昭和研究会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和研究会(しょうわけんきゅうかい)は、近衛文麿の私的ブレーントラスト(政策研究団体)。主宰者は近衛のブレーンの一人だった後藤隆之助1933年昭和8年)12月27日設立 – 1940年(昭和15年)11月19日廃止。ただし、正式な組織として発足手続が取られたのは1936年(昭和11年)11月に入ってからである。

概要[編集]

後藤隆之助昭和恐慌の中で窮乏する農村救済を元学友の近衛文麿に訴え、1933年8月1日に時事問題懇談会を主催する後藤事務所を創設し、蠟山政道とともに組織の綱領をつくる。そして、12月27日にこの会を「昭和研究会」と命名して「憲法の範囲内の改革」「既成政党反対」を掲げた。当初は近衛を囲む政治・経済・社会に関する私的勉強会の色合いが強く、組織と呼べるような形態にはなっていなかった。

1936年に入って近衛が首相候補として浮上してくると、正式な団体としての結成が行われ、11月に設立趣意書が発表された。その事業要綱には「非常時局を円滑に収拾し、わが国力の充実発展を期するため、外交、国防、経済、社会、教育、行政等の各分野にわたり、刷新の方策を調査研究する」ことを謳った。常任委員及びこれを補佐する委員の下に部会(最盛期で10あった)が設置され、各部会ごとに専門委員会や研究会が組織されて各界のメンバーが調査研究にあたった。これは近衛文麿(後に近衛内閣)に答申された他、一般向けの書籍の形でも公開された。

東亜協同体論新体制運動促進などを会の主張として掲げ、後の近衛による「東亜新秩序」・「大政翼賛会」に大きな影響を与えることとなるが、同時に平沼騏一郎など国粋主義を掲げる政治家・官僚・右翼から「アカ」などの批判・攻撃となって現れるようになる。また、新体制運動などに対しても会員間で意見の相違(大政翼賛会を「政事結社」とするか「公事結社」とするか)が現れるようになった。このため、大政翼賛会に発展的に解消するという名目によって1940年11月に解散した。

戦後[編集]

昭和研究会のメンバーが同会から発展する形で独自に結成した「昭和同人会」や「昭和塾」は研究会解散後も活動を継続したが、1941年ゾルゲ事件で昭和塾の幹部である尾崎秀実が逮捕されたことによって解散されることになった。なお、「昭和同人会」は戦後に後藤らによって再建されることとなる。

経緯[編集]

前身[編集]

大正期から青年団農業問題に取り組んでいた後藤隆之助昭和恐慌の中で窮乏する農村救済を元学友の近衛文麿に訴えていく過程の中でその信任を得ていくことになる。近衛と後藤は満州事変後の激変する内外の情勢に対応する為の政策研究団体の必要性を感じて構想作りに入る。

1932年(昭和7年)6月、後藤は欧米視察に出発、ベルリンでアドルフ・ヒトラーの演説を聞き、モスクワではレーニン廟上のスターリンの銅像の数歩近くまで近づくことができた。またアメリカではフランクリン・ルーズヴェルト大統領のブレーン・トラストニューディール政策に感銘を受ける。

欧米各国歴訪から帰還した1933年5月、社会大衆党亀井貫一郎から国内の情勢を聞き、親友近衛をサポートするべく、国策全般についての研究組織を立ち上げる決意を固める。同年8月1日、後藤は新団体の母体となる時事問題懇談会を主催する個人事務所である後藤事務所を青山の志賀直方邸の隣に創設する。後藤と蠟山政道が組織の綱領作りにあたった。近衛文麿を中心に霞山会館で会合が開かれ、海軍から石川信吾、陸軍から鈴木貞一、社会大衆党から麻生久・亀井、などを招いた。

12月27日に発起人会を霞山会館で開いた。集まったのは、有馬頼寧河合栄治郎佐藤寛次那須皓前田多門井川忠雄酒井三郎である。これらの人々の推薦で、新木栄吉河上丈太郎松岡駒吉関口泰、田沢義鋪、田辺加多丸、東畑精一田島道治を加えることが決まった。そして、この会を「昭和研究会」と命名した。

蝋山が「昭和国策要綱」草案をまとめ、この要綱審議と同時に松井春生が「経済参謀本部論」、三浦鉄太郎・石橋湛山・山崎靖純が「統制経済について」、大蔵公望が「満州問題」をまとめた。またアメリカから帰国した高橋亀吉からニューディール政策について講話を受けた。

1935年(昭和10年)3月5日に移転を決定、国策研究所の創立について後藤隆之助、蝋山、大蔵、井川、酒井、松井が集まり協議して、「(1)現行憲法の範囲内で国内改革をする、(2)既成政党を排撃する、(3)ファシズムに反対する」の3点を根本方針とした。

次の会合には、上記メンバーに佐々弘雄と高橋亀吉が加わり、蝋山とともに高橋が週に2、3回出勤し、政治・経済両部門の柱を持つに至る。蝋山の紹介で谷崎興平、高橋の紹介で岩崎英恭の2人が入所。昭和11年(1936年)には佐々の紹介で大山岩雄が入所した。

発足[編集]

1936年(昭和11年)の二・二六事件後の11月に昭和研究会設立趣意書が発表された。その事業要綱には「非常時局を円滑に収拾し、わが国力の充実発展を期するため、外交、国防、経済、社会、教育、行政等の各分野にわたり、刷新の方策を調査研究する」ことを謳った。このときの常任委員は後藤隆之助蠟山政道賀屋興宣後藤文夫佐々弘雄高橋亀吉那須皓松井春生大蔵公望東畑精一唐沢俊樹田島道治山崎靖純野崎龍七で、委員が青木一男有田八郎石黒忠篤風見章膳桂之助瀧正雄暉峻義等湯沢三千男津島寿一吉田茂 (内務官僚)吉野信次らである。

1937年(昭和12年)6月、第1次近衛内閣が成立。その直後に支那事変が起こると、10月に後藤隆之助と酒井は朝鮮、満州、北支の視察に出かけた。満ソ国境第1線の東寧に鈴木貞一部隊長を訪ね、佐々弘雄の紹介で黒河省甲斐政治奉天平貞蔵に会う。天津では満鉄の石原重高曹汝霖にも会い、北京で同盟通信社の松方三郎と対支政策の根本問題について意見を交わす。

展開[編集]

その後、三木清矢部貞治笠信太郎が常任委員として加わる。また宇都宮徳馬平貞蔵、朝日新聞から大西斎尾崎秀実沢村克人益田豊彦などが委員として参加し、新たな会員を増やしていくことになる。

次第に専門研究会が増加し、1938年には世界政策研究会、政治動向研究会、政治機構研究会、経済情勢研究会、増税研究会、財政金融研究会、予算編成に関する研究会、貿易研究会、農業団体統制研究会、農業政策研究会、労働問題研究会(風早八十二(国体の衣を着けたる共産主義者))、東亜ブロック経済研究会、支那問題研究会、外交問題研究会、文化研究会、教育問題研究会があった。

また、1934年6月7日から七日会が開催されており、1938年4月には唐沢、岸道三、松井春生、千葉三郎、橋本清之助を幹事とする昭和同人会、これと同様の若手グループによる東亜クラブ、佐々弘雄と平貞蔵による昭和塾、全国的な地方組織の結成を目指す壮年団期成同盟、昭和11年末の時局懇談会羽生三七、平井羊三、林広告らを指導者とする若者たちの国民運動研究会など、会の発達と並行して関連団体が発足していく。

大政翼賛会へ[編集]

東亜協同体論新体制運動促進などを会の主張として掲げ、後の近衛による「東亜新秩序」・「大政翼賛会」に大きな影響を与えることとなる。同時に平沼騏一郎など国粋主義を掲げる政治家・官僚・右翼から「アカ」として批判・攻撃されるようになり、経済政策も財界から反対にあう。

また、大政翼賛会を「政事結社」とするか「公事結社」とするかなど、新体制運動などに対しても会員間で意見が対立するようになった。

こういったことから、大政翼賛会に発展的に解消するという名目によって1940年11月に解散した。

大政翼賛会議会局をつくり、そこに解党した各党の議員らを全部押し込めるかたちになったので、議員らの不満がつのり、翼賛会の予算審議で議員らの不満が爆発した。たとえば、小泉純也は後藤隆之介が皇軍を批判し、共産軍に同調しているとして非難した。

組織[編集]

政治部門[編集]

昭和12年3月、政治機構改革研究会が第1回の会合を開き、委員は、唐沢、佐々、松井、中村敬之進、蝋山などであった。その後、会合を重ねるうちに、亀井貫一郎、河野密木村正義、関口泰、長谷川如是閑、橋本清之助、船田中、前田多門らが委員に加わった。

昭和13年7月に「貴族院改革要項」、8月に「内閣制度改革要項」を発表。

昭和15年(1940年)6月、「政治機構改新大綱」を発表する。

経済部門[編集]

経済情勢研究会、財政金融研究会、東亜ブロック経済研究会、労働問題研究会、農村問題研究会を設立する。

昭和12年12月、「民間経済中枢機関試案」を発表。

昭和13年2月、「臨時経済調整庁案要綱」を発表。同年12月「東亜ブロック経済研究覚書」を配布。

昭和14年、「東亜経済ブロックの特質とその世界史的意義」を発表。

昭和15年(1940年)8月に有沢広巳を中心に執筆した「日本経済再編成試案」を公表し、財界に衝撃を与え反対にあう。

世界部門[編集]

昭和11年6月に支那問題委員会の第1回会合が開かれ、当初の委員は青木一男、伊沢道雄、大西斎十河信二高木陸郎坂西利八郎津田静枝土屋計左右油谷恭一、吉岡文六、大蔵公望、風見章、後藤隆之助、瀧正雄、那須皓である。酒井らは若手の下部組織による上級委員会の主導を考え、風見章を委員長に、支那問題研究会をつくった。委員は、尾崎秀実、小沢正元後藤貞治荘原達田中香苗中村常三樋口弘堀江邑一山上正義、大山岩雄、酒井三郎である。

盧溝橋事件勃発後の昭和12年10月には、後藤隆之助と酒井が朝鮮、満州、北支を視察する。同年12月、支那事変収拾第次案を政府に建言する。

文化部門[編集]

昭和12年、世界政策研究会を設置。委員は、永井松三林久治郎古垣鉄郎山川端夫、後藤文夫、大蔵公望、蝋山政道、佐々弘雄、佐藤安之助石田礼助、芦田均、伊藤正徳、有田八郎、松井春生、那須皓、後藤隆之助である。

三木清が『中央公論』(昭和12年1月号)に書いた「日本の現実」という支那事変の文化史的意義についての評論に触発され、毎月1回「七日会」という勉強会を開き、三木清の講義を聞いた。「支那事変の世界史的意義」という講話では、「日本の世界史的使命は、リベラリズム、ファシズムを止揚し、コミュニズムに対抗する根本理念」を把握することであり、これを空間的に言えば「東亜の統一」であり、時間的に言えば「資本主義社会の是正」であった。

こうした三木の思想に感銘を受けた会員たちは文化研究会を設けることを決定し、三木清が委員長になった。委員は、加田哲二三枝博音清水幾太郎中島健蔵菅井準一、福井康順、船山信一らで、のちに佐々弘雄、笠信太郎、矢部貞治が随時加わり、「新日本の思想原理」、「協同主義の哲学的基礎」を作成・発表した。また経済再編成研究会の協力を得て「協同主義の経済倫理」をまとめ昭和15年9月に発表した。

参加者[編集]

常務委員[編集]

委員[編集]

事務局員[編集]

後援者[編集]

略年表[編集]

  • 1933年5月、後藤隆之助が欧米視察から帰国、国策研究会の設立を決意。
  • 1933年10月、青山に後藤隆之助事務所を設立、蝋山政道を中心に研究を開始。
  • 1933年12月、「昭和研究会」の呼称決定。
  • 1934年4月、「昭和国策要綱」の審議終了。
  • 1934年8月、壮年団期成同盟が発足。
  • 1935年3月、丸の内四号館に移転。
  • 1936年11月、「昭和研究会設立趣意書」を発表。
  • 1936年12月、「教育制度改革案」を発表。
  • 1937年7月、「北支事変対策草案」を作成。
  • 1937年9月、「人事行政刷新要綱案」の発表。
  • 1938年1月、事務所拡大。専門研究会を増設。「教育行政機構改革案」決定。
  • 1938年2月、「臨時経済調整庁案要綱」発表。
  • 1938年4月、昭和同人会が発足。
  • 1938年7月、「貴族院改革要項」を発表。
  • 1938年9月、「農業団体統制試案」を発表。昭和塾を開設。
  • 1939年1月、「新日本の思想原理」を発表。
  • 1939年6月、「東亜新秩序建設の基調」を作成。
  • 1940年2月、「食料政策の大綱」を発表。
  • 1940年6月、「政治機構改新大綱」を発表。
  • 1940年8月、「日本経済再編成試案」を発表。「新体制要項」を作成。
  • 1940年10月、「農業改革大綱」を発表。
  • 1940年11月、解散。

評価[編集]

昭和研究会には軍部に代表される既成勢力が立ちはだかったが、昭和研究会は軍部との妥協や軍部の意向を先取り・先棒を担ぐことにより、影響力を行使を図った[1]竹内洋によれば、マイルズ・フレッチャー(ノースカロライナ大学教授)は以下のように評している[1]

蝋山や笠、三木といった昭和研究会の指導者は、戦前期に起こった出来事の単なる犠牲者ではなかったし、また抵抗者でもなかった。1930年代半ばには、かれら知識人たちは影響力を行使したいと望んだからこそ、改革戦略を実行するのに好都合な選択として国家に向かったのである。(中略)かれら知識人たちは、経済の国家統制を強化し、アジアの盟主になるという日本人の使命感を肯定した。振り返ってみると、昭和戦前期は暗い時代だったが、かれらにとっては輝かしい新しい社会という希望を与えてくれる時代だったのである。 — 『知識人とファシズム-近衛新体制と昭和研究会』

参考文献[編集]

  • 酒井三郎『昭和研究会 ある知識人集団の軌跡』(TBSブリタニカ、1979年。講談社文庫、1985年。中公文庫、1992年)
  • マイルス・フレッチャー『知識人とファシズム 近衛新体制と昭和研究会』(竹内洋井上義和訳、柏書房、2011年)
  • Tomohide Ito: Militarismus des Zivilen in Japan 1937–1940: Diskurse und ihre Auswirkungen auf politische Entscheidungsprozesse, (Reihe zur Geschichte Asiens; Bd. 19), München: Iudicium Verlag 2019。
本書は、国策研究会と比較しながら昭和研究会の思考様式、政治行動を分析している。また、国策研究会との関係を社会ネットワーク分析を用いながら定量的に捉えている。分析対象としている政治行動は、電力国家管理法の成立過程(1937-38年)、国民健康保険法の成立過程(1937-38年)、大政翼賛会設立のための準備過程(1940年)における昭研のそれである。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年。ISBN 9784120043000 p103、p104