ドナルド・ラムズフェルド

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ドナルド・ラムズフェルド
Donald Rumsfeld
Donald Rumsfeld by Gage Skidmore.jpg
ドナルド・ラムズフェルド(2011年2月)
生年月日 1932年7月9日(82歳)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国イリノイ州エバンストン
出身校 プリンストン大学
所属政党 共和党
配偶者 ジョイス・H・ピアーソン
サイン Donald Rumsfeld Signature.svg

任期 1975年11月20日 - 1977年1月20日
大統領 ジェラルド・R・フォード

任期 2001年1月20日 - 2006年12月18日
大統領 ジョージ・W・ブッシュ

任期 1974年9月 - 1975年11月
大統領 ジェラルド・R・フォード

任期 1973年2月 - 1974年9月
大統領 リチャード・ニクソン
ジェラルド・R・フォード

選挙区 イリノイ州第13区
任期 1963年1月3日 - 1969年3月20日
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ドナルド・ヘンリー・ラムズフェルド英語: Donald Henry Rumsfeld1932年7月9日 - )は、アメリカ合衆国政治家大統領首席補佐官国防長官を歴任した。

概要[編集]

第38代大統領ジェラルド・R・フォードのもとで第13代国防長官(1975年 - 1977年)を、第43代大統領ジョージ・W・ブッシュのもとで第21代国防長官(2001年 - 2006年)をそれぞれ務めた。イラク戦争ではブッシュ政権内で終始強硬な攻撃論を主張した。

アメリカ合衆国の軍産複合体を体現した人物とも評される。また、7年あまりの下院議員生活の経験に基づいた、議員としての心得、いわゆる「ラムズフェルドのルール」は、現在でもワシントンD.C.の関係者の間では広く知れ渡っている。一方で、他者に対する配慮を欠いた発言スタイルで、数々の物議を醸す発言をして軋轢を生んだ。

1954年に妻のジョイスと結婚しており、夫妻には3人の子供(Valerie J. Rumsfeld Richard、Marcy K. Rumsfeld Walczak、Donald Nicholas Rumsfeld)および5人の孫がいる。

経歴[編集]

イリノイ州シカゴのエバンストンに生まれる。祖父はフランドル系で、ブレーメンからの移民。奨学金を得てプリンストン大学に通い、卒業後の1954年より海軍でパイロット、飛行教官を務めた。また全米海軍レスリングチャンピオンの経歴もこの時に獲得している。

予備役英語版編入(1975年まで、1975年から1989年まで個人緊急予備役英語版)後1957年からワシントンD.C.アイゼンハワー政権下のオハイオ州選出下院議員の行政補佐官を務める。1960年から1962年まで投資銀行会社A.G.ベッカーで勤務した後1962年にイリノイ州より連邦下院議員(共和党)に30歳で当選し、1964年1966年1968年と、4期連続当選を果たした。

現在からでは想像もつかないことだが、若手議員だったころは下院において、共和党の中で比較的リベラルな投票行動で知られ、中道右派の有力な議員の一人であった。1964年の選挙での敗北に危機感を抱いたラムズフェルドら若手は、長老のチャールズ・ハレック下院院内総務に代わる院内総務としてジェラルド・フォード下院議員(後の大統領)を擁立し、成功した。

ニクソン政権[編集]

議員4期目の1969年に下院議員を辞職し、リチャード・ニクソン政権で機会均等局長(Director of the Office of Economic Opportunity)、大統領補佐官、経済安定プログラム長(Director of the Economic Stabilization Program)等を務めた。第46代副大統領リチャード・チェイニーは機会均等局での部下である。

1973年ワシントンを離れ、ベルギーブリュッセル北大西洋条約機構(NATO)アメリカ大使英語版に就任する。

フォード政権[編集]

首席補佐官時代のラムズフェルド(左)
中央はフォード大統領、右はチェイニー次席補佐官

1974年8月にワシントンへ呼び戻され、フォードの大統領首席補佐官(1974年 - 1975年)を務めたのち、1975年に史上最年少の43歳で第13代国防長官に就任した。国防長官の任期内にラムズフェルドは政権内における軍の発言力をCIAを犠牲にして高めた。これはソ連が国防費を増加させ、秘密兵器開発計画を進行させているという見解の発表で行われた。そしてそれに対する反応は軍拡競争の再燃となって現れた。

レーガン政権[編集]

1977年に国防長官を辞任したラムズフェルドは、製薬企業や通信企業を経営しつつ、ロナルド・レーガン政権下で軍備や戦略、対日関係、中東問題など各種の諮問機関で委員を務めている。

イラン・イラク戦争当時のイラクを訪問し、サッダーム・フセインと会談するラムズフェルド

イラン・イラク戦争中の1983年にはイラクとの国交正常化のための特使に任じられ、12月19日1984年3月にイラクを訪問しており、ターリク・ミハイル・アズィーズとは2時間以上、サッダーム・フセインとは90分に及ぶ会談を行い、ベクテルのパイプライン建設とそのためのイスラエルとの関係改善などが話し合われた[1]

ジョージ・H・W・ブッシュ政権[編集]

第41代大統領のジョージ・H・W・ブッシュとは、共和党内における政敵同士だったため、ブッシュ政権においては一切の役職には就いていない。1988年の大統領選では、党内予備選への立候補を検討するが断念。結局、かつての盟友ボブ・ドール上院議員を支持した。

クリントン政権[編集]

1998年、米連邦議会の嘱託による超党派の「弾道ミサイル脅威評価委員会」(ラムズフェルド委員会とも呼ばれる)で委員長を務め、北朝鮮などが開発する弾道ミサイルの脅威と、米国本土ミサイル防衛(NMD)の必要性を指摘した報告書を7月に提出した。クリントン政権はその脅威を差し迫ったものではないと評価していたが、翌8月に北朝鮮がテポドン1号の発射実験を行ったことで報告書の分析は裏付けられ、NMD計画が推進されることになる。また、2001年1月にはこの委員会で、「宇宙における真珠湾攻撃」(Space Pearl Harbor)を提起した。

ジョージ・W・ブッシュ政権[編集]

国防長官時代のラムズフェルド(2001年1月)

2000年12月大統領選挙戦の終盤にジョージ・W・ブッシュが国防長官への起用を発表。翌2001年ブッシュ政権が誕生し、史上最年長の68歳で国防長官に就任した。

2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロにおいて、ハイジャックされたワシントンD.C.ロサンゼルス行きアメリカン航空77便(ボーイング757)が9時38分に国防総省本庁舎(ペンタゴン)に激突した。執務中のラムズフェルドは危うく難を逃れ、建物の外へ出ると女性職員が血を流して倒れていたため、彼女を抱えて避難し、救急車が来るまで看病していた。その一方、すぐに幹部を集めて「ここが勝負の分かれ目だ」と言い放ち、大統領とすぐに協議できるよう今後の対応策を数時間かけて、A4用紙1枚にまとめ上げた(アメリカではA4は使われていない)。

その後アメリカのアフガニスタン侵攻イラク戦争において国防長官として指導的役割を果たした。特にイラク戦争では開戦前に戦時における部隊運用規模をめぐり少数兵力による迅速な敵地制圧を唱え、エリック・シンセキなど反対する将校を解任するなど強硬手段を取った。アメリカ国民はもちろん制服組からの評判も極めて悪く、「歴代最悪の国防長官」と酷評された。それ以外にもイラク開戦に反対するフランスドイツを『古いヨーロッパ』と非難するなど終始強気の行動を示していた。

しかしイラク侵攻時に大義として掲げていた大量破壊兵器が発見されないことやアブグレイブ刑務所での囚人虐待事件でアメリカの道義的威信を大きく損ねたこと、一向に改善されない現地の治安状況などから退任を求める声が出始めた。特にイラク従軍兵士をはじめとする軍制服組からの突き上げが激しく、退役した元部下の将軍たちからは『独善的で現場からの忠告を度々無視した結果、今のイラクの現状がある』など厳しい指弾が相次いだ。2006年には「アーミー・タイムズ」など陸海空軍と海兵隊の関係者向けの専門4紙が共同社説でラムズフェルドを非難し、共和党の大物議員たちが大統領に更迭を要求する事態に至った。2008年12月、上院軍事委員会は一連の捕虜虐待事件に関し、「一部の兵士が独断で起こした行動とは言えない」と軍による組織的関与の可能性を主張、名指しでラムズフェルドとブッシュ大統領ら当時の政権幹部に責任の一端があるとする報告書を公開した[2]

ラムズフェルド(左)の辞任を発表するブッシュ(中央)

2006年11月8日中間選挙において、イラク政策に対する有権者の不満などから共和党は大敗し、結果を受けたブッシュ大統領の記者会見の席でラムズフェルドの辞任が発表された。

対日関係ではコンドリーザ・ライス国務長官とともに在日米軍再編に指導的役割を果たすが、再編、特に普天間基地返還に伴い新たに建設される代替施設の建設予定海域に絶滅危惧種であるジュゴンの生息が確認され、“環境破壊”を行なう“被告”として日米双方の反基地団体や環境団体から告発されたこともあった。

フーヴァー研究所フェローに指名されたが、同研究所の学者を中心に指名反対運動が起こっている。

その他[編集]

実業家としての活動[編集]

民主党のジミー・カーターに政権が渡った際に実業界へ転じ、その後多くの企業経営に携わっている。1977年に製薬会社G.D.サール社に迎えられたラムズフェルドは1985年まで経営トップの座にあり、大胆なリストラを実行して業績を上げた。1990年から1993年にかけて通信企業ジェネラル・インスツルメンツのCEOおよび会長の職にあり、1997年から2001年の間はインフルエンザ特効薬タミフルを開発しその特許を所有しているバイオテック企業ギリアド・サイエンシズの会長を務めた。ギリアド社の株式を多数保有しており、鳥インフルエンザの懸念が高まった際には、同社の株式高騰によって巨額の富を築いたとCNNは報じた。

執務スタイル[編集]

デスクワークについて「立ったままの作業のほうが効率があがる」との持論を持っている。起立した姿勢にあわせた執務の「スタンド・アップ・デスク」を考案し、愛用している。

また、演説については難解との指摘を受けている。2003年『やさしい英語普及運動』から、『関係代名詞従属節を多用し、なおかつ接続詞の乱用による長いセンテンスを使用した、わかりにくい英語の演説、発言』をすることを顕彰して、『フット・イン・マウス賞』を受賞。

映像作品[編集]

アポロ計画陰謀論を検証するフランスのジョーク番組『Opération Lune』で、湾岸戦争に関する発言をアポロ計画の発言に見せかけるように紹介されたことがある。

華氏911マイケル・ムーア監督)でゴールデンラズベリー賞の最悪助演男優賞受賞(最悪主演男優賞はブッシュ大統領)。

著書[編集]

  • Strategic Imperatives in East Asia, (Heritage Foundation, 1998)
  • Rumsfeld's Rules: Collected Wisdom for a Good Life (Free Press, 2002)
  • Known and Unknown: A Memoir, (Sentinel HC, 2011)
江口泰子月沢李歌子島田楓子訳『真珠湾からバグダッドへ~ラムズフェルド回想録』(幻冬舎、2012年)

脚注[編集]

  1. ^ Battle, Joyce. Shaking Hands with Saddam Hussein: The U.S. Tilts toward Iraq, 1980-1983 , National Security Archive Electronic Briefing Book No. 82. George Washington University National Security Archive, February 25, 2003.
  2. ^ テロ容疑者虐待、ブッシュ政権「容認」に起因…米上院報告読売新聞2008年12月13日

外部リンク[編集]