カール・ハウスホーファー

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カール・ハウスホーファー (1910年)

カール・エルンスト・ハウスホーファー(Karl Ernst Haushofer, 1869年8月27日 - 1946年3月13日)はドイツ地政学者。

経歴[編集]

軍歴[編集]

1869年8月27日、バイエルン王国の首都ミュンヘンにて出生。1887年ドイツ帝国バイエルン王国(1871年にドイツ帝国の領邦となるが、王国を維持)第一野砲連隊「Prinzregent Luitpold」に入営。ドイツ陸軍士官学校、野砲学校を経てPreußische Kriegsakademie(ドイツ帝国陸軍大学校)の参謀課程を修める。1896年にはユダヤ人の娘マルタと結婚し、二人の子をもうけた。1903年より同陸軍大学校にて戦史(軍事史)を教える。

1908年(明治41年)から1910年(明治43年)まで、日本のドイツ大使館武官として勤務。1911年から1913年に博士論文「日本の軍事力、世界における地位、将来に関わる考察」をまとめ、Doktor der Philosophie(日本では哲学博士に相当)を取得。第一次世界大戦には西部戦線に従軍しGeneralmajor(ドイツ陸軍少将)に昇進。

ヒトラーとの出会い[編集]

戦後はミュンヘン大学にて大学教授資格を取得。ハウスホーファーは地政学の創始者の一人である。1919年にハウスホーファーは教え子としてルドルフ・ヘスと知り合い、1921年にはアドルフ・ヒトラーと出会った。1923年のミュンヘン一揆の際には逃亡するヘスを一時匿い、ランツベルク刑務所に収監されていたヒトラーと面会した。ヒトラーはハウスホーファーの生存圏の理論に興味を覚え、「生存圏を有しない民族であるドイツ人は、生存するために軍事的な拡張政策を進めねばならない」として、ナチス党の政策に取り入れた。しかしハウスホーファーは「(ヒトラーが)それら(地政学)の概念を理解していないし、理解するための正しい展望も持ち合わせていないという印象を受けたし、そう確信した」と見てとり、フリードリヒ・ラッツェルなどの地政学基礎の講義をしようとしたが、ヒトラーは拒絶した。ハウスホーファーはこれをヒトラーが「正規の教育を受けた者に対して、半独学者特有の不信感を抱いている」事によるものであるとみていた[1]

ナチス政権下[編集]

ナチス党が政権に就いた1933年にはミュンヘン大学の正教授に就任した。1934年から1937年までドイツ学士院総裁を務め、この間、駐独大使館付武官であった大島浩とも接触してドイツと日本の政治的連携の確立に関与した。

1939年親衛隊が運営する、ドイツ民族対策本部(ドイツ国籍を有しない国外ドイツ人との連携機関)に籍を置く。

1941年5月10日に教え子のヘスが、イギリスとの単独和平を目論みメッサーシュミットBf110で渡英した際には、事前にヘスと会っていたこと、息子のアルブレヒトen)がイギリスにおける接触先としてハミルトン公ダグラス・ダグラス=ハミルトンを紹介していたことが問題視された。そして同年独ソ戦が開始されたことから、地政学上の見地から「ソ連との関係を強めるべき」と主張したハウスホーファーとヒトラーの関係は疎遠になる。さらにアルブレヒトが1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に関わっていたことで秘密警察の監視下に入った。アルブレヒトは逃走していたが、同年12月に逮捕された。1945年4月末、ベルリン陥落の直前に処刑された。

死去[編集]

第二次世界大戦期を通じて連合国の間では、ハウスホーファーがヒトラーの侵略政策に大きな影響を与えたという見方が広まった。ドナルド・ノートンはこうした見方をされたハウスホーファーを「ヒトラーの悪魔的天才」「(Hitler's evil genius)」と評している。ドイツ敗戦後のニュルンベルク裁判でも重要戦争犯罪人としてハウスホーファーを裁く動きがあったが、高齢の上に病身であったこと、ヒトラーの政策への関与の立証が困難であった事などから見送られた[2]

敗戦後の1946年に妻とヒ素を飲んで服毒自殺を図る。その際ハウスホーファーはヒ素では死にきれず、割腹自殺に切り替えて死去。理由などは不明である。

思想と影響[編集]

ハウスホーファーはソビエト連邦とドイツの同盟の主唱者の一人であり、グレゴール・シュトラッサーナチス左派エルンスト・ニーキッシュのようなナショナル・ボリシェヴィズムの哲学、一部のドイツ共産党幹部までにも大きな影響を与えた。

日本については、日本にヨーロッパにおけるドイツの役割を与えた著作『太平洋の地政学』(Geopolitik des pazifischen Ozeans) を残した。日本滞在中に日本語はもちろん、朝鮮語中国語を修め、広くアジアを旅しヒンズー教仏教の経典、またアーリア民族が多く住む北インドイランにも詳しく、アジア神秘主義の権威でもあった。ヒトラー及びナチス党はハウスホーファーの理論に少なからぬ影響を受けた。


カール・エルンスト・ハウスホーファーは、以下を主張した。

  1. ラッツェルの「レーベンスラウム」(生存圏)と国家拡大理論
  2. チェーレンの「アウタルキー」(経済自足論)
  3. マッキンダーのハートランド論による「ランドパワーとソフトパワーの対立」
  4. パン・リージョン(統合地域)
  5. ソ連とのランドパワーによる世界支配

ハウスホーファーは世界をいくつかのブロックにわけて、アメリカ、ソ連、日本、ドイツなどがそれぞれの地域で主要な地位を占め、秩序を維持すべきとした。勢力均衡理論に基づいて世界視野での勢力均衡を確立することを提唱しているものといえるが、それらをとりまとめる国がドイツであるとした。

受章歴[編集]

参考資料[編集]

最近のリプリント
  • カルル・ハウスホーファー、『太平洋地政治学・地理歴史相互関係の研究』、日本青年外交協会研究部訳(服田彰三)、東京: 日本青年外交協会、昭和15年。リプリント:『アジア学叢書』、第132巻、東京:大空社、2005年5月27日。
ハウスホーファー研究

脚注[編集]

  1. ^ 1945年10月17日、ニュルンベルクにおけるハウスホーファーの証言、ジョン・トーランド永井淳訳「アドルフ・ヒトラー」(集英社文庫)第一巻、393-394p ISBN 978-4087601800
  2. ^ シュパング、2001年、4p

関連項目[編集]

外部リンク[編集]