オットー・フォン・ハプスブルク

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オットー・フォン・ハプスブルク
Otto von Habsburg
Otto Habsburg 001.jpg
オットー・フォン・ハプスブルク(2004年)
続柄 カール1世第1皇子
全名 Franz Josef Otto Robert Maria Anton Karl Max Heinrich Sixtus Xavier Felix René Ludwig Gaetano Pius Ignazius von Österreich
身位 大公皇太子→帝政廃止
敬称 殿下→帝政廃止
出生 1912年11月20日
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国ライヒェナウ・アン・デア・ラックス
死去 2011年7月4日(満98歳没)
ドイツの旗 ドイツバイエルン州ペッキング
埋葬

2011年7月16日(肉体) 2011年7月17日(心臓)
オーストリアの旗 オーストリアウィーンカプツィーナー納骨堂(肉体)

ハンガリーの旗 ハンガリーパンノンハルマの大修道院(心臓)
配偶者 レギーナ・フォン・ザクセン=マイニンゲン(1951年 - 2010年、死別)
子女 アンドレア
モニカ
ミカエラ
ガブリエラ
ヴァルブルガ
カール
ゲオルク
父親 カール1世
母親 ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ
役職 欧州議会議員(ドイツ選出)
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オットー・フォン・ハプスブルクOtto von Habsburg, 1912年11月20日 - 2011年7月4日)は、オーストリア=ハンガリー帝国1918年に帝政廃止)の皇太子。1930年代のオーストリアにおける君主制復活運動を指導し、第二次世界大戦中には「ドナウ連邦」計画を、戦後はヨーロッパの統合を提唱した。欧州議会議員国際汎ヨーロッパ連合国際会長を務めるなど、汎ヨーロッパ的に活動した政治家でもある。

最後の皇帝カール1世と皇后ツィタの長子で、ドイツオーストリアハンガリークロアチアの市民権を持っていた。

生涯[編集]

幼少期[編集]

1916年、当時4歳の皇太子オットー。父カール1世の戴冠式への参列に向かう場面を描いたもの。

1912年、カール1世(当時は大公)とツィタの長子として誕生した。老齢の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は唯一の息子ルドルフ皇太子が情死し、皇位継承者に指名した甥のフランツ・フェルディナント大公はボヘミアの伯爵家出身(皇后・大公妃としては身分不相応)のゾフィー・ホテクと結婚しており、ブルボン家の血を引くツィタとの子であるオットーの誕生をことのほか喜び、随喜の涙を流したほどであった。

フランツ・フェルディナント大公は1914年サラエヴォ事件で暗殺され、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発するが、これによってカール大公が新たに皇位継承者となった。大戦さなかの1916年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は死去し、父カールが皇帝に即位、オットーも皇太子になった。しかし、1918年にオーストリアは敗北し、帝国は崩壊した。カール1世は皇帝の地位を失い、家族とともに国外へ逃れた。時に6歳であったオットーはこの後、主にスペイン王国で育っていった。母ツィタはオットーに多くの言語を学ばせた。それは、息子がいつの日か非常に多くの国(旧ハプスブルク君主国)を統治するかもしれないと期待してのことであった。その甲斐あってオットーは、ドイツ語、ハンガリー語、クロアチア語、英語、スペイン語、フランス語、ラテン語を流暢に話すようになった。やがて父カール1世は1922年に死の床についたが、その際、母ツィタは9歳のオットーにこう言った。「お父様は今、永遠の眠りに就かれました。あなたは今、皇帝および王となったのです。」と[1]

1930年代前半[編集]

1932年の暮れ、オットーはベルリンで博士論文のための研究をしており、そこでドイツの政治家たちの知遇を得ていた。台頭しつつあった右翼の男、アドルフ・ヒトラーの注目を惹いてもいた。ヒトラーは、オーストリアをドイツに併合する助けになりそうな傀儡君主にできるかもしれないと見ていたのであった。

父のカール1世がハンガリーの王位に就こうとした二回の試みから十年そこそこしか経っておらず、その遺児であるオットーを期待を持って見守るハンガリー人たちもいた。ハンガリーの新聞は、王政復古の可能性について何度か記事にした。

イタリアファシスト党の統領であるベニート・ムッソリーニは、母のツィタとオットーに対して、ハプスブルク家の再興は自分たちの共通の目標になりうると説得を試みた。1932年にイタリアの新聞は、中欧の支配者としてはヒトラーよりもハプスブルク家のほうが良いという意見を掲載し、間接的にハプスブルク家の王政復古を推し進めた。ムッソリーニはツィタをローマに招き、イタリアの王位継承権のある王女がオットーと結婚するのを見たいと彼女に話した。このような縁談は1930年代初頭のヨーロッパの新聞では、仮に誤報であれ、定期的に流された。

アンシュルス前後[編集]

オットーは、ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)を阻もうとしていた。1937年の終わりから1938年の始めにかけて、オットーは自分の話に耳を傾ける者すべてに、ヒトラーをウィーンから遠ざけておくにはハプスブルク家の再興しかない、と口にしていた。1937年の11月20日はオットーの25歳の誕生日であったが、この日ウィーンの街は、旧帝国を象徴する色である黒と金で飾り立てられた。ヒトラーの最後通牒が来た直後、オットーは政府の首班として尽力することをオーストリアのクルト・シュシュニック首相に申し出た。シュシュニック首相はオットーの申し出を丁重に断ったが、その理由は、ハプスブルク家の復興は即座にドイツの攻撃を招くから自殺行為になるだろう、とドイツに言われたことによるものだった。結局のところ、オットーが王位に就くよう頼まれたことはなかったが、それと関わりなくドイツはオーストリアの地へ侵攻してきたのであった。ヒトラーによる一連のオーストリア侵略計画は、オットー作戦ドイツ語版と呼ばれていた。

第二次世界大戦[編集]

第二次世界大戦中、オーストリアがナチス・ドイツに併合された後、ナチス体制はオットーを死刑にすることを宣告した。ルドルフ・ヘスは、オットーを捕らえた場合、すぐに処刑を実行するように命じた。ヒトラーの指示によって、彼個人とハプスブルク家の財産は収用され、大戦が終わった後も戻ってきていない。1940年フランスがドイツ軍によって占領されると、オットーの家族はパリから退去してポルトガルに逃れた。そして自身の安全のために、オットーはヨーロッパ大陸からアメリカに発ち、1940年から1944年までワシントンDCに住んだ。1941年、ヒトラーによって母と弟たちともどもオーストリアの市民権を奪われ、無国籍となった。アメリカへの戦時亡命中に、オットーとその弟たちはフランクリン・ルーズベルト大統領と連邦政府に接触し、祖国解放のためにアメリカ軍の中から「オーストリア部隊」を創設しようと試みるが、実現することはなかった。しかしながらオットーは、オーストリアの都市、特に首都ウィーンへの爆撃を、アメリカに中止あるいは制限させることに成功した。

また、オットーは、保守的な「ドナウ連邦」計画(実質的にオーストリア=ハンガリー帝国の回復である)について、英国のウィンストン・チャーチル首相の支持を得た。しかし、ソビエト連邦ヨシフ・スターリンによってこれらの計画は頓挫し、実現することはなかった。

大戦の終末期になるとオットーはヨーロッパに戻り、フランスとスペインに数年間住んだ。大戦後の1945年、帝政廃止後の初代首相であるカール・レンナーがオーストリア政府の再建に乗り出すと、オットーは彼をソビエト連邦の手先だと糾弾してその新政権樹立の妨害を試みた。しかし、レンナーがソ連軍の妨害を阻止して自由選挙を成功させたため、かえってオットーの信用は低下した。1961年にはオーストリア共和国への敵対行為を行わないこと、帝位継承権を放棄することを誓約して、国外追放処分を解除された。95歳の誕生日に近づいた際の2007年のインタビューで、オットーは、次のように述べている。

"これは、たいへんな不名誉でした。できることなら、私は決してそれに署名したくありませんでした。彼らは私に政治を控えるよう求めました。私は、遵守を夢見ていませんでした。政治というアヘンを味わったら、決してそれを取り除くことはありません。"

オットーは、オーストリア帝位継承権は放棄したものの、その他の多くの王位継承権は保持し続けたし、実際にその後もハンガリー王などを名乗り続けた。

政治家として[編集]

演説するオットー

1978年、オットーはドイツ連邦共和国の市民になり、公式の名前を「オットー・フォン・ハプスブルク」とした。オーストリアでは貴族の称号を「フォン」の名乗りに至るまで一切認めていないため、「オットー・ハプスブルク」または「オットー・ハプスブルク=ロートリンゲン」が法律上の名前であった。そして翌1979年から1999年までの20年間にわたり、ドイツ選出の欧州議会議員キリスト教社会同盟所属)を務めた。初当選の時点でオットーはすでに67歳となっていた。

1989年、多数の東ドイツ市民がハンガリー・オーストリア国境を越えて西ドイツに亡命する汎ヨーロッパ・ピクニックが起こると、オットーは西側からこれを支援した。また、東欧革命の後には欧州連合を東側に拡大することを唱えた。

ユーゴスラビアが解体された時、オットーはヨーロッパ諸国に働きかけ、新しく独立したクロアチアを国家として承認するようにさせた。この時セルビアの民兵組織アルカン・タイガーの指導者の一人が、バルカン半島の政治に鼻を突っ込んだ際にフランツ・フェルディナント大公夫妻に何が起きたかに触れてオットーを脅迫した。それに対してオットーは、自身サラエボに乗り込むことで応えた。この時オットーは「この悲劇の循環が閉じるのを祈って」サラエボに赴いたのだと語っている。

古きよき保守派」と評価されており、先祖代々伝わるヨーロッパ統一の夢は、中世的な帝国的思想であると非難されることもあるが、欧州連合による欧州統一が夢物語ではなくなるにつれ、そのコスモポリタニズムが注目されている。

晩年[編集]

1922年から84年間務めていた家長の座を、高齢のため2006年いっぱいで長男に譲り、2007年からカールがハプスブルク家当主となった。

2011年7月4日ドイツ南部ペッキングの自宅にて98歳で死去した。2009年に階段から落ちて以来、体調が万全でなかったという[2]

葬儀は7月16日、故国オーストリア・ウィーンシュテファン大聖堂において、ウィーン大司教クリストフ・シェーンボルンの司式により営まれた。葬儀には欧州議会議長イェジ・ブゼクの他、スウェーデン国王カール16世グスタフルクセンブルク大公アンリリヒテンシュタインハンス・アダム2世ブルガリア元国王かつ元首相のシメオン・サクスコブルクゴツキルーマニアの元国王ミハイ1世などの各国君主・元君主の他、イギリススペインベルギーバチカンからも国王やローマ教皇の代理が出席し、帝国時代の伝統衣装を身にまとった市民ら約1万人が参列した[3][4]。ハプスブルク家の伝統に従い、遺体は同市のカプツィーナー納骨堂に安置され、心臓はハンガリー北西部のパンノンハルマの大修道院に翌17日に納められた。

オットー・フォン・ハプスブルクの死と葬儀英語版を参照。

子女[編集]

1951年ザクセン=マイニンゲン公家の当主ゲオルク公子の娘レギーナ1925年 - 2010年)と結婚した。2人の間には2男5女(モニカとミカエラは双生児の姉妹)が生まれており、ハプスブルク家の多産の伝統を守ったとも見なせる。死ぬまでに、22人の孫および2人の曽孫がいた。

出典・脚注[編集]

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  1. ^ Habsburgs Erbe zerfiel und erlebte dennoch eine Renaissance”. Diepresse.com (2011年5月27日). 2011年7月8日閲覧。
  2. ^ 最後の皇帝の長男O.ハプスブルク氏死去 日刊スポーツ 2011年7月4日閲覧
  3. ^ さらば最後の皇太子=O・ハプスブルク氏葬儀に1万人―ウィーン 時事通信 2015年3月15日閲覧
  4. ^ http://www.youtube.com/watch?v=JdLRiX5Odyo

参考文献[編集]

ティモシー・スナイダー著、池田年穂訳『赤い大公――ハプスブルク家と東欧の20世紀』(慶応義塾大学出版会、2014年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

オットー・フォン・ハプスブルク
ハプスブルク=ロートリンゲン家

1912年11月20日 - 2011年7月4日

先代:
0000000カール1世0000000
ハプスブルク=ロートリンゲン家家長
1922年 - 2006年
次代:
0000000カール0000000
先代:
カール1世
金羊毛騎士団
1922年4月1日 - 2000年11月30日
次代:
カール
先代:
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー
国際汎ヨーロッパ連合国際会長
1973年 - 2004年
次代:
アラン・テルノワール