ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
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| ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 Wiener Philharmoniker |
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|---|---|
本拠地のウィーン楽友協会
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| 基本情報 | |
| 出身地 | |
| ジャンル | クラシック音楽 |
| 活動期間 | 1842年 - |
| レーベル | デッカ、ドイツ・グラモフォン、EMIほか |
| 公式サイト | www.wienerphilharmoniker.at |
| クラシック音楽 |
![]() |
| 作曲家 |
| ア-カ-サ-タ-ナ ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
| 音楽史 |
| 古代 - 中世 ルネサンス - バロック 古典派 - ロマン派 近代 - 現代 |
| 楽器 |
| 鍵盤楽器 - 弦楽器 木管楽器 - 金管楽器 打楽器 - 声楽 |
| 一覧 |
| 作曲家 - 曲名 交響曲 - ピアノ協奏曲 ピアノソナタ ヴァイオリン協奏曲 ヴァイオリンソナタ チェロ協奏曲 弦楽四重奏曲 - オペラ 指揮者 - 演奏家 オーケストラ - 室内楽団 |
| 音楽理論/用語 |
| 音楽理論 - 演奏記号 |
| 演奏形態 |
| 器楽 - 声楽 宗教音楽 |
| イベント |
| 音楽祭 |
| メタ |
| ポータル - プロジェクト カテゴリ |
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(ウィーン・フィルハーモニーかんげんがくだん、ドイツ語:Wiener Philharmoniker ヴィーナー・フィルハーモニカー)は、オーストリアの首都ウィーンにあるオーケストラ。世界でも最も有名なオーケストラの一つであり、その演奏技術は世界最高峰である。ウィーン楽友協会大ホール(ムジークフェラインザール)を本拠地として活動している。2006年の世界のコンサート・オーケストラ・ランク表ではトップに位置している[1]。ドイツ語の原音から「ヴィーン〜」とも呼ばれる。(ヴ(Vの日本語表記)参照)
目次 |
[編集] 概説
ウィーン国立歌劇場のオーケストラであるウィーン国立歌劇場管弦楽団(6管編成・150名ほど)の団員のうち、入団を認められた者が自主運営団体たるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(5管編成・120名ほど)を構成する。大型の編成を求められる曲(マーラーなど)では、国立歌劇場の団員もエキストラとして出演する場合もある[2]。
英語表記のVienna Philharmonic Orchestraの頭文字を取ってVPOと表記されることもある。正式な略称はドイツ語表記よりWPhであるが、もっと簡単にWPともする。
[編集] コンサート
定期演奏会は9月〜6月にかけて毎月一回程度・日曜日午前11時開始・1プログラム1回・年10回である。公開ゲネラルプローベ(総練習)と称してもう1回の公演も行われ、定期演奏会の前日の土曜日午後3時30分開始となっている。夜はオペラ公演を行う為、ウィーン・フィルの定期演奏会と公開ゲネラルプローベは昼間に行われる。オペラ公演、ザルツブルク音楽祭への出演やウィーン芸術週間(Wiener Festwochen)への出演は恒例であり、そのほかに随時特別演奏会も行っている。もちろんウィーン国立歌劇場のシーズン中は、一日にウィーン・フィルのコンサートとオペラの二重の仕事をこなすことがよくある。
1939年より、毎年1月1日にニューイヤーコンサートを行っている。このコンサートではヨハン・シュトラウス2世を中心としたヨハン・シュトラウス一家の曲を多く演奏している(中でも『美しく青きドナウ』と『ラデツキー行進曲』はほぼ必須の選曲となっている)。
2004年からは入場無料の屋外コンサートをシェーンブルン宮殿に於いて催している。モーツァルト、チャイコフスキー、スメタナ、ラヴェル、シベリウスなどさまざまな作曲家によるポピュラーな管弦楽曲でプログラムが組まれ(その中ではヨハン・シュトラウス2世の「ウィーン気質」が必ず演奏されている)、2004年はジャズ・ヴォーカリストのボビー・マクファーリン、2005年はズービン・メータ、2006年はプラシド・ドミンゴ、2007年はヴァレリー・ゲルギエフ、2008年はジョルジュ・プレートル、2009年はダニエル・バレンボイムが指揮を執った。2008年はUEFA欧州選手権2008(EURO 2008)がオーストリア(とスイス)で行われたため、Open-Air Schönbrunn EURO 2008と名付けられた屋外コンサートも同じくシェーンブルン宮殿でズービン・メータとピアニストのラン・ランによって行われた。2010年の指揮者には小澤征爾が予定されている。[1]
[編集] オーケストラのメンバー
ウィーン・フィルハーモニー協会は自主運営団体であるが、そのメンバーはウィーン・フィルの基盤となるウィーン国立歌劇場管弦楽団の団員としての活動が義務付けられている。オーディションの後、まず国立歌劇場の団員として3年の試用期間を経て(その間ウィーン・フィルの演奏にも待機団員として加わる)、正式にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の団員として採用される。採用されるのは主にウィーン国立音楽大学出身で、しかも先輩団員から直接指導を受けている(多くの団員は演奏活動のかたわらウィーン国立音楽大学で教鞭をとっている)。採用される前から補助団員としてウィーン・フィルの演奏に参加している者が半数以上である。音大出身者にはバレヱ、演劇、歌唱と演奏家をかねる女性も存在する。
ウィーン・フィルの高い演奏水準の維持は演奏者の性別や民族といった均一性によるところが大きいと言われていた。1990年代まではオーストリア(ドイツ)人または旧ハプスブルク帝国支配地域出身の男性にほぼ限定されており(ドイツ人でもプロイセン系は指揮者も含めて敬遠されがちだった)、こうした傾向が社会的に批判されることもしばしばだった。しかし、1997年に女性ハープ奏者アンナ・レルケスを採用したのを皮切りに、女性楽員が徐々に増加している。
[編集] 「比類なきオーケストラ」の秘密
ハンス・クナッパーツブッシュは、「比類なきオーケストラ」と称えている。
独特の音色の秘密として、管楽器はウィンナ・ホルン、ウィンナ・オーボエ、ウィンナ・トランペット、ウィンナ・パウケンなど、ウィーン・フィル独自の古いスタイルのものが使われている(クラリネットやトロンボーンもドイツ式とは少し違うが、近年職人の減少により日本のヤマハがこれらの楽器の開発と製作に携わっている)。また弦楽器は、コンサートマスターの一部を除いて同じオトマール・ラング工房で製作されたものが用いられている。これらの楽器を弾きこなすためのテクニックは、ヴァイオリンであればダッジ・コーノストやヨーゼフ・ベームやゲオルク・ヘルメスベルガー(ウィーン・フィルの初代コンサートマスターでヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世の父)を創始者として代々の楽員に継承されているウィーン・ヴァイオリン楽派による。かのフルトヴェングラーは試みにウィーン・フィルの使っている弦楽器を当時自分が監督をしていたウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団(現ウィーン交響楽団)で使用してみたが、ウィーン・フィルのような豊麗な響きを作り出すことはできなかったという[3]。
楽器のみならず奏法にもウィーン・フィル独自のものが存在する。弦楽器のボウイングは弓の元から先端ぎりぎりまで使い、柔らかい音を出すため、弓を指板の近くで幾分力を入れて弾く(スル・タストの一種)、強拍であげ弓で弱拍で下げ弓の逆ボーイングもしばしば見られる。またピッチ(音程)の取り方は他のオーケストラよりも高く445Hz(国際標準音高は440Hz)で、音色の高次倍音が少なくなり純度が高まり、アーティキュレーションも音を切る際には、際立たせて切る。これはムジークフェラインザールの残響が長いため、音楽の輪郭がぼやけないように自然に音を切る傾向になったとも言われている。
指揮に対する反応も独特で、拍を振り終えてからようやく音を出し始める(ドイツ語圏のオーケストラにはしばしば見られる)傾向があり、メンゲルベルクやショルティなどのように、指揮棒を振り下ろした時点で即座に音を出すことを要求する指揮者とは意見が衝突することもしばしばだという。
近年、アーノンクールやガーディナー、ノリントンらの客演により古楽の演奏法が理論的に浸透するに連れて、当時のピッチやボーイング、ヴィブラート、テンポ、バランスなどの点で指揮者の意見が通る例が増えてきている。現代曲のグリッサンドが必要なティンパニの場合はペダルのドイツのギュンター・リンガーのものを使用するか、第2奏者が調律ねじを操作する(通常はシングルハンドル式のウィンナ・ティンパニを使用する)。
楽器配置もウィーン・フィル独自の並ばせ方があり、ムジークフェラインザールで演奏する際は、歌劇場のピットをそのまま舞台へ上げたような配置で演奏する。基本をドイツ式配置とし、打楽器は左手奥へ、コントラバスは金管の後ろ、オーケストラの一番後ろの列で横一列に並ぶのが一般的である。しかし、バーンスタインとの演奏では、弦楽器を第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの順(アメリカ式)に配置しているのが、市販されている録画で確認できる。
ウィーン・フィルが定期演奏会を行う会場は、ウィーン楽友協会大ホール(ムジークフェラインザール)である。
彼らが得意とするレパートリーはモーツァルト、ベートーヴェン、リヒャルト・ワーグナー、ブルックナー、ブラームス、リヒャルト・シュトラウスなどいずれもウィーンとゆかりの深いドイツ系の作曲家であり、ブラームスの交響曲第2番などのようにウィーン・フィルが初演を行ったものもある。特にウィーン・フィルの指揮台に立った作曲家のうち数人は、このオーケストラの美しい音色を想像して作曲を行ったとさえ言われている。一回り歴史が浅く、戦後急速に国際色を強めたベルリン・フィルを差し置いて、ドイツ・オーストリア系音楽演奏の第一人者として遇されるゆえんである。また地理的な理由により、イタリア・オペラやフランス音楽・ハンガリー音楽など、更にロシア音楽などスラヴ系の音楽にも優れた資質を示す。
ウィーンで生まれウィーンで亡くなり、ニューイヤーコンサートを通じて看板レパートリーのように思われているヨハン・シュトラウス2世(を初めとするシュトラウス一家)とは生前には疎遠であり(機会音楽として軽視していた)、彼を高く評価していたマーラーの指揮を通じて接近、ワインガルトナーを経てクラウスがようやくレパートリーとして定着させた。なおウィーン・フィルの最初期のレコーディング(1924年の機械吹き込み)には「美しく青きドナウ」「ウィーン気質」「天体の音楽」「うわごと」などワルツの有名曲が選ばれている(指揮はヴァイオリン奏者であったヨーゼフ・クライン)。他にウィーン生まれの作曲家としてはシューベルトなども重要なレパートリーである。
近現代の音楽も決して不得手ではないが、戦後数年ぐらいまでは楽員が近現代の作品を演奏することに対してあからさまに拒絶反応を示すことがよくあったという(レコードプロデューサーのジョン・カルショーは「1910年以降作曲された作品に関して演奏することを極端に嫌がるオーケストラ」と評している)。独自の潤いを持つサウンドが近現代音楽とはミスマッチだという意見もあるが、「春の祭典」の大マニアでレコードコレクターであった英文学者の鍵谷幸信は、それでも「(この曲を演奏する上での)欠点と呼ぶには美しすぎる」と書いている。
特に彼らの常任指揮者でもあったマーラーの交響曲に対する反発は非常に強かったが、マーラーの弟子であったワルターや、マーラーの交響曲を得意としたバーンスタインが数多く取り上げるようになってから、マーラーはウィーン・フィルの主要レパートリーの一つとなった。近年では新ウィーン楽派や、ハンガリー出身でウィーン在住だったリゲティなども、ブーレーズらと頻繁に取り上げるようになった。
[編集] 歴史
[編集] ウィーン・フィルハーモニーの誕生
このオーケストラの発祥は1842年3月28日、ケルントナートーア歌劇場(ウィーン宮廷歌劇場、後のウィーン国立歌劇場)の楽長で作曲家でもあったオットー・ニコライが、レドゥーテンザールにて歌劇場付属の管弦楽団を指揮した「フィルハーモニー・アカデミー」というコンサートとされる(曲目はベートーヴェンの交響曲第7番など)。このウィーン宮廷歌劇場のオーケストラが、モーツァルトやベートーヴェンらウィーン古典派の交響曲などを演奏するために演奏会を開くという試みはすでに何度か行われているが、いずれも運営上の問題で長くは続かなかった。しかし、この「フィルハーモニー・アカデミー」と呼ばれるコンサート(当時はアカデミーと呼ばれていた)が11回連続して行われ、同時に「全ての面において自主的に運営される」、「全ての決定が楽員の総会によって行われる」などの原則が確立されたことが、ウィーン・フィルハーモニーの誕生といえる。
1847年にニコライがウィーンを去ってしばらく活動は停滞したが、1860年にカール・エッケルトが宮廷歌劇場の監督に就任し、1860年1月15日にケルントナートーア歌劇場にて定期演奏会を指揮し、以来現在まで演奏会が継続している。
1870年には楽友協会大ホールが完成し、1870/1871年のシーズンから本拠地となった。1875年から1882年にかけて、ウィーン・フィルのホルン奏者の出身である高名な指揮者ハンス・リヒターを定期演奏会の指揮者(首席指揮者)として迎え、リヒターを中心とした家長的な温かい雰囲気の中でオーケストラは大きな発展を遂げた(『ウィーン・フィルハーモニーの黄金時代』と呼ばれる)。リヒターはブラームスの交響曲第2番、第3番、ブルックナーの交響曲第8番をウィーン・フィルハーモニーで初演している。
リヒターの後任としてグスタフ・マーラーが首席指揮者に就くと(1898年 - 1901年)、その妥協を許さない狂熱的かつ革新的な姿勢で楽員としばしば衝突し、マーラーに反対したリヒター時代からの古参楽員は引退に追い込まれ、若い優秀な楽員への大幅な入れ替えがあった。定期演奏会でのマーラーのプログラムはモーツァルトやベートーヴェンが主で、ベルリオーズの『幻想交響曲』やドヴォルザークの交響詩等も採りあげていたが、自作はとりあげなかった。1900年のパリ万国博覧会でも、マーラーの指揮のもと演奏を行った(これがウィーン・フィル初の国外公演でもあった)。オーケストラとの関係悪化によりマーラーが退任した後、コンサートマスターで作曲家でもあったヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世(1901年 - 1903年)が首席指揮者に就任するが、長くは続かなかった。
その後数年間客演指揮者制となり、世界的に声望のある指揮者陣、フェリックス・モットル、エルンスト・フォン・シューフ、アルトゥール・ニキシュ、カール・ムック、リヒャルト・シュトラウス、若き日のブルーノ・ワルターなどが定期演奏会の指揮台に立った。1908年にフェリックス・ヴァインガルトナー(1908年 - 1927年)が宮廷歌劇場の総監督に就任すると同時にウィーン・フィルの首席指揮者として迎えられ、以後19年間にわたって輝かしい芸術的成果を上げる。同年にウィーン・フィルは公式に認可される協会組織となり、名称も新たに"Wiener Philharmoniker"となった。1922年夏にはヴァインガルトナーの指揮で初めて南アメリカへ演奏旅行を行い大成功を収めた。またザルツブルク音楽祭(ウィーン・フィルと同じく1842年に創設)においてオペラとコンサートの両面で活躍し、音楽祭の中心的な存在となる。このザルツブルクでの活動は国立歌劇場総監督のフランツ・シャルクとブルーノ・ワルターの貢献に拠るところが大きい。
ヴァインガルトナーの後任の首席指揮者としては、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者も兼任していたヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1927年 - 1930年)が就任するが、ベルリンでの活動に専念するため数年で退任。国立歌劇場総監督に就任したクレメンス・クラウス(1930年 - 1933年)を首席指揮者に迎えたが、クラウスが失脚してウィーンを去った後はかつて1903年〜1908年に行ったように、楽員の投票によって定期演奏会の指揮者を招聘する客演指揮者制となった。当時、折からの世界恐慌で演奏会の切符の売り上げが極度に落ち込み、楽員の内輪で切符を売りさばかなければならないほどだったが、客演指揮者制に移行してアルトゥーロ・トスカニーニ、ブルーノ・ワルター、ハンス・クナッパーツブッシュ、オットー・クレンペラー、カール・シューリヒト、ヴィクトル・デ・サバタなど多彩な大指揮者たちが定期演奏会に登場することによって、そうした事態も解消された。
[編集] 第二次世界大戦期および戦後
ナチス・ドイツによる1938年のオーストリア併合は、ウィーン・フィルの栄光の歴史に暗い影を投げかけた。ナチスによりウィーン・フィルハーモニー協会に解散命令が下ったのである。フルトヴェングラーらの奔走により解散自体は免れたが、その後は組織改変を断行せざるを得ず、ナチス党員である楽員が幹部に就任した。そして一部のユダヤ人の配偶者を持つ楽員や「半ユダヤ人」の楽員は残留を許されたものの、多数のユダヤ系楽員が退団に追い込まれるという大きな痛手を負った。ユダヤ系楽員のうちコンサートマスターのアルノルト・ロゼーなどのように大部分はイギリスやアメリカなどに逃れたが、やはりコンサートマスターのユリウス・シュトヴェルトカを含む6人は強制収容所に送られ、そこで亡くなった。また、父がユダヤ人であるブルーノ・ワルター、妻がユダヤ系のエーリヒ・クライバー、ナチズムを含むファシズムに反対の立場を明確にしていたアルトゥーロ・トスカニーニなどは皆アメリカ大陸へ逃れてしまい、これらの大指揮者による演奏は不可能になってしまった。その一方で、後にコンサートマスターに就任したヴォルフガング・シュナイダーハン、ヴァルター・バリリ、ヴィリー・ボスコフスキーといった若い有能な奏者も入団した。さらに、演奏活動の面でもナチスのプロパガンダに大いに利用され、ドイツやオーストリアの各地の軍需工場などで多くの慰労演奏会を行った。
1945年4月、第二次世界大戦におけるナチスの敗北が目前に迫ると、ソ連軍がナチスを敗走に追い込みつつ、ウィーンを目前に迫った4月2日に、ウィーン・フィルはクレメンス・クラウスの指揮により戦中最後の演奏会を行った(曲目はブラームスの「ドイツ・レクイエム」)。演奏会終了後、フルトヴェングラーがかつて残した助言に従い、ムジークフェラインザールを護衛するという名目で「ウィーン・フィルハーモニー国防団」を結成し、楽員のほぼ全員が空襲の激しいウィーン市街に残留した(一部のナチス党員であった楽員はリンツなどへ逃亡した)。彼らはブルク劇場や消防署などの地下通路で生活し、ソ連軍が進攻するまでの時間を過ごした。
ソ連軍によるウィーン進駐後は、コンサートマスターでロシア語の堪能なフリッツ・セドラックを楽団長として、オーストリア新政府やソ連軍と交渉しつつ、ウィーンにおける文化活動の再開、すなわち演奏会の再開に向けて始動した。オーストリア独立宣言の日(4月27日)に、やはりウィーンに残留していたクレメンス・クラウスの指揮の下、コンツェルトハウス大ホールにて解放記念コンサートを催したのである(曲目はベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番、シューベルトの交響曲「未完成」、チャイコフスキーの交響曲第5番)。
しかし、戦後処理としてナチス党員の楽員の半分以上は退団となり、また本業のオペラの本拠地である国立歌劇場は空襲で焼けてしまい(1955年に再建されるまではフォルクスオーパーやアン・デア・ウィーン劇場を仮小屋とした)、フルトヴェングラーやクレメンス・クラウス、ハンス・クナッパーツブッシュ、カール・ベームなどの重要な指揮者たちはナチス協力疑惑のため連合国軍により数年間指揮活動を停止させられたことにより、ウィーン・フィルの活動は困難を極めた。幸いユダヤ系指揮者ヨーゼフ・クリップスなどの尽力により、徐々にそのペースを回復し、大指揮者たちがウィーンに再び戻ってきた1940年代の終わりから往年の栄光と輝きを取り戻したのである。
諸外国への演奏旅行も再開された。1947年にはエジンバラ音楽祭に出演(指揮は1938年以降共演が途絶えていたブルーノ・ワルター)、1956年には初来日した。中編成の規模で指揮者は作曲家のパウル・ヒンデミット、東京宝塚劇場での公演であった。同年11月年にはカール・シューリヒト、アンドレ・クリュイタンス(急逝したエーリッヒ・クライバーの代役)の同行でアメリカへの楽旅が実現し、大きな成功を収めた。
1997年2月より、それまで長らく受け取ってきたオーストリア政府からの補助金を受け取らないことを決定している。
[編集] メンバーの活動
創立以来ウィーン・フィルのメンバーを中心として結成された室内楽グループは弦楽器、管楽器共に数多い。著名な団体を下記に列挙する。
- ヘルメスベルガー弦楽四重奏団(コンサートマスターのヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世および2世が主宰)
- ロゼー弦楽四重奏団(コンサートマスターのアルノルト・ロゼーが主宰)
- プリル弦楽四重奏団(コンサートマスターのカール・プリルが主宰)
- マイレッカー=ブックスバウム弦楽四重奏団(コンサートマスターのフランツ・マイレッカー、首席チェロ奏者のフリードリッヒ・ブックスバウムが主宰)
- シュナイダーハン弦楽四重奏団(コンサートマスターのヴォルフガング・シュナイダーハンが主宰)
- バリリ弦楽四重奏団(コンサートマスターのヴァルター・バリリが主宰)
- ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団(第1ヴァイオリン奏者のアントン・カンパーが主宰)
- セドラック=ヴィンクラー弦楽四重奏団(コンサートマスターのフリッツ・セドラックが主宰)
- ウィーン・フィルハーモニー弦楽四重奏団(コンサートマスターのヴィリー・ボスコフスキーが主宰)
- ウィーン・フィルハーモニー弦楽四重奏団(コンサートマスターのダッジ・コーノストが主宰)
- ヴェラー弦楽四重奏団(コンサートマスターのヴァルター・ヴェラーが主宰)
- ウィーン弦楽四重奏団(コンサートマスターのウェルナー・ヒンクが主宰)
- ウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団(コンサートマスターのライナー・キュッヒルが主宰)
- シュトイデ弦楽四重奏団(コンサートマスターのフォルクハルト・シュトイデが主宰)
- ザイフェルト弦楽四重奏団(第1ヴァイオリン奏者のギュンター・ザイフェルトが主宰)
- ウィーン・フィルハーモニア弦楽五重奏団(第2ヴァイオリン首席奏者のペーター・ヴェヒターが主宰)
- ウィーン室内合奏団(コンサートマスターのゲルハルト・ヘッツェルが主宰)
- ウィーン・フィルハーモニー管楽アンサンブル
- ウィーン八重奏団
- ウィーン・リング・アンサンブル
- ウィーン・ヴィルトゥオーゼン
- ウィーン管楽ゾリステン
- ウィーン弦楽ゾリステン
- アンサンブル・ウィーン
- コルソ・ウィーン
[編集] 指揮者たち
現在までにウィーン・フィルの指揮台に登場した主な指揮者は、以下の通りである。
[編集] 首席指揮者
- カール・エッケルト 1860年
- オットー・デソフ 1860年-1875年
- ハンス・リヒター 1875年-1882年
- ヴィルヘルム・ヤーン 1882年-1883年
- ハンス・リヒター 1883年-1898年
- グスタフ・マーラー 1898年-1901年
- ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世 1901年-1903年
近年ヘルメスベルガー2世の作品がニューイヤーコンサートにおいて採り上げられるようになり、2002年に演奏された「悪魔の踊り」は大きな話題になった。
- フェリックス・ヴァインガルトナー 1908年-1927年
- ヴィルヘルム・フルトヴェングラー 1927年-1930年
- フルトヴェングラーはベルリンでの活動を主体にしていたとはいえ、客演指揮者制に移行した後も彼の死までウィーン・フィルの事実上の首席指揮者であった。
- フルトヴェングラーの天才的な指揮に関して楽員から異論が唱えられることはほとんどなかったが、ヨハン・シュトラウスのワルツについては別であった。ある時、アンコールで演奏される『皇帝円舞曲』をフルトヴェングラー流の仰々しい演奏ではなく、ウィーン風に演奏しようと楽員で申し合わせ、実際そのとおりにしてしまった。後で良心の呵責を感じた楽員から感想を求められたフルトヴェングラーは「素晴らしい。いずれにせよ私は君たちが弾いたように指揮したのだから」と語った。
- フルトヴェングラーはリハーサルでも常に全力投球で臨んだが、その姿勢はウィーン・フィルの楽員とは根本的に異なっていた。練習中の楽員たちのやる気のない態度(もちろん他の指揮者も悩まされる)に怒り狂い、しばしば練習場を飛び出してしまうことがあったが、幹部たちに宥められて戻ってきた時こう語ったという。「ベルリン・フィルは練習が最も良くて、ウィーン・フィルは本番が一番良い」。
- 戦後はEMIによりこのコンビのスタジオ録音が数多く行われ、その数は「本妻」であるベルリン・フィルとのものを遥かに上回る数となっている。
- クレメンス・クラウス 1930年-1933年
- ウィーン楽壇の寵児であるクラウスとウィーン・フィルの関係は決して相思相愛とは言えなかったが、第二次世界大戦の終局で空襲の激しいウィーンに残り、楽員と行動を共にした指揮者はクラウスのみであった。クラウスが1939年から始めたニューイヤーコンサートは現在最も世界的に有名なクラシックのコンサートとなっている。ヨハン・シュトラウス、リヒャルト・シュトラウス、ワーグナー、モーツァルトを得意とするレパートリーはウィーンフィルと最も合致し、現在のところ(おそらく今後も)最後の首席指揮者となっている。
[編集] 実質的な首席指揮者
第二ヴァイオリン首席で、楽団長も務めたオットー・シュトラッサーの著述(『栄光のウィーン・フィル―前楽団長が綴る半世紀の歴史』)によれば、定期公演の中でも重要なオットー・ニコライ記念コンサートの指揮をほぼ毎年指揮していたフルトヴェングラーやベームを実質的な首席指揮者と見なしている。
[編集] 客演指揮者
- アルトゥール・ニキシュ
- ウィーン・フィルのヴァイオリン奏者出身である。ハンス・リヒターもかつてウィーン・フィルのホルン奏者であった。
- リヒャルト・シュトラウス
- 一時期ウィーン国立歌劇場の総監督を務めたこともあり(シャルクと共同)、作曲家、指揮者としてウィーン・フィルとの絆は極めて強かった。1944年ウィーン・フィルはシュトラウス80歳記念の祝賀行事を催している。同時期にラジオ放送のためにシュトラウスの主要曲のほとんどが録音され、現存している。また、ウィーン・フィルと共に「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」全曲を演奏するシーンがニュース映画のためフィルム収録されており、その歴史的に非常に貴重な映像を現在も観ることができる。
- 「家庭交響曲」終楽章のクライマックスでのティンパニのニ長調の音階は、ウィーン・フィルの楽員が考案したものである。スコアには記載されていないが、パート譜には作曲者の了解済みで記されており、現在もそのように頻繁に演奏されている。
- フランツ・シャルク
- シュトラウスと同時期にウィーン国立歌劇場の総監督を長らく務め、楽員にとって厳しくも温かい師のような存在であった。戦前に初めて交響曲をウィーン・フィルでSP録音した指揮者でもある。死の床で後継者クレメンス・クラウスに「私のウィーン・フィルをよろしく頼む」という有名な言葉を遺してこの世を去った。
- ハンス・プフィッツナー
- シュトラウス同様、指揮者としてしばしばウィーン・フィルの指揮台に立った。晩年身寄りがなく生活苦に陥った老作曲家に、ウィーン・フィルは救いの手を差し伸べた。名誉会員に推挙し、年金を与えたのである。プフィッツナーは歌劇「パレストリーナ」の自筆譜を贈ることで感謝の意を表した。
- アルトゥーロ・トスカニーニ
- 1933年から1937年にかけて楽団長フーゴー・ブルクハウザーの招きで頻繁に共演した。戦前のザルツブルク音楽祭で指揮した「ファルスタッフ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「フィデリオ」などは現在でも語り草になるほどの伝説的名演であった。両者の関係は周囲の予想に反して概ね良好であったが、ある時ブダペストでの公演で、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲で自ら振り間違えたために演奏が大きな瑕が生じ、そのことに腹を立てた癇癪持ちのマエストロに、彼よりさらに年長のコンサートマスター、アルノルト・ロゼーが反発し、終演後の指揮者の起立の合図に従わないという事件があった(トスカニーニはロゼーを大変尊敬しており、ロゼーの誕生日に花束を持ってリハーサルに登場したこともあったという)。
- ウィレム・メンゲルベルク
- 共演回数は多くないが、その濃厚な芸風と楽員に対する独裁的な態度、リハーサルでの非常に長い説教で楽員に強烈な印象を与えた。メンゲルベルクとのアムステルダム公演で、ベートーヴェンの「運命」をアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の所有するパート譜で演奏したとき、楽譜に「ここでジプシーの話が始まる」と記されており、実際練習中にメンゲルベルクはその箇所でジプシーの話を始めたという。また、楽員の態度なども非常に口うるさく、名奏者レオポルト・ヴラッハが休符の間にクラリネットを膝に立てて置く癖が気に入らず注意したが、「先生、私はあなたが指揮をなさらない時、指揮棒をどう持つべきかとやかく言うつもりはありません」とやり返されたという。
- メンゲルベルクはしばしば「あなた方は今よりももっとマーラーを弾くようになることでしょう」と語っており、その予言は戦後現実のものとなった。
- ハンス・クナッパーツブッシュ
- 巨人の足取りを想わせる悠揚迫らぬ芸風、素朴で温かな人柄、大変な練習嫌いなどでウィーン・フィルに最も愛された巨匠の一人(ウィーン・フィルも練習嫌いなことで有名)。しっかりと練習をして本番に臨み、オケの団員がミスを犯した際に、彼は「そら、練習なんてするから間違えるんだ」と言い放ったとされる。クナは楽員たちと個人的に親しく付き合い、練習の合間や演奏旅行の列車の中で楽員とカード遊びに興じたという。大病を患った後、晩年にウィーン・フィルを指揮した演奏会のVTRが近年発掘されてDVDとなり、大きな話題を呼んだ。
- オットー・クレンペラー
- 共演回数は決して多くないが、晩年に近い1968年のウィーン芸術週間では連続して5回のコンサートを開き、モーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラーなどで数々の名演を残した(その時の実況録音は全てCD化されている)。
- クレンペラーは度重なる大病、怪我により晩年体が不自由になり、手がうまく動かせないため、アンサンブルはオケの自発性に任された。上記ウィーン芸術週間でのモーツァルトのセレナード第12番「ナハトムジーク」では、ファゴット奏者による客席には聴こえない程度の低音をアインザッツの合図とするよう木管奏者たちが申し合わせており、実際そうされたという(録音にも残っている)。
- ブルーノ・ワルター
- ウィーン・フィルとの多数の録音で知られるとおり、生涯を通じ音楽的にも精神的にもウィーン・フィルと深く結ばれた指揮者であった。1907年に初めて指揮し、ウィーン移住後の1930年代には頻繁に共演する。1938年にナチスの魔の手から逃れるためにアメリカへ亡命し、1947年エディンバラ国際音楽祭にて両者は感動的な再会を果たす。以後1960年師マーラーの生誕100周年記念演奏会で最後の指揮を執るまで、たびたびワルターはウィーンを訪れることとなる。ワルターの死後、遺言に従いウィーン・フィルはニューヨーク・フィルハーモニックと共にワルターの遺産相続人となった。ちなみにワルターは、師マーラーの交響曲第9番ニ長調の初演をウィーン・フィルと行っている。
- カール・シューリヒト
- 70歳代になってから定期演奏会の常連指揮者となる。クナッパーツブッシュ同様、楽員から「偉大な老紳士」として敬愛された。練習中あらかじめオケが危なくなりそうな(そして実際に危なくなる)箇所についてスコアの端を折っておき、チェックしながら練習をつけていくのを常とした。晩年リウマチに苦しみ、長時間かけて舞台の端から指揮台まで杖をつきながら歩いていったが、ひとたび指揮台に上がるとシューリヒト特有のカリスマ性、輝かしい生命力が溢れ出て、楽員たちを感動させたという。アメリカ公演の成功によりニコライメダルを受けるとともに、1960年には名誉会員となる。
- ピエール・モントゥー
- ワルターより1歳、シューリヒトより5歳年長の老巨匠だが、80歳を過ぎてからウィーン・フィルに招かれ、デッカに多数の録音を残している。レコーディング中、昼を過ぎても練習を続けているので、オーケストラの幹部がメンバーは疲れているので休ませてもらえないかと頼んだところ、モントゥーは「もし誰かが疲れているとしたらそれは私だ。私は一番年寄りだからだ。そして私は疲れていないし、誰も私より年を取っていない」とフランス語で呟いたという。なお、うるさ型のオケとして有名なウィーン・フィルだが、モントゥーに対しては比較的従順であり、「ウィーン・フィルはリハーサル嫌いだが、モントゥーのもとでは喜んで演奏する」と言われた。
- エーリヒ・クライバー
- エーリヒ、カルロスと親子2代にわたりウィーン・フィルを指揮している。1954年にデッカに録音したリヒャルト・シュトラウスの楽劇「ばらの騎士」はウィーン・フィル初のレコード大賞を受賞。ウィーン・フィルの初のアメリカ演奏旅行の同行指揮者だったが、クライバーが直前に急死したため、シューリヒトおよびクリュイタンスに代わった。
- ヴィクトル・デ・サバタ
- ルドルフ・モラルト
- フォルクマール・アンドレーエ
- アルトゥール・ロジンスキ
- レオポルド・ストコフスキー
- エルネスト・アンセルメ
- シャルル・ミュンシュ
- 1955年のザルツブルク音楽祭でフルトヴェングラー記念演奏会を指揮している。リハーサルを好まず、本番で即興性を発揮する様は、楽員になにがしかクナッパーツブッシュのそれを思い起こさせたという。
- ポール・パレー
- エイドリアン・ボールト
- エトヴィン・フィッシャー
- モーツァルトまたはハイドンの協奏曲2曲と交響曲1曲というプログラムで、指揮とピアノを担当するコンサートを度々行い、戦前から戦後にかけてザルツブルク音楽祭での恒例行事となった。
- ジョン・バルビローリ
- ウィーン・フィルとは非常に仲が悪かったらしく、滅多に共演しなかった。ただし、このコンビがEMIに録音したブラームスの交響曲全集は不世出の名演とされている。
- ユージン・オーマンディ
- 古典派の名解釈家として楽員に尊敬された。特にベートーヴェンでは映像も残っている。
- アラム・ハチャトゥリアン
- フリッツ・ライナー
- カール・ベーム
- ウィーン国立歌劇場総監督に2度就任したこともあり、ウィーン・フィルとの関係は特に親密だった。練習の時の姿勢は頑固おやじそのもので団員との摩擦も多少はあったが、それでも団員からの信頼は絶大だった。1967年にはウィーン・フィル創立125周年を記念して名誉指揮者の称号も得ている。また両者のコンビは日本でも大人気を得て、来日の度にカラヤン&ベルリン・フィルと並ぶ程センセーションを巻き起こした。このコンビによる録音も数多く、中でもベートーヴェンの交響曲第6番「田園」とモーツァルトのレクイエム(いずれもドイツ・グラモフォン)、ブルックナーの交響曲第4番、バックハウスと共演したブラームスのピアノ協奏曲第2番(いずれも英デッカ)などは、今でもこれらの曲を代表する名盤として高く評価されている。
- ヨーゼフ・カイルベルト
- ハンス・シュミット=イッセルシュテット
- ウィーン・フィルを指揮して初のベートーヴェンの交響曲全集をデッカに録音する。シュミット=イッセルシュテットはウィーン・フィルの常連指揮者ではなかったが、プロデューサーで息子のエリック・スミスの力によりこの組み合わせが実現したと言われている。結果ウィーン・フィルの美感が十二分に発揮された名盤が誕生し、この長い名前(本名はハンス・シュミットで、ありふれた名前であったため、母方の姓イッセルシュテットを付け加えた)の指揮者が広く知られるようになった。
- ディミトリ・ミトロプーロス
- 驚異的な記憶力と強烈な人間的な魅力により楽員の絶大な支持を集め、指揮者として初めてニコライ記念メダルが贈られた。総譜の隅々まで写真のように精確に記憶しており楽員をたびたび驚かせたが、ザルツブルク音楽祭での「エレクトラ」の練習中に、中断して手を目の前に当てて物思いにふけるミトロプーロスを、ある奏者が「彼は今ページをめくっている」と言ったという。
- ヨーゼフ・クリップス
- 有名指揮者たちの陰に隠れがちだが、戦後の混乱期にウィーン・フィルとウィーン国立歌劇場の再建に尽力した功績は大きい。しかし、たびたびクリップスは楽員たちの悪戯やからかいの対象にされたという。
- アンドレ・クリュイタンス
- コンスタンティン・シルヴェストリ
- ダヴィッド・オイストラフ
- 戦後すぐウィーン・フィルの演奏会にヴァイオリニストとして彗星のごとく登場し、のちに指揮者としても迎えられる。その際のプログラムは彼の独奏によるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲の弾き振り、およびチャイコフスキーの交響曲などであった。
- ルドルフ・ケンペ
- ラファエル・クーベリック
- 若い頃フルトヴェングラーの後継者と目され頻繁に共演していたが、やがて疎遠になる。バーンスタインが登場する以前にウィーン・フィルにマーラー演奏の機会をしばしばもたらした。
- イーゴリ・マルケヴィッチ
- ギュンター・ヴァント
- 1960年代初頭にバックハウスとのシューマンの協奏曲の録音で、ウィーン・フィルを指揮したが、練習中に付点音符のリズムについてオケに注意すると、コンサートマスターのヴィリー・ボスコフスキーに「我々は重箱の隅をほじくるのは好きじゃない」と言われたという。以降二度と両者が共演することはなかった。
- カール・リヒター
- バッハ作品を得意としたが、通常のレパートリーでも並々ならぬ水準を実証している。
- フェレンツ・フリッチャイ
- 1947年ザルツブルク音楽祭で共演以来、度々客演していた。1950年代、彼の厳格なリハーサルに対して楽員との摩擦がおき、疎遠になったこともあったが、のちのザルツブルク音楽祭の成功や聴衆の支持、高い知名度により、1960年に急逝したミトロプーロスの後継者として、夏季公演の首席指揮者へと迎えるべく重要視されていた。しかし、病により1963年、48歳の若さで早世。オペラやコンサート・ライブのいくつかがCD化されている。
- イシュトヴァン・ケルテス
- ヘルベルト・フォン・カラヤン
- ウィーン・フィル名誉指揮者。カラヤンはナチス党員だったために戦後演奏活動を禁止されたが、その間EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグに見出され、1947年にベートーヴェンの第九で録音を開始した。その後もウィーン・フィルと数多くの録音をしている。また、1950年前後にはカラヤンの指揮でモーツァルトのオペラの公演を何度も行い、人気を博した。1960年代前半まではかなり高い頻度で指揮をしていたが、カラヤンのウィーン国立歌劇場辞任に伴ない、ウィーン・フィルとの関係も疎遠になった。
- 後年長年君臨したベルリン・フィルとの仲が険悪になるにつれ、再びウィーン・フィルとの共演を増やしていった。ベルリン辞任後の急逝がなかったら、膨大なレパートリーの大半をウィーン・フィルと再録音する予定だった。
- ジョージ・セル
- 非常に厳格なリハーサルで知られ、楽員からは必ずしも評判が良くなかったが、戦前、戦後を通じてたびたび客演している。
- オイゲン・ヨッフム
- レナード・バーンスタイン
- 名誉会員。1966年のセンセーショナルな定期演奏会デビュー以来、相思相愛の関係で結ばれる。モーツァルトのピアノ協奏曲の練習で、楽員に「モーツァルトはあなたたちの国の人間です。あなたがたは私にモーツァルトの演奏法を教えてくださらなければなりません」と語っている。一方1970年代に集中的にマーラーの交響曲を取り上げ、マーラー嫌いで有名だったウィーン・フィルを開眼させたと言われている(ただしワルターやクーベリックも頻繁にマーラーを取り上げたので、これを否定する楽員もいる[誰?])。
- ゲオルク・ショルティ
- カルロ・マリア・ジュリーニ
- 名盤として誉れの高いブラームスの交響曲全集を初めいくつかの録音をしたが、レパートリーを限定して指揮するジュリーニの性格上、ウィーン・フィルの指揮台には上る事は少なかった。
- シャーンドル・ヴェーグ
- ヴァーツラフ・ノイマン
- ベーム没後に重用され、ドヴォルザーク以外にもブラームス、ベートーヴェンなど古典派の指揮で実績を残した。響きの美しさは何にも替えがたかったといわれている。ノイマンはウィーン・フィルの定期演奏会に招かれることを終生大きな誇りとしていたという。
- カルロス・クライバー
- ウィーン・フィルと理想的な組み合わせと思われたが、クライバーの気難しさ、ガラスのような繊細さゆえに両者の関係は決して平坦なものではなく、「テレーズ事件」によって共演が途切れた時期もあった。1992年クライバー同行によるウィーン・フィル来日公演が企画されたが、クライバーの病気によりシノーポリに代わった。1994年にクライバーがウィーン国立歌劇場と来日した際は、ウィーン・フィル公演の指揮はショルティであった。
- ヴォルフガング・サヴァリッシュ
- 古くから度々共演してきたが、むしろウィーン交響楽団と密接な関係を結んでいた。晩年は楽員の尊敬を集め急接近したが、病気のために引退した。
- クラウス・テンシュテット
- クラウディオ・アバド
- ウィーンで学んだアバドは、1960年代から度々ウィーン・フィルに客演し、国立歌劇場音楽監督就任後は実質上の首席指揮者となる。マーラー、ブラームスやウィーン楽派などに名演が多い。しかし彼の音楽監督辞任とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団への転身にからみ両者の関係は解消された。ただしその後も、ウィーン・フィル以外のオーケストラとムジークフェラインザールで演奏会を行っている。
- リッカルド・ムーティ
- ウィーン・フィルの名誉会員。1970年代から定期的に客演する。当初は「ボクサーのようだ」と批判されていたが、今ではウィーン・フィルに招かれる指揮者の中では最も密接な関係にあり、事実上の首席指揮者扱いを受けている。楽団からの提案でシューベルトやモーツァルトを録音した。他にもメダルやリングなど楽団から数々の贈呈を受けた。コンサートマスターのライナー・キュッヒルと蜜月の関係でもある。またウィーン・フィルの楽団員が関わるイベント(東京オペラの森、ホフムジークカペレ)にも頻繁に参加している。
- ロリン・マゼール
- アメリカ人として初めてニューイヤーコンサートを指揮。ボスコフスキーと同じく、ヴァイオリン片手に指揮する姿を見せた。1982年にウィーン国立歌劇場総監督に就任。辞任後は冷却期間を経て定期へも復帰する。
- アンドレ・プレヴィン
- 奏者の自主性を重んじる姿勢とメロディ重視でバランス感覚に富む彼の音作りは、ウィーン・フィルと非常に相性がよく、定期演奏会の常連になっている。特にリヒャルト・シュトラウスの管弦楽作品は名演揃いと評価される。
- フリードリヒ・グルダ
- ウィーン生まれのピアニスト兼作曲家。1991年に、モーツァルトのディヴェルティメントK.138、ピアノ協奏曲第20番K.466、グルダ自作の「コンチェルト・フォー・マイセルフ」(ベルリン・フィルやミュンヘン・フィルとも演奏している)の弾き振りを披露し、大きな話題を呼んだ。コンサートマスターのライナー・キュッヒル以下ウィーン・フィルのメンバーが、神妙な面持ちでグルダのサンバに付き合う様子はかなりの見物であったといわれている。
- ジョルジュ・プレートル
- 80歳を過ぎたあたりから密接な関係を結ぶようになったフランス人指揮者。2008年には、引退を表明していても初のフランス人指揮者として、史上最高齢でニューイヤー・コンサートを指揮した。
- チャールズ・マッケラス
- ヤナーチェクという異色のレパートリーを録音し、一躍有名になる。絶賛の声が高いコンビだが、コンサートの客演回数はあまり多くない。オペラの方でかつては優れた名演を聴かせた。
- エーリッヒ・ラインスドルフ
- このウィーン出身のユダヤ系指揮者は、むしろ国立歌劇場のオペラであくのないさっぱりした表現により評価されていた。モーツァルトの「フィガロの結婚」では晩年に自らチェンバロも担当し、幕間に退屈なのでピアノ・ソナタイ長調のテーマを冗談で弾いて喝采を浴びた事がある。
- ホルスト・シュタイン
- ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
- 晩年限られた期間であったが指揮者、ソリストとして共演してきた。異色のコンビだが、自身が一歩引いたスタンスを取ったため、関係は良好であった。自身がチェロ独奏を受け持った「弾き振り」のコンチェルト演奏では、「指揮者なし」としてオーケストラに自発的に演奏させた。
- 小澤征爾
- 現国立歌劇場の音楽監督。ウィーン・フィルとの共演は、ザルツブルク音楽祭の「コジ・ファン・トゥッテ」で代役として登場した1966年に遡る。その後ムーティ、メータ等とともに長年の共演によって、楽団ともお互いの信頼が厚く定期の他、音楽祭や演奏旅行にも同行している。2002年のニューイヤーコンサートは大成功し、そのCD・DVDはベストセラーにもなった。
- 岩城宏之
- ハイティンクの代役で、日本人として初めて定期演奏会の指揮台に立った。その際、ウィーン・フィルの指揮の機会を得たことで、他のオケを振るときのギャラの提示額が上がるぞとウィーン・フィルの楽員に言われ、実際にその通りになった、と自著で記している。
- 小泉和裕
- 1976年のザルツブルク音楽祭で代役として指揮している(ハイドンの交響曲第92番『オックスフォード』、チャイコフスキーの交響曲第5番)。
- ピエール・ブーレーズ
- 1992年のザルツブルク音楽祭に初出演して以来、定期的に招かれており、録音もドイツ・グラモフォンで多く行われている。当初は異色のコンビとされたが、解像度の高いアプローチながら楽団の特性を打ち消さない指揮で楽員から尊敬を得ている。主要な演目はシェーンベルク、バルトーク、マーラーなどの作品だが、ハイドンなど意外なレパートリーも披露している。2007年で一応引退を表明しているが、2008年以降も予定が入っている。
- ズービン・メータ
- インド人ながらウィーンで指揮をハンス・スワロフキーに学んだメータは、1959年にこの楽団でデビューして以来、ほぼ毎年のように定期の指揮台に立つ主軸の指揮者である。定期会員からの信頼は絶大[要出典]で根強い人気がある。ちなみに現役指揮者の中でこのオーケストラと最も長く仕事をしている間柄でもある。
- ニコラウス・アーノンクール
- 1970年代にデビューしたとき、ウィーン交響楽団の一楽員(チェロ奏者)である点や自己主張の強さから決裂してしまう。近年の関係は良好で、モーツァルトを中心に衝撃的な解釈を披露している。楽団は古典派の指揮をほとんどムーティかアーノンクールに託している。
- ベルナルト・ハイティンク
- 古くからの定期演奏会の常連であるが、コンサート・録音において印象的な仕事はまだ残していない。
- ジェームズ・レヴァイン
- デビュー当時は極めて高く評価されて、モーツァルトやブラームスの交響曲全集等数多くの録音をし、コンサートにも度々登場したが、現在は招かれる事もなく途絶した。
- ダニエル・バレンボイム
- 近年緊密になり、定期の他、ザルツブルクのオペラ公演の指揮なども任せられるようになった。2009年のニューイヤーコンサートを指揮した。
- ロジャー・ノリントン
- アーノンクールと同じく古楽器派の旗印である。プローベでまるで漫才師のように楽員を笑わせながら、スムーズに進行するので楽員にはとても喜ばれているという。
- ジュゼッペ・シノーポリ
- イタリア出身の指揮者兼作曲家。ウィーン・フィルの楽員からは必ずしも歓迎されてはいなかったが、CD録音では高く評価されていた。1992年(ウィーン・フィル創立150周年)にカルロス・クライバーの代役として、事実上コンサートでの初共演となった日本公演は毀誉褒貶愛半ばした[要出典]。
- マイケル・ティルソン・トーマス
- 巨匠不在の時代のピンチヒッターとして指揮者陣に組み入れられたが、近年マーラーの演奏などにバーンスタインの後継者としての頭角を現わしている[要出典]。
- ヘルムート・リリング
- バッハのマタイ受難曲などの宗教合唱曲などで客演。
- ヴァレリー・ゲルギエフ
- 1998年のザルツブルク音楽祭初共演では、ゲルギエフの野性味あふれるドライブにオーケストラ側が一目惚れし、以降重用されている。ショスタコーヴィチやチャイコフスキーなどお国もののレパートリー以外にヨハン・シュトラウスなども披露している(一時はニューイヤーコンサートへの登場も噂された)。
- リッカルド・シャイー
- サイモン・ラトル
- 首席指揮者の候補格で、日本においても披露されたベートーヴェンの交響曲全集など、旧時代と新時代が融合したような鮮烈な出来栄えであったが、ベルリン・フィルの常任指揮者となって以降は共演も限定されている。
- セミヨン・ビシュコフ
- チョン・ミョンフン
- 定期演奏会に数回登場しているが、ドヴォルザークのレコーディングを残して近年は関係が疎遠である。
- マリス・ヤンソンス
- 2006年のニューイヤーコンサート初登場では選曲のよさ、フレッシュな音楽作りで大成功を収めた。
- クリスティアン・ティーレマン
- ドイツの若手・中堅指揮者の中核としてウィーン・フィルにおいても重用されている。オペラ劇場の指揮者としての腕前も確かだが、コンサート指揮者としてもR・シュトラウス、ブルックナー、ベートーヴェンなどスケールの大きなドイツ物を得意としている。
- フランツ・ウェルザー=メスト
- ウィーン・フィル定期への登場は1998年と遅いが、これを成功させ地保を固める。
- ダニエレ・ガッティ
- ダニエル・ハーディング
- 29歳にしてマーラーの交響曲第10番(クック版)でウィーン・フィルに定期に初登場した。ラトルに次ぐ極めて独創的かつ衝撃的な指揮ぶりは大いに注目されている。
- インゴ・メッツマッハー
- マンフレッド・ホーネック
- シモーネ・ヤング
ウィーン国立歌劇場の音楽監督に指揮者が就任すると、その指揮者との結びつきは強くなるとも言われる。また、レコーディングやザルツブルク音楽祭など指揮者の決定に彼らの意思が及ばない場合もある。あまり有能とはいえない指揮者が指揮台に立つ場合は、むしろウィーン・フィルの自主性が大いに発揮されるといわれている。
[編集] 脚注
- ^ イギリスのBBCによるオーケストラ・ランク表による。
- ^ SWR/FM、Wiener Philharmoniker、Video・Productionやメンバー表、楽員の話。
- ^ フルトヴェングラー『音と言葉』芳賀檀・訳、新潮社、1981年
[編集] 参考文献
- アレクサンダー・ヴィテシュニク『ウィーン・フィルえぴそーど』福原信夫、吉野忠彦/共訳、立風書房、1975年。
