イーグルクロー作戦
| イーグルクロー作戦 | |
|---|---|
作戦中に事故を起こした輸送機の残骸 |
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| 戦争:イランアメリカ大使館人質事件 | |
| 年月日:1980年4月24日 - 4月25日 | |
| 場所:マンザリヤ空軍基地 デザート・ワン地点 |
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| 結果:事故により作戦中止 | |
| 交戦勢力 | |
| 指揮官 | |
| チャールズ・ベックウィズ ジェームズ・カイル |
無し |
| 戦力 | |
| デルタフォース アメリカ海軍 アメリカ空軍 アメリカ海兵隊 |
無し |
| 損害 | |
| 戦死8名 負傷4名 RH-53D 1機損失 C-130 1機損失 航空機 6機放棄・接収 |
一時的に拘束された一般市民44名 |
イーグルクロー作戦(イーグルクローさくせん、Operation Eagle Claw)は、1979年に発生したイランアメリカ大使館人質事件で人質となった大使館員及びその家族ら53名を救出する目的で1980年4月24日から4月25日に行なわれた「テヘラン駐アメリカ大使館人質救出作戦」の通称である。
アメリカ軍四軍を総動員させ臨み、デルタフォースを初めて投入した有名な作戦であるが、ヘリコプターのトラブルにより失敗している。
目次 |
概要 [編集]
1979年、イランにおいてルーホッラー・ホメイニーを指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者を支柱とする反体制勢力が、親米であったパフラヴィー朝に代わって政権を奪取した。モハンマド・レザー・パフラヴィー前国王が癌を理由に渡米した事に激怒した革命軍の学生メンバーがテヘランにあるアメリカ大使館を襲撃し占拠する事件が発生、大使館員とその家族ら53人が人質となる事態となった。
当初は小規模の救出作戦を計画していたが、アメリカ合衆国大統領であったジミー・カーターは陸軍・海軍・空軍・海兵隊のアメリカ軍4軍を総動員させる「イーグルクロー作戦」を立案、翌4月24日に決行された(この総動員が失敗の原因であるという見方も存在する)。
その中でアメリカ海兵隊の掃海ヘリであるRH-53D シースタリオンとアメリカ空軍の輸送機である8機のC-130 、2機のC-141を用い、人質を救出するライスボール作戦が決行されていた。 これは、仮設滑走路が設置されていたマンザリヤ空軍基地(Manzariyeh Air Base)の通称「デザート・ワン」にデルタフォースを分乗させたC-130及びC-141を着陸させ、そこからペルシャ湾に展開している空母ニミッツから発艦した8機のRH-53Dに移乗、郊外のサッカー場に着陸・展開し、占拠された大使館を急襲、人質を救出しサッカー場で同機に乗せ、同基地へ戻り、C-141に搭乗させイラン国外へ脱出すると言うものであった。
ライスボール作戦 [編集]
デザート・ワンにはデルタフォースの隊員を搭乗させたC-130とC-141が到着し、RH-53Dの到着を待っていた。しかし、RH-53Dは途中で砂嵐に巻き込まれ、2機が視界不良でデザート・ワンへ不時着した。さらに、同基地に到着したRH-53Dのうち1機が油圧トラブルで飛行できなくなり、作戦に必要な最低機数を割ってしまったためやむなく作戦を中止せざるを得なくなってしまった。また、撤収準備に掛かっていたところ、移動中のRH-53Dが強風に煽られ近くに駐機していたC-130に激突し炎上、8名の死者と4名の負傷者を出すと言う最悪の幕引きで作戦は終了した。
ヘリコプターの選択ミス [編集]
ここで問題となったのがこの作戦失敗の原因となったRH-53Dである。 当初は全天候型であるHH-53Dを使用する筈であったが、収容能力等で海軍が難色を示したため(機体格納用の折り畳み機能等を有していないため)、RH-53Dが使用された。ただしこのRH-53Dは掃海機であるため砂漠地帯での飛行には向いていなかった。アメリカ軍撤収後に残った6機はイラン海軍に接収された後、破壊されている。
第二の救出作戦 [編集]
このイーグルクロー作戦の失敗を受けて計画されたのが、クレディブル・スポート作戦(Operation Credible Sport)である。
これは、3機のC-130にロケットエンジンを搭載することでSTOL能力向上改修を施しサッカースタジアムに着陸してデルタフォースを展開させ、人質を救出すると言うものであった。 しかし3機のうち1機のYMC-130Hは試験飛行中に墜落、また2機目の同機は火災を起こし緊急着陸するという結果に終わり、作戦自体が中止された。
そしてこの作戦の裏では、当作戦の調査委員会により航空戦力の欠如が指摘された為、特殊作戦航空能力開発のための特別作戦である「ハニー・バジャー(ミツアナグマ)作戦(Operation Honey Badger)」が開始される事となった。
この計画では、第101空挺師団の3個飛行大隊を中心に当時新鋭機だったUH-60 ブラックホークなどを用いて、特殊作戦用ヘリコプターの開発及びイラン大使館の人質の再奪還を目標としていたが、後述の通り解放された為、出動せずに終わった。
余波 [編集]
この作戦の失敗は大きかった。作戦が発覚したことでイラン側が激怒して態度を更に硬化させただけでなく、作戦から5日後の4月30日に発生した駐英イラン大使館占拠事件が特殊部隊SASによる6日間の攻防の末に事件を解決するなどしたことでアメリカの面子は失われた。民主党のカーターの支持率は下落し、共和党のロナルド・レーガンに大統領の座を譲った。
その後、アメリカ軍はこれを教訓として、アメリカ特殊作戦軍設立・育成を筆頭として、陸軍はハニー・バジャー作戦から発展した通称「ナイトストーカーズ」と呼ばれる第160特殊作戦航空連隊を、海軍はNavy SEALsから分割させたSEAL TEAM6(現DEVGRU)を設立している。
引渡しを要求していたモハンマド・レザー・パフラヴィー当人が死去したことにより占拠の理由が薄れ、対イランの資金凍結も解除した事から駐イランアメリカ大使館占拠事件で人質となった大使館員とその家族は、占拠から444日後の1981年1月20日に解放された(この日はカーターがレーガンにホワイトハウスを譲る日だった)。