エーリヒ・クライバー

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エーリヒ・クライバー
Erich Kleiber
Bundesarchiv Bild 102-09850, Erich Kleiber.jpg
基本情報
出生 1890年8月5日
学歴 プラハ音楽院
出身地 Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
死没 1956年1月27日(満65歳没)
スイスの旗 スイス チューリヒ
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
活動期間 1911年 - 1956年

エーリヒ・クライバーErich Kleiber, 1890年8月5日 - 1956年1月27日)はオーストリアウィーン出身で20世紀前半を代表する指揮者の一人。指揮者のカルロス・クライバーは息子。古典派から新ウィーン楽派までの作品で、引き締まった演奏を聴かせた名指揮者であった。

生涯[編集]

ベルリン時代[編集]

プラハ大学で歴史と哲学を学ぶ。学生時代から劇場通いを頻繁に行い、マーラーの指揮に影響され、自身も指揮者への道を本格的に志すようになった。プラハ音楽院で指揮を学習した後、1911年に指揮者デビューする。以後、先達の歌劇場上がりの指揮者と同じようにダルムシュタットマンハイムなどの歌劇場で修行を積む。ダルムシュタット時代に接したニキシュのスタイルを真似つつ、次第に自己の指揮スタイルを確立していった。1923年ベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任、モーツァルトベートーヴェンなどのオペラを指揮する一方で、ベルクの「ヴォツェック」やヤナーチェクの「イェヌーファ」など新しい作品も積極的に取り上げた。この頃のベルリンには、クロール歌劇場に当時は現代作品を得意にしていたクレンペラーもおり、当時の現代作品の上演が非常に盛んな時期でもあった。しかし、ナチスの台頭により状況が変化してゆく。

彼はユダヤ人ではなかったものの妻はユダヤ系であり、またユダヤ人の友人もたくさんいたこともあって、ナチスの台頭を非常に警戒していた。1933年2月27日ドイツ国会議事堂放火事件、翌年11月30日のベルクの「ルル交響曲」(未完に終わった同名のオペラの素材を使った交響曲)初演に対する禁止令は、彼にドイツ脱出の決心を固めさせるのには十分であり、禁止令が出た5日後にベルリンの職を辞任。翌1935年ザルツブルク音楽祭出演の後、妻と当時5歳のカルロスらを伴ってアルゼンチンに移住した。

南米時代〜晩年[編集]

アルゼンチン移住後、1939年には同国の市民権を取得。ブエノスアイレスにあるテアトロ・コロンの首席指揮者になった。また、南米各地のオーケストラに客演し、キューバの首都ハバナにあったハバナ・フィルハーモニーの実力を引き上げるなど、この時代の南米で最も重要な指揮者となっていった。南米での活躍ぶりとは対照的に、同時代の枢軸国からの亡命指揮者が多かったアメリカでの活動はほとんどなく、NBC交響楽団1946年2月と1947年に指揮したのがアメリカでの唯一の活動であった。戦後は再びヨーロッパで客演活動を続け、1954年には東ベルリンで再開された古巣とも言うべきベルリン国立歌劇場の音楽監督に招かれたが、東ドイツ社会主義政権と意見が対立し1955年辞任した。1956年に行われる予定のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団初のアメリカツアーの指揮者にも選ばれ、また客演で好評を博したコヴェントガーデン王立歌劇場からの働きかけもあったが、尊敬するモーツァルト生誕200年の日であった1956年1月27日チューリヒで急逝した。

関連項目[編集]

先代:
-
テアトロ・コロン
首席指揮者
1939年 - 1945年
次代:
フェルディナント・ライトナー