カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン

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カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲンC(K)arl Ludwig Habsburg-Lothringen, 1918年3月10日 バーデン・バイ・ウィーン - 2007年12月11日 ブリュッセル)は、ベルギーカナダの実業家。オーストリアの旧統治者家門ハプスブルク=ロートリンゲン家の一員。最後のオーストリア皇帝福者カール1世の四男。全名はカール・ルートヴィヒ・マリア・フランツ・ヨーゼフ・ミヒャエル・ガブリエル・アントニウス・ロベルト・シュテファン・ピウス・グレゴール・イグナティウス・マルクス・ダヴィアノ(Karl Ludwig Maria Franz Joseph Michael Gabriel Antonius Robert Stephan Pius Gregor Ignatius Markus d'Aviano)。

生涯[編集]

皇帝カール1世ととその妻でパルマ公ロベルト1世の娘であるツィタ皇后の間の第5子、四男として帝政崩壊の半年前に生まれ、誕生時には101発の祝砲が鳴らされた。両親の亡命先のマデイラ島で幼少期を過ごし、1930年代には長兄で家長のオットーの援助でベルギールーヴェン・カトリック大学で学んでいる。1940年にナチス・ドイツ軍の侵攻に伴い、家族とともに北米へ避難し、母や未成年の弟妹たちと一緒にカナダのケベックに落ち着いた[1]。この時期、法学、政治学、経済学の博士号を取得している[2]

1943年にアメリカ軍に入隊し、フランクリン・ルーズヴェルト大統領の命令で、中立国ポルトガルにおいてハンガリーと秘密裏に和平交渉を行ったが、失敗に終わった。1944年にはノルマンディー上陸作戦にも参加し、1947年には陸軍少佐に昇進した。その後、ベルギー企業のアメリカ支社に入社し、ニューヨークワシントンで働いた[3]

1950年1月17日にベルギーのエノー州ブロイユBelœil)で、リーニュ公ウジェーヌ2世の娘ヨランド(1923年 - )と結婚し、間に4人の子供をもうけた。1958年に妻子とともにヨーロッパに戻り、ブリュッセルソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジック社(Société Générale de Belgique)に勤務した。のちに同社のカナダにおける子会社ジェンスター(Genstar)社を創設し、1986年に退職するまでジェンスター社の取締役を務めた。カール・ルートヴィヒはジェンスターに様々な部門を創設して会社規模を大きくし、退職するまでに同社の社員を2000人以上に増やした[3][4]

カール・ルートヴィヒはすぐ上の兄フェリックスとともに、1919年に制定されたハプスブルク法(Habsburgergesetz)によってオーストリア共和国政府に没収されたハプスブルク家の資産の一部を返還するよう求めていた。この資産の一部とは、1935年から1936年にかけ、ハプスブルク家と共和国政府が一時的に和解した際にハプスブルク家側に弁済されたものであるが、1938年のアンシュルスに際してナチ党政府に没収され、それ以来ハプスブルク側に返還されていない[3]

長兄オットーと違い、カール・ルートヴィヒはオーストリア市民権の取得と引き換えに共和国政府の求める帝位請求権放棄とハプスブルク家の成員たる身分の放棄の宣言をしようとはしなかったため、オーストリア政府に入国を禁じられていた[5]。しかし1996年3月26日に、オーストリア政府の譲歩により、帝位請求権放棄に言及しない形で共和国政府に忠誠を誓うことを兄フェリックスと一緒に宣言し[6]、同年4月16日にオーストリア議会も彼ら兄弟に対するパスポートと入国許可証の付与を承認した[7]

2007年に死去し、翌2008年1月12日に皇帝一族の眠るウィーンカプツィーナー納骨堂の、母ツィタ皇后の棺の傍に埋葬された。

子女[編集]

  • ルドルフ・マリア・カール・オイゲン・アンナ・アントニウス・マルクス・ダヴィアノ(1950年 - ) - 1976年、ヴィランファーニュ・ド・ヴォジェルサンク男爵夫人エレーヌと結婚
  • アレクサンドラ・マリア・アンナ・フィリッパ・オットーニア(1952年 - ) - 1984年、 Hector Riesleと結婚
  • カール・クリスティアン・マリア・アンナ・ルドルフ・アントン・マルクス・ダヴィアノ(1954年 - ) - 1982年、ルクセンブルク大公女マリー=アストリッド(ルクセンブルク大公ジャンの娘)と結婚
  • マリア・コンスタンツァ・アンナ・ロザリオ・ロベルタ(1957年 - ) - 1994年、アウエルスぺルク=トラウトゾーン侯家家長フランツ・ヨーゼフと結婚

脚注[編集]

  1. ^ 北米に移住した際、「カール」の綴りを「Karl」から「Carl」に変えている。
  2. ^ NEWS-Serie Teil 3: Österreichs Stunde Null. Am 12.11.1918 startete der neue Kleinstaat. In: News, 28. März 2008 (unter Berufung auf mehrere angeführte Quellen, unter ihnen auch Wikipedia). Abgerufen am 19. September 2010.
  3. ^ a b c Carl Ludwig Habsburg-Lothringen ist tot. In: Kurier/APA, 15. Dezember 2007. Abgerufen am 19. September 2010.
  4. ^ Portrait: Carl Ludwig Habsburg-Lothringen. In: Wiener Zeitung, Printausgabe, 15. Dezember 2007. Abgerufen am 19. September 2010.
  5. ^ Eine (fast) normale Familie: Die Habsburger. In: 3sat-Dokumentation, August 2010. Abgerufen am 19. September 2010.
  6. ^ Gedye, Robin (1996年4月15日). “Austria to end law barring Habsburgs from family home”. London: Daily Telegraph. オリジナル2003年9月27日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20030927174103/http://www.telegraph.co.uk/htmlContent.jhtml?html=/archive/1996/04/15/waust15.html 2008年2月15日閲覧。 
  7. ^ Hauptausschuss: Verzichtserklärungen des Hauses Habsburgs ausreichend. Nationalratspräsident Fischer begrüsst einstimmige Entscheidung. In: Parlamentskorrespondenz vom 16. April 1996, Nr. 196, auf der Website des Österreichischen Parlaments. Abgerufen am 19. September 2010.