オットー・シュトラッサー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
オットー・シュトラッサー。1950年代、西ドイツにて

オットー・ヨハン・マクシミリアン・シュトラッサーOtto Johann Maximilian Strasser1897年9月10日1974年8月27日)は、ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党所属。実兄グレゴール・シュトラッサーと共にナチス左派を代表する人物として知られる。

生涯[編集]

ドイツ帝国領邦バイエルン王国バート・ヴィンツハイム出身。第一次世界大戦に従軍した後は義勇軍(フライコール)に参加し、社会主義者達が建国したバイエルン・ソビエト共和国Bayerische Räterepublik)の打倒闘争に参加した。後の著書『Flight from Terror』でオットーはアドルフ・ヒトラーが自分の討伐したこのソビエト共和国側に居たと主張してる。同時期にドイツ社会民主党へ入党し、1920年にはカップ一揆への反対闘争に参加した。しかし急進派のオットーは、ルール地方の労働者暴動を抑圧しようとするSPDの姿を見て反感を持つようになりSPDを離党。1925年にグレゴールが身を置いていたナチ党へ入党した。また新聞でジャーナリストとして働いた。

ワイマール時代[編集]

1918年11月8日、ベルリンの革命に先がけてバイエルンではクルト・アイスナーの共和国が誕生した。国民は事態の急変についてゆけず、オットーも革命の無秩序、行き過ぎ、規律を失った兵士の罵詈雑言を憎み、肩章を剥ぎ取ろうとした赤い腕章の暴徒たちとピストルで渡り合おうとしたり、保養の為にオーバーバイエルンの泥土浴場、アイプリングで開かれていたアイスナーの演説会に居合わせた折には、アイスナーの当局断罪論やドイツ単独戦争責任論に腹を立て、「馬鹿か、ないしは、この世でまたとない良心無き国民の裏切り者」アイスナーに反論するために演壇にかけ上がって激しい罵声の飛び交うなかで演説をぶち、乱闘騒ぎを起こしかけた。しかし、この革命に対するオットーの憎悪感には不思議と古きものへの軽蔑感が入り交じっていた。このスパルタキストにも旧保守主義者にもついて行けぬ漠然とした彼の心情が後に保守革命となり明確に概念化されるにいたるには、まだ数年待たなければならない。 1919年4月7日のバイエルン・レーテ共和国の布告、共産主義政権の樹立に伴って、ミュンヘンの情勢は左傾化の一途を辿る。プロレタリア独裁を目指す共産主義革命についてゆけぬオットーは、躊躇することなく直ちにウルムでエップ大佐の義勇軍に加わり、SPDの国防相ノスケを総帥とする正規軍と共に、黒い菱形の下地にライオンの模様をあしらった「エップ義勇軍」の腕章をつけミュンヘンに進撃し、赤都を赤軍から解放する。ヒトラーがこの時白軍に参加していなかった点は、後年オットーがヒトラーはこの折スパルタキストの腕章を巻いていたとして、ヒトラーを攻撃の種とするところである。

この頃オットーは、SPDの圏内で行動していた。ベルリン大学では学徒兵士のための待遇改善要求を掲げる「ドイツ出征学徒団体」を結成して、そのイェーナでの全国会議で会長に選ばれたり、SPDの機関誌「前進」の学生向けの付録版の校正をやったり、労働者向けに歴史やドイツ語や速記術の講演をしたりしている。1920年3月13日、反動政治家カップエアハルト旅団らと組んでクーデターを起こした折りには、反カップ派の自警団に加わり、100人隊の隊長になり、ベルリン郊外のシュテークリッツの防衛に参加した。しかし、SPDに対する彼の帰依はそれほど根が深いものではなかった。党内で行動しながらもしだいに党に対する疑念が募って行く。社会化政策に積極的でなく、ヴェルサイユ条約の履行政策を続けブルジョア憲法を採用する党の方針に不満を持ち、共産主義革命とは違った方向で行動的な革命性を求めるかれの燃えるような心情は、妥協の日常性に終始し革命精神を失った党の事務的官僚化についてゆくことはできなかった。こうしてオットーは「舵を失った船ような気持ちを抱いて」党を去ってゆく。

ヒトラーとの出会い[編集]

オットーとヒトラーの宿命的な出会いは、1920年10月に始まる。当時、SPDから別れて新しい道を模索していたオットーの所に、ランツフートで薬剤師をしていた長兄のグレゴールから電話がかかり、ルーデンドルフやヒトラーと自分との会談に立ち会ってみないかといってきたのがきっかけである。 その頃、グレゴールはナチ党に入党していて「ニーダーバイエルンナショナル志操兵士団体」を結成し、2000人の歩兵野砲三門、15センチ曲射砲一門を自分の支配下におき、ミュンヘン進撃の折にはエップ義勇軍と合流して赤軍と戦った戦歴をもつ、ナチの大物だった。 オットーにしてみればヒトラーとはどんな男か興味があったし、若い下級士官の彼にとっては、世界大戦の折の参謀次長として辣腕を振ったルーデンドルフ将軍に会えるのも魅力的なことだった。兄の家に着いてみると二人を乗せた車がすでに止められていた。 初めて会った折の当時31歳のヒトラーの印象をオットーは書き留めている。

「彼の顔はまだ思想に裏打ちされてはいなかった。ヒトラーは他の若者同様小壮だった。その青白い顔は新鮮な空気と体操が欠けていることを示していた。」

将軍が発言する度に椅子から半分腰を浮かして中腰になったままの姿勢で

「はっ、閣下!」とか

「閣下の御意見通りであります!」 をやたら乱発する大戦の折の伍長勤務ヒトラーは、堂々ふんぞりかえったルーデンドルフのどこか近侍のような卑屈な印象を与え、大戦の折に経験したあの嫌な下士官根性をオットーに思い出させた。食事の折にヒトラーが酒を飲まなかったのも酒を嗜むオットーには意外だった。

「彼は禁酒家でね」

とグレゴールが弟に説明する。自分の話を一方的に相手に喋りまくるドグマティックなヒトラーとオットーとは、はじめから反りが会わなかった。不吉な虫の報せというか、グレゴールの妻エルゼも女性特有の勘からヒトラーが好きにはなれなかった。


会話は大戦の話からはじまる。オットーはルーデンドルフにマックス・ヨーゼフ勲章叙勲該当者に申告された当時のいきさつを話すが、自分が伍長勤務に過ぎないことに劣等感を持ったのか、ヒトラーはこの折口をはさまず、自分が喋る出番の機会を伺いながら敵意を含んだ沈黙を守る。やがて話は、党の話に移った。そこでオットーがヒトラーにナチスの綱領を尋ねると、ヒトラーは

「綱領、綱領ね。綱領なんか重要じゃない。重要なのは権力だけですよ。」

と、オットーに対する今までの鬱積していた気持ちを一気に吐き出すかのような返事をした。すかさずオットーが

「しかし、権力は綱領を実行する前提に過ぎないじゃありませんか」

と反論すると、大学を出てないひがみも手伝っていたのか、ヒトラーはほとんど絶叫せんばかりに大学生のオットーに対して

「それはインテリの見解というものだ!」

と吐き捨てるように言い、

「あなたは、カップ暴動の折に赤軍の方に立って戦ったのか? あなたのような忠誠心を持った退役将校がどうしてまたカップ暴動の折に赤軍の指導者であり得たのか、理解に苦しむ」

と、からみはじめる。むっときたオットーは、

「あなた方は国民社会主義者を名乗っているではないか。なら何故、あなた方は反動の暴動に味方することができたのか? 紛れもなく私はミュンヘンでは社会主義者として反動的独裁と戦ったのだ。私の赤軍とは、国の合法的な政府を支持して行動したまでだ。彼らは反乱者ではなく、愛国者だ。 大戦中カップは、ティルピッツ、プロイセン反動分子、ユンカー、重工業、ティッセンクルップと親密だった。カップ暴動はクーデターの試み以外のなにものでもなかった。」

と応酬。ルーデンドルフが二人をとりなおすように

「カップ暴動は無意味であった。」

と重々しくのたまうと、ヒトラーは

「はっ、閣下!」と言ってすぐにおとなしくなり、カップ問題はけりとなった。 次いで、

「私が望んでいるのは、国民を復讐の思想にまで焚きつけることだ。ただ国民とその全体の狂信だけが次の戦争で我々に勝利をもたらすことができるのです。」

というヒトラーの発言にショックを受けたオットーは、たまりかねて、

「復讐の問題も、戦争の問題もない。我々の社会主義が国民的でなければならないのは、ドイツに新しい秩序を確立するためであって、征服の政策をはじめるためではない。 この合成語(国民社会主義)において強調されなければならないのは、社会主義の方である。ヒトラーさん、あなた方はあなた方の運動を国民社会主義として一つの言葉で呼んでいるではないか。ドイツ語の文法が我々に教えるところによれば、この種の合成語においては、はじめの方の部分は、肝心な後の方を修飾するためにもちいられているのです。」

と、色々の合成名詞をあげて反論し、最後にとどめを刺すようにいじわるく付け加えた。

「しかし、あなたのバルト出身の助言者であるローゼンベルクさんは、おそらくドイツ語は御存知ないでしょうから、このニューアンスはお分かりにならんでしょうな。」

自分の外国生まれのことまで馬鹿にされたと勘ぐったのか、真っ赤になって興奮したヒトラーは、げんこつでテーブルをどやしながら

「そんな屁理屈はもうたくさんだ!」

と怒鳴ったが、ばつが悪くなったのか、自制心を取り戻すかのよう、半ば冗談めかしてグレゴールの方を振り向いて

「私はあなたの利発な弟さんと決して馬があわないんじゃないかという気がしますよ」とおどけてみせた。

次に旗色の悪くなったヒトラーは話題をそらしてお得意のユダヤ人問題に向けようとする。

「私が話そうとしているのは現実です。現実とはユダヤ人のことです。かつてのマルクスのようなユダヤ人共産主義者や、ラーテナウのようなユダヤ人資本家をご覧なさい、諸悪の根源は世界を汚しているユダヤ人です。ユダヤ人は社会民主党系の新聞を牛耳っています。説得では達成できないものを彼らは暴力で達成しようとしているのです」

オットーは再び反論する。

「ヒトラーさん、あなたはユダヤ人を御存知ない。言わせていただきますがね、あなたは彼らを過大評価なさっていらっしゃる。御存知のように、ユダヤ人はとりわけ適応性があります。彼らは存在している可能性を色々利用はしますが、創造するものはなにもありません。彼らは社会主義を利用し、資本主義を利用し、あなた方が機会を与えれば国民社会主義だって利用するでしょう。 マルクスが発明したものはなにもありません。社会主義はいつも三つの側面を持ってきました。マルクスがその経済面を研究したのは完全なドイツ人であるエンゲルスが協力したからであり、その国民的で宗教的な意味合いを残したのはイタリア人マッツィーニ、そのニヒリスティックな面を発展させたのはロシア人バクーニンで、そこからボルシェヴィズムが生まれたのです。ですから、社会主義が全くユダヤ人に由来するものでなかったことは御納得いただけるでしょう。」

このことにはルーデンドルフも同意を示した。

こうして二人のやりとりも終わり、ヒトラーは、故意に親しみを示そうとするかのように、オットーの肩に手をやって、

「何はともあれ、私はフランスのおめぐみでドイツの大臣になるくらいなら、共産主義者の絞首台で首をしめられる方がましですな」 と、捨て台詞を残してルーデンドルフと共にグレゴールの家を立ち去った。

その後、兄弟はヒトラーの印象について話し合う。オットーの意見は

「ヒトラーについては、俺の見るところ、将軍に対してあまりにも卑屈で、議論の点でも論敵を孤立させるやり方の点でもゆとりが無さすぎるな。彼には政治的確信が全くなく、彼が持っているのは拡声器の雄弁だね。」であった。

グレゴールの意見は少しくちがっていた。

「おそらく、彼の伍長勤務の袖章がかれの身体に食い込んでいるのだろう。でも、彼にはなにかがあるよ。彼には抵抗しにくい魔術性がある。我々が彼を利用してお前の思想を表現し、ルーデンドルフのエネルギーと俺の組織力を利用してこれを実践できたら、とても素晴らしいことができるぞ!」

ヒトラーに対する否定的印象と彼を御し得るとみた甘い見解、これと共に二人の兄弟はやがて全く別個の運命を歩むことになったのである。

ナチ党時代[編集]

ベルリンをはじめとする北ドイツで、グレゴールや自身が入党を認めたヨーゼフ・ゲッベルスとともにナチス左派の代表格となり、社会主義的な経済政策やソビエト連邦との接近を主張し、ヒトラーやヘルマン・エッサーのミュンヘン党本部と敵対した。特に革命路線を持ち続けていたオットーは、合法選挙活動路線に転じていたヒトラーと激しく対立することになった。 1926年1月24日、ハノーファー管区指導者で高等学校の教員をしていたベルンハルト・ルストの家でナチス左派の指導者達が集まった。ヒトラーの名代として派遣されたゴットフリート・フェーダーの出席は彼らの怒りを買ったが、かろうじて出席を認められた。 出席者は、グレゴール、オットー、ゲッベルス、ルストの他、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン管区指導者のヒンリヒ・ローゼブランデンブルク管区指導者のホルツ、ベルリン管区指導者シュランゲ、ポムメルン管区指導者ヴァーレン教授、 ブラウンシュヴァイク 管区指導者クラゲスシュレージェン管区指導者ロージーカート、ラインラント管区指導者カール・カウフマン、ラインラント南管区指導者ロベルト・ライ、ルール管区指導者エーリヒ・コッホ、メクレンブルク管区指導者ヒルデブラントら24名だった。

フェーダーとライを除く全員は、かねがねシュトラッサー兄弟の草案に賛成し、ミュンヘン・ナチの牛耳る「エーア出版社」から独立した出版社を起こすことに同意した。 この会議で特に座を興奮させたのは、当時の政界の問題のひとつだった旧諸侯財産補償の問題だった。当初、旧諸侯の財産は一時凍結されていたが、私有権を歌ったワイマール憲法第53条の関係で没収されず、その解決処置は個々の州政府や自治体とそれぞれの諸侯との話し合いにまかせられていた。旧諸侯財問題に完全な形で決着をつけるには、26億マルクを必要とするものであり、KPDSPDは財産没収の国民投票を要求していたが、ヒトラーを含むブルジョア諸政党はこれに反対していた。しかし、ナチス左派は、ミュンヘン・ナチとは違い財産の無償没収を主張していた。 オットーは「我々と諸侯の補償」なる一文を掲載し、「旧諸侯の法外な要求を断固拒否する以外にはあり得ない」とし、「私益に対する公益(Gemeinnutz vor Eigennutz)」の大原則の下、旧諸侯に対し州首相程度の終身年金(家族とその子孫は対象外)、旧皇帝に対し大統領程度の終身年金を認める以外の「一切のものは国家に帰属する」ことを主張していた。 私有性を擁護し財産無償没収に反対するミュンヘン・ナチの意向がハノーファー会議の席上で伝えられるや、座は興奮し、彼らはこもごも立って主流派を非難しはじめた。 オットー「反動を倒せ」 コッホ「資本家の手先め」 ヒルデブラント「諸侯の犬め」 ルスト「国民社会主義者は自由にして民主的である。それは完璧性を主張するような法王を全く必要としない。ヒトラーは勝手に行動すればい、しかし、我々は我々の良心に従い行動するであろう。」 後にグレゴールを裏切るゲッベルスも、この頃はナチス左派のパリパリだった。 「馬鹿者フェーダーを部屋から追い出せ!私はヒトラー氏の党からの除名を提案する。」 だがヒトラーを御し得るとみたグレゴールは 「諸君はヒトラーが党首であることを忘れている、我々の要求に対してヒトラー氏の注意を喚起させよう。」 こうして無償財産没収の件はライを除く出席者全員の賛同を得るようになり、ハノーファー会議は決議された。

ミュンヘン・ナチに対する彼らの不満は以下のようなものを背景としていた 「シュトライヒャーやエッサーのごとき二人の性的偏執狂は、いぜんとして心から新生ドイツを望んでいた人々にただ不信の目を向けるのみだった。 彼らは最悪のデマゴーグだ。 クリスティアン・ヴェーバーホフマンとともに、彼らはドイツがあらゆる理由から恥としなければならぬ指導者の黒幕的とりまきのなかに数えねばならぬ」 とオットーが批判するように、彼らの批判はミュンヘン側近連中の人間的質の低俗さと横暴なその官僚制に向けられた。


闘争出版社[編集]

1926年2月14日、ヒトラーは側近シュトライヒャーの牙城バンベルクでナチ指導者会議を召集し、ハノーファー会議の非合法性を批判した。会議の結果はナチ左派の完敗だった。シュトラッサー草案の廃止、旧諸侯財産無償没収の主張撤回、ヒトラーによる全地域指導者任命権確率、党内紛争を裁く党法廷の設立とヒトラーによる法廷委員の任命、親ソ外交路線の撤回が決議された。 オットーによると、倫理観に乏しいマックス・アマンにさえ「ナチ党のメフィスト」と舌を巻かせ、権威に敏感で常に力のある方につきたがるゲッベルスは、あざやかな変身ぶりを示し、ヒトラー派に寝返った。この折、「ヒトラーさん、おかげで納得しました。我々は間違っていました。」とヒトラーにおもねったゲッベルスの姿に、グレゴールは「へどが出そうだった。」という。ヒトラーはその褒美としてシュランゲの代わりにベルリン管区指導者に任命され、1927年7月4日には、週刊誌攻撃を出してシュトラッサー兄弟と渡りあう。 しかし、ヒトラーに活動を封じられたとはいえ、グレゴールはなお党内で重きをなしていた。1926年3月 兄弟は、グレゴールがランツフートの薬局を抵当に入れて調達した資金とオットーがヘルトリングにあった会社をやめた際に得た退職金をもとに、「闘争出版社(Kampfverlag)」を設立し、ミュンヘン・ナチの息のかかった「エーア出版社」に対抗して宣伝活動を続けていた。 闘争出版社はハンマーと剣とハーケンクロイツが交差した図柄を商標としていた。闘争出版社は、さまざまの単行本の他にも、「ベルリン労働者新聞(Die Berliner Arbeiter‐Zeitung)」、「国民社会主義者(Der Nationale Sozialist)」、「ザクセン物見(Der Sächsische Beobachter)」、「マルク・ブランデンブルク物見(Der Märkische Beobachter)」、「ライン・ヴェストファーレン労働者新聞(Die Rheinisch Westfälische Arbeiter Zeitung )」、「こぶし(Die Faust)」等の週刊誌や日刊紙を次々に出し、当時のジャーナリズム界を牛耳っていたフーゲンベルク・コンツェルンに匹敵するジャーナリズム王国を打ち立てたものとして評価を受け、ナチス左派のみならず、「旧社会主義者(Altsozialisten)」、「ブント・オーバーラント」「人狼団(Wehrwolf)」、ブント青年団などの、国民革命派がその論陣を張る場を提供した。国会議員で人種派から別れてナチに鞍替えしたレーヴェントロー伯や、シュテール、モサコーフスキー、エルンスト・フォン・ザロモンの兄ブルーノー・フォン・ザロモン、ヘルベルト・ブランク、ルドルフ・ユング、らが闘争出版社に関係していた。

脱党[編集]

ヒトラーは1930年5月21日から22日にかけて7時間にわたりオットーと激論してなんとか懐柔しようとしたが、結局失敗した。この会談の失敗で、ヒトラーはオットーに与えるはずだった宣伝全国指導者職のゲッベルスへの委譲と、オットーの党除名を決意した。

1930年6月30日、ヒトラーは1926年半ば頃に自派に取り込んでいたゲッベルスに、オットーらナチス左派の党追放を命じた。7月2日、これを受けたゲッベルスはベルリン党役員会議でオットーの党除名を決議した。オットーらはクルト・ダリューゲが指揮する親衛隊につまみだされて党集会に参加出来なかった。

「我々は国民社会主義を意識的に反帝国主義運動として理解し、そのナショナリズムは、多民族や他国に対するなんらかの支配的傾向を伴うことなくドイツ国民の生活及び発展の維持と確保に限られるものである。それ故我々にとっては、国際資本主義と西欧帝国主義によって行われたロシアに対する介入戦争の否定はドイツ外交政策の必要性からも我々の理念からも生まれる自明の要求であったし、現在もそうである。」

「それ故我々は、ますます公然と介入戦争に与する党首脳部の態度を理念に反するものでありドイツ外交政策の要求からいっても有害なものであると感じた。」

「我々にとって、イギリスの支配と資本主義の搾取から逃れるインド独立闘争に共鳴することは必要であったし、現在も必要であり、この必要は被抑圧民族が搾取的略奪者に対して行うすべての闘争に対する共感から生まれると同時に、ヴェルサイユの契約力を弱体化させることが全てドイツ解放政策に有利に働くという事実からも生まれる。」

(脱党声明文「ソーシャリスト、ナチ党を去る」より抜粋)

7月4日にはオットーも新聞紙面でナチス党からの離脱を宣言した。しかし追従者は僅か24名だけであった。その後は人狼団オーバーラント団、北ドイツ 突撃隊 の最高司令官で1931年にゲッベルスと大喧嘩して彼に反乱を起こしたヴァルター・シュテネス大尉などとともに革命的国家社会主義者闘争活動共同体を創設。後に同団体は黒色戦線と改名される。グレゴールはナチ党にとどまっていたが、オットーの謀反と離脱で党内で苦しい立場に立たされ、急速に影響力を弱めていった。

亡命[編集]

ヒトラー内閣誕生後はSDの目をくぐりぬけてドイツから脱出し、オーストリアチェコフランススペインポルトガル経由でカナダへ亡命し、そこから反ヒトラー活動を行った。グレゴールはなおもドイツにとどまっていたが、長いナイフの夜の際に粛清されている。

オーストリアは、ヒトラーの侵略第一目標だったため、オットーにとって安住の地ではなかった。 意を決しチェコのプラハに逃亡し、そこでレジスタンス運動を展開した。 「第二革命は進む(Die Zweite Revolution marschiert)」 「死せるマルクス主義 ー 生ける社会主義(Der Marxismus ist tot ー Der Sozialismus lebt)」 等のパンフレットをプラハからドイツ国内へ送り込んでばらまいたり、短波ラジオの発明家ルドルフ・フォルミスを使い、モルダウ川をのぞむプラハの西南40マイルにある酒場に隠された発信器から、一日に一時間三回に渡って、ドイツ向け反ヒトラーの声明を流していた。 しかし、ゲシュタポの回し者の一団に襲撃され、フォルミスは殺害されオットーは危機を逃れたが、無断放送の罪でチェコ当局から発信器を押収され、四ヶ月の刑の判決をうけた。1934年11月1日、ドイツ国籍を剥奪され晴れて天下の無宿者となったオットーは、五年間チェコに滞在していた。この頃オットーは、チェコを訪れていたインド独立の志士スバス・チャンドラ・ボースと面会していた。


戦後[編集]

第二次世界大戦でドイツが敗戦し、ナチ党が消滅するとドイツへ帰国しようとしたが、占領軍と西ドイツ政府から帰国を妨害されてしまった。ようやく西ドイツへ帰国することを許されたのは1955年のことだった。


1974年、バイエルン州ミュンヘンで死去。ナチス左派の幹部としては最後の生き残りであった。

参考文献[編集]