々の悪評を残したが、その叱咤激励のおかげで作曲家シュトラウスの作品が多くが生まれたのも事実であろう。ちなみに後に書かれた歌劇『インテルメッツォ』と『家庭交響曲』はこの夫人との家庭生活に想を得た作品であり、『影のない女』の染物師の妻もパウリーネがモデルと言われる。パウリーネがどのような人物であったかは、マーラーが妻アルマに送った1907年1月の手紙で書き残している。マーラーがベルリンに住んでいたシュトラウスの家を訪ねた際、以下マーラーの文章「パウリーネは私を出迎えると自分の部屋に私を引っ張り込み、ありとあらゆるつまらぬ話を豪雨のように浴びせかけ、私に質問の矢を放つのだが、私に口を出す暇を与えないのだ。それから疲れて寝ているシュトラウスの部屋へ、私を両手で掴んで有無を言わせず引っ張って行き、金切り声で“起きてちょうだい、グスタフが来たのよ!”。シュトラウスは受難者めいた顔つきで苦笑しながら起きると、今度は3人で先程の話の蒸し返し。それからお茶を飲み、パウリーネに土曜日の昼食を一緒にすることを約束されられて、2人に宿泊先のホテルまで送ってもらった。」[2]

1898年、最後の交響詩『英雄の生涯』(Ein Heldenleben)を書き上げたシュトラウスは、関心をオペラに向けるようになった。このジャンルでの最初の試みである『グントラム』(1894年作曲)は主に自作の台本の拙さのせいで酷評され失敗に終る。続く『火の危機』(1901年作曲)もミュンヘン方言のオペラということもあり、一定の評価を収めたにとどまった。しかし、1905年オスカー・ワイルドの戯曲のドイツ語訳に作曲した『サロメ』(Salome)を初演すると、空前の反響を呼んだ。ただし、聖書を題材にしていることや、エロティックな内容が反社会的とされ、ウィーンを始め上演禁止になったところも多い。ニューヨークメトロポリタン歌劇場がこの作品を上演した時などは、終演後の聴衆の怒号の余りの激しさにたった1回で公演中止になったほどであった。マーラーら、当時の作曲家達はその音楽の前衛性に深く共感し、シュトラウスはオペラ作曲家としての輝かしい第一歩を踏み出した。シュトラウスの次のオペラは『エレクトラ』で、前衛的手法をさらに徹底的に推し進めた。多調の多用、不協和音の躊躇なき使用などを行い、調性音楽の限界を超えて無調音楽の一歩手前までに至った。この作品はシュトラウスが詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタールと協力した最初のオペラでもある。この2人はホーフマンスタールが死去するまで、音楽史上も稀に見る実り豊かな共作を続けていくことになる。

そのホフマンスタールとの共同作業第2作目になる『ばらの騎士』(Der Rosenkavalier, 1910年)で、大成功をおさめ作曲家として不動の地位を獲得する。シュトラウスは『ばらの騎士』を境に前衛的手法の追求を控え、当時興隆しつつあった新ウィーン楽派新古典主義音楽などとは一線を画して後期ロマン主義音楽の様式に留まり続けたため、結果的にその後に時代においては穏健な保守派の立場に立つこととなる。その後も最後のオペラ作品となる『カプリッチョ』に至るまで精力的にオペラを作曲した。喜劇の比率が高く(特に中期以降)、ロマン派以降、ワーグナー、ヴェルディ、プッチーニら大物オペラ作家の仕事がほとんど悲劇で占められている中で異彩を放っている。

晩年の保守派というマイナスイメージは死後は相対的に拭い去られ、今日ではロマン派最末期の巨星として多くの作品が演奏、上演され続けている。さすがに最後の十年は創作ペースが衰えたとはいえ、それでも『カプリッチョ』『最後の四つの歌』など重要な作品があり、『ドン・ファン』から数えると、代表作が実に60年におよんでいる。これは音楽以外の創作分野でも史上類例が少ない息の長さである。また、器楽作品とオペラの両方に多くの代表作を残したという点では、モーツァルト以来の存在となった。

ナチスへの協力[編集]

1930年代以降のナチス政権下のドイツにおいて、シュトラウスと政治との関わりをめぐっては今に至るも多くの議論がある。一方は、彼が第三帝国の帝国音楽院総裁の地位についていたこと、ナチ当局の要請に応じて音楽活動を行った事実を指摘し、この時代のシュトラウスを親ナチスの作曲家として非難する見解である。もう一方は、シュトラウスの息子の嫁がユダヤ人であり、その結果彼の孫もユダヤ人の血統ということになるために、自分の家族を守るためにナチスと良好な関係を維持せねばならなかった事情を考慮して擁護する見解である。事実、シュトラウスはオペラ『無口な女』の初演のポスターから、ユダヤ人台本作家シュテファン・ツヴァイクの名前を外すことを拒否するという危険を犯した点や、彼は自身の公的な地位を使って、ユダヤ人の友人や同僚達を保護しようとしたという意見もある。さらにはシュトラウスはナチスに利用され続けた被害者的立場だったとの同情的意見もある。

シュトラウスは第二次世界大戦終結後、ナチスに協力したかどうかで連合国の非ナチ化裁判にかけられたが、最終的に無罪となった。なお、1940年(昭和15年、皇紀2600年)にはナチスの求めに応じて、日独伊防共協定を結んだ日本のために「日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」を書いている(当該項目を参照)。

終戦後とその死[編集]

終戦後、裁判の被告となったこともあり、表だった活動は控えていたが、周囲からのすすめもあり、ロンドン公演を実施している。イギリス人にとってもはや彼は“過去の人”であったが、自ら指揮棒を振り健在をアピールしている。このときの演目は『家庭交響曲』(本人は『アルプス交響曲』を希望したが、当日に別の演奏会があったためにオーケストラ奏者を確保できなかった)。なおこの時、ロンドンの行く先々で「あなたがあの『美しく青きドナウ』の作曲者ですか?」と、尋ねられたという逸話が残されている。

1948年、時間をもてあましていたシュトラウスは家族に薦められて最後の作品のひとつになる、『4つの最後の歌』を作曲した(出版は彼の死後。実際にはその後もいくつかの歌曲が書かれた)。シュトラウスは生涯を通じて数多くの歌曲を書いたが、恐らく彼の歌曲の中でこれがもっとも有名なものの1つであろう。すでにシュトックハウゼンブーレーズノーノケージといった前衛作曲家達が登場し始めていたこの時代においては、シュトラウスの作風は、あまりに古色蒼然とした時代遅れであった。シュトラウス自身も戦後すぐの放送インタビューで「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」と語った。にも関わらず、この歌曲集は聴衆からも演奏家からも常に高い人気を誇っている。

晩年はひっそりと暮らしていたシュトラウスは庭の花を観てよく、「私がいなくなっても、花は咲き続けるよ」と呟いたという。彼の最後の作品は歌曲「あおい」であった。

1949年9月8日、彼はドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンで死去した。遺言により、葬儀では『ばらの騎士』第3幕の三重唱が演奏された。

指揮者シュトラウス[編集]

親交のあったマーラーと同様に、シュトラウスも又作曲家としてのみならず指揮者としても著名であり、生前は自作も含め数多くのオペラやコンサートを演奏した。指揮者としてのシュトラウスは、トップクラスの歌劇場であるミュンヘン、ベルリン及びウィ-ンの歌劇場で要職をも務めたほどである。(ただし後には自作の初演も他の指揮者に委ねる様になった)。

若い頃のシュトラウスはフランスの作家ロマン・ロランに「気違いだ!」と評されるほど激しい身振りを身上とするダイナミックな指揮スタイルであった。しかし後年は、弟子のカール・ベームジョージ・セルらから想像がつくように、簡潔で誇張の少ない抑制されたものになった。

またベームの証言によれば、『影のない女』を指揮した際、指揮姿を撮影していたカメラマンが「左手を出して、立って指揮をしてくれませんか?」と懇願したところ、「私は以前から指揮するときはいつもこうと決めている。今後もずっと、左手を出さずに座って指揮をする!」と怒り出したという。ところが、ある日クライマックスでつい熱が入ってしまい、思わず左手を出して立ち上がって指揮をしたことがあった。公演終了後、ベームは「先生は、常日頃から自分の指揮法について『これは絶対に守らなければならない!』とおっしゃていました。しかし今日ばっかりは先生自らその戒めを破ってしまいましたね?」とからかうと、シュトラウスはむっつりしたまま逃げ去るように帰っていったという。また別の逸話では「ギャラを二倍にしてくれるなら両手で指揮してもいいよ」と、語ったともいわれる。

指揮者としての心構えをベームに対して「右手で拍子をとるのは外面的なことで、楽員が自らの場所を見失わないようにするためである。その他は全て精神的なものから来る。指揮者の表情は曲の抒情的な部分や劇的な部分で変化すべきであるし、作品に現われる愛や憎悪を共に体験しなければならないのだ」と語ったという。

もっとも、セルの証言によればシュトラウスは演奏よりもスカート (トランプ)を好んでいたらしく、ある時、オペラ「フィデリオ」の指揮中に懐中時計を見たところ、このままではトランプをやる時間に間に合わないことに気づき、いきなり猛スピードで指揮をしたという。

彼の演奏は自作自演も含め、数多くの録音が残されており、その姿は写真のみならず幾つかのフィルムで偲ぶことができる。

シュトラウスの作品[編集]

作品についてはリヒャルト・シュトラウスの楽曲一覧をご覧ください。
  • 年は作曲完了年(作曲年月日)【台本作家】

オペラ/舞台作品[編集]

バレエ音楽[編集]

歌曲[編集]

合唱曲[編集]

  • 『さすらい人の嵐の歌』作品14(混声合唱と管弦楽)
  • 『2つの歌』 作品34(無伴奏混声合唱)
    • 夕 Der Abend
    • 讃歌 Hymne
  • 『オリンピック讃歌』(混声合唱と管弦楽) - オリンピックの開会式と閉会式などで必ず演奏されるサマラス作曲の『オリンピック賛歌』とは別の曲。
  • 『タイユフェ』作品52(ソプラノ・テナー・バス独唱・混声合唱と6管編成の管弦楽のためのバラード)
  • 『ドイツモテット』 作品62(無伴奏混声合唱)
  • リュッケルトによる3つの男声合唱曲』(無伴奏男声合唱)

交響詩[編集]

交響曲[編集]

協奏曲[編集]

その他の管弦楽曲[編集]

管楽合奏曲[編集]

室内楽曲[編集]

著作[編集]

  • ヘルタ=ブラウコップ編『マーラーとシュトラウス ― ある世紀末の対話 往復書簡集1888〜1911』(塚越敏訳/音楽之友社/1982)
  • 大野誠監修『オペラ「薔薇の騎士」誕生の秘密 ― R・シュトラウス/ホフマンスタール往復書簡集』(堀内美江訳/河出書房新社/1999)
  • ヴィリー・シュー編『リヒャルト・シュトラウス ホーフマンスタール 往復書簡全集』(中島悠爾訳/音楽之友社、2001)
  • エクトール・ベルリオーズ、リヒャルト・シュトラウス『管弦楽法』(小鍛冶邦隆監修、広瀬大介訳/音楽之友社/2006)

出典[編集]

  1. ^ 渡辺護 CD「モーツァルト交響曲第40番・第41番」(ASIN B000STC5LU)に付属の解説書より
  2. ^ Mahler,Alma:Erinnerungen und Briefe. Bermann;Fischer Verlag, 1949 (酒田健一訳,白水社,1973)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
ハンス・フォン・ビューロー
マイニンゲン宮廷楽団
指揮者
1885年 - 1886年
次代:
フリッツ・シュタインバッハ
先代:
エドゥアルト・ラッセン
ワイマール宮廷歌劇場
音楽監督
1889年 - 1894年
次代:
ペーター・ラーベ
先代:
ハンス・フォン・ビューロー
(常任指揮者)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
客演指揮者
1893年 - 1895年
次代:
アルトゥール・ニキシュ
(常任指揮者)
先代:
ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世
(常任指揮者)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
客演指揮者
1903年 - 1908年
次代:
フェリックス・ワインガルトナー
(常任指揮者)