イランアメリカ大使館人質事件

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アメリカ軍のVC-137輸送機で帰国した人質

イランアメリカ大使館人質事件(イランアメリカたいしかんひとじちじけん、英語:Iran hostage crisis)とは、1979年11月にイランで発生した、アメリカ大使館に対する占拠及び人質事件。

目次

[編集] 概要

[編集] 元国王のアメリカ入国

1979年1月に、フランスパリに亡命していた反体制派のルーホッラー・ホメイニーを指導者とするイスラム教十二イマーム派シーア派)の法学者を支柱とする反体制勢力によるイラン革命が発生し、アメリカをはじめとする欧米諸国からの支援を元に、親欧米化路線を敷いていたパフラヴィー朝国王のモハンマド・レザー・パフラヴィーが政府専用機でエジプト亡命し、革命は成功した。

エジプトに亡命していたパフラヴィー元国王はその後「がんの治療のため」にアメリカへの入国を求め、アメリカ政府は「人道的見地」からその入国を認め国王とその一行はアメリカに入国した。

[編集] 大使館占拠

ホメイニーらが敵視するアメリカが、同じく敵視する元国王を受け入れたことにイスラム法学校の学生らが反発し、11月4日テヘランにあるアメリカ大使館を占拠し、アメリカ人外交官や警備のために駐留していた海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元国王のイラン政府への身柄引き渡しを要求した。

この学生らによる行動は、シーア派の原理主義者が実権を握ったイラン政府が裏でコントロールしていた。なお、人質になった外交官らは大使館の敷地内に軟禁状態に置かれ、行動の自由を奪われただけでなく、占拠当初は学生らから暴力さえ受けることとなった。

当然これらの行為は「外交関係に関するウィーン条約」による、「接受国(大使館所在当該国)は、私人による公館への侵入・破壊及び公館の安寧・威厳の侵害を防止するために、適当なすべての措置をとる特別の義務を負う」(同22条2)という規定に違反していたため、イラン政府は諸外国からの大きな非難を浴びることとなった。

[編集] 人質救出作戦の失敗

しかしイラン政府は大使館の占拠を解くどころかそれを支援し、これに対してアメリカのジミー・カーター大統領は、1980年4月24日から4月25日にかけて人質を救出しようと「イーグルクロー作戦」を発令し、軍事力により人質の奪還を試みた。

しかし、作戦開始後に作戦に使用していたRH-53D「シースタリオン」ヘリコプターが故障した上に、ロッキードC-130 輸送機とヘリコプターが接触する事故が起き作戦は失敗した。これにイラン政府も態度を硬化し、事態は長期化する傾向を見せた。

[編集] 解決

ジミー・カーターはアメリカ政府は軍事力による人質の解放をあきらめ[1]、元国王をアメリカから出国させるとともに、イスラム諸国などによるイラン政府への説得を試みるが、1980年7月に元国王が死去したことで、学生らによる大使館の占拠の理由が薄れ始める。

その後アメリカで行われた大統領選挙で、再選を狙ったカーター大統領が共和党のロナルド・レーガンに敗北した。その後イランは仲介国と人質返還でアメリカと合意し、レーガンが就任しカーターが退任する1981年1月20日に、人質は444日ぶりに解放された。

[編集] 脚注

  1. ^ とは言え、裏では第160特殊作戦航空連隊の前身となる第101師団隷下のヘリ部隊による特殊作戦用ヘリ開発と奪還計画は存在した。

[編集] 関連項目

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