ジョルジュ・プレートル
ジョルジュ・プレートル(Georges Prêtre, 1924年8月14日 - )はフランスの指揮者である。 自由闊達、瀟洒な指揮で知られ、現代を代表する巨匠。ウィーン・フィル名誉団員。ウィーン交響楽団、シュトゥットガルト放送交響楽団名誉指揮者。楽団等の常任指揮者には就いていないものの、一流オーケストラの定期演奏会やニューイヤーコンサートなど客演の依頼が来ると応じている。
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略歴 [編集]
ノール=パ・ド・カレー地域圏のヴァジエール(Waziers)出身。8歳の時にドゥーエ音楽院に入学しピアノを学ぶ。11歳でパリ音楽院に進学。当初トランペットを学んでいたが指揮に興味をもち和声法をモーリス・デュリュフレに、指揮法をアンドレ・クリュイタンスほかに師事。
1946年マルセイユ歌劇場でデビュー。その後、フランス国内の数多くの小さな歌劇場で指揮を執った後、オペラ=コミック座でリヒャルト・シュトラウスの『カプリッチョ』を指揮してパリデビューを果たす。1961年にはコヴェントガーデン王立歌劇場でイギリス・デビューを果たした後、1962年にウィーン国立歌劇場、1960年代後半にニューヨーク市・メトロポリタン歌劇場やミラノ・スカラ座にも初登場。一時オペラ座の音楽監督。ウィーン交響楽団、シュトゥットガルト放送交響楽団の首席客演指揮者を務め、現在ではともに名誉指揮者。1992年にはベルリン・フィルのヴァルトビューネ野外コンサートを指揮。
現代の巨匠 [編集]
オーケストラの美質を最大限に引きだす指揮者として知られる。特にフランスのオーケストラやウィーン・フィルとは相性がよく、品格溢れる芸術を生み出している。ウィーン交響楽団、シュターツカペレ・ドレスデン、ベルリン・ドイツ交響楽団などに頻繁に客演。
レパートリーは広く、オペラやフランス音楽のほか、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーなどの所謂「ドイツもの」も一級品である。特にブルックナーの演奏は、欧州で評価が高い。(ウィーン交響楽団を指揮した交響曲第8番のライブ録音がある。)パリ・オペラ座でのごく短期間以外に常任のポストに就いたことがなく、録音も多くないことから長らく地味な存在とされてきたが[1]、老境に入って評価がうなぎのぼりとなっている。
フランス音楽の大家 [編集]
オペラを別にすれば、フランス音楽の専門家として最も有名で、とりわけフランシス・プーランクと縁が深い。プーランクの歌劇『人間の声』をオペラ=コミック座で1959年に初演し、1963年には『7つのレスポンソリウム(Sept répons des ténèbres)』を初演している。1999年にはプーランク生誕100周年を記念して、一連の演奏会を催した。
マリア・カラスとの関係 [編集]
1962年にマリア・カラスと初共演。その後も多くの機会で共演した。ジョルジュ・ビゼーの『カルメン』や、ジャコモ・プッチーニの『トスカ』の録音は名盤と呼ばれ、高い評価を得ている。
フィラデルフィア管弦楽団との関係 [編集]
米国のオーケストラのなかで特に関係が深いのがフィラデルフィア管弦楽団である。特に1990年代は、毎年のように定期演奏会に登場している。近年、老境に入って日本国内で評価がうなぎのぼりになる数十年前からフィラデルフィアでは最も人気の高いゲスト指揮者の一人である。ベートーベン交響曲第7番、「ばらの騎士」組曲、「シェヘラザード」組曲など、フランス音楽以外の作品を多く指揮した。
ウィーン・フィルとの関係 [編集]
1963年より、頻繁に定期演奏会他に登場しているほか、2008年と2010年にはニューイヤーコンサートを指揮した。2008年には、ウィーンの夏の風物詩であるシェーンブルン宮殿「夏の夜のコンサート」も指揮している。また、2010年秋のウィーン・フィル来日公演において、小澤征爾(癌による)の代役だったエサ=ペッカ・サロネンが出演をキャンセルしたため、急遽来日してシューベルトの交響曲第2番やベートーヴェンの「英雄」を指揮した。来日時、小澤征爾とともにウィーン・フィル名誉団員の称号を贈られた。
来日記録 [編集]
1967年に読売日本交響楽団に客演。その後も1970年、1998年、2001年にパリ管弦楽団と、1988年にパリ・オペラ座管弦楽団と、1989年にウィーン交響楽団と、2010年にウィーン・フィルと来日した。
脚注 [編集]
- ^ たとえば、「レコード芸術」誌2001年3月号特集「2001年をリードする指揮者」では、5人の評論家の座談会によって老若64人の指揮者の名前が挙げられているが、プレートルはこの中に含まれていなかった
リンク [編集]
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