米比戦争
| アメリカ合衆国・フィリピン戦争 | |
|---|---|
『パセオの戦い』-米比戦争を描いたアメリカ合衆国の絵画 |
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| 戦争:米比戦争 | |
| 年月日:1899年-1902年/1913年 | |
| 場所:フィリピン諸島 | |
| 結果:アメリカ合衆国の勝利。フィリピン第一共和国の崩壊、植民地化。 | |
| 交戦勢力 | |
ネグロス共和国 |
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| 指揮官 | |
| 戦力 | |
| 計126,000人[1] | 80,000人 |
| 損害 | |
| 戦死者 4,196人[2] | 戦死者 12,000-20,000人(軍人)[1][3] 戦死者 200,000人から 1,500,000人(文民)[3] |
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米比戦争(べいひせんそう, 1899年-1913年)は、アメリカ合衆国とフィリピンの間で起きた戦争である。
目次 |
背景[編集]
1896年以来スペインからの独立のために戦ってきたフィリピン人たちは、エミリオ・アギナルドの下で1898年6月12日に独立を宣言したが、1898年12月に、アメリカ合衆国はアギナルド将軍に協力したら独立させると約束し、米西戦争でフィリピンの独立を援助する名目でスペインを破ったにも関わらず、パリ条約において2,000万ドルでフィリピンを購入し、植民地化を開始した。1899年1月1日にアギナルドが初代大統領に就任した。彼は、その後マロロスでマロロス議会を組織したが、アメリカ合衆国からは8月14日に11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。アメリカ合衆国はフィリピン侵略のために残虐の限りを尽くし、反抗するフィリピン人60万人を虐殺した。 この時、フィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となったのが、アーサー・マッカーサー・ジュニアである。(彼の三男がダグラス・マッカーサーである)
戦争への反対[編集]
マーク・トウェインやアンドリュー・カーネギー、さらにはグロバー・クリーブランド元大統領に代表されるアメリカ反帝国主義連盟は、マッキンリー政権によるフィリピンの併合に強く反対した。また、フィリピン人はアメリカ合衆国に加わりたいと考えていると思い込み、フィリピンの併合は民意を反映していないと反対するアメリカ人もいた。戦争に対する反対意見の主な理由は、単にスペインからアメリカ合衆国にフィリピンの支配国が移り変わっただけであり、米西戦争の目的に反しているというものであった。反乱を鎮圧するために行われた虐殺や虐待が報じられるようになると、戦争への賛成意見は減少した。
戦争の経過[編集]
戦争の始まり[編集]
詳細は「マニラの戦い」を参照
アメリカ合衆国は、フィリピン側にとって同盟者ではなく支配者になったと見られたため、フィリピン兵とアメリカ兵の関係は極度に緊迫したものであった。1899年1月21日、フィリピン第一共和国が建国される。1899年2月4日、サン・フアン・デル・モンテの橋でアメリカ支配側に立ち入ったとされるフィリピン兵が射殺された。近年フィリピンが行った調査では、事件の現場は、現在のマニラ市内のソシエゴ通りであったとしている。当時のアメリカ合衆国大統領、ウィリアム・マッキンリーは、この事件はフィリピン側によるマニラ市内への攻撃であったと新聞に語り、責任をフィリピン側に求めた。
マッキンリー政権は、アギナルド率いる政府を犯罪者集団と呼んだため、議会を通じた正式な開戦通告は行われなかった。主な理由として2つ挙げられる。
- 1つ目は、フィリピン側を国と認知しないことで、国家間の戦争ではなく、政府に対する反乱であるとするためであった。しかし、この時点でアメリカ側が支配していたのはマニラのみであった。
- もう1つは、米西戦争により逼迫していた財政を念頭に、アメリカ兵の戦争手当てを最小限にするため、戦争ではなく警察活動であると宣言したのであった。
さらに次の10年では、アメリカ軍はフィリピン軍に対抗するため、126,000人にも及ぶ大規模な軍事力を必要とした。アメリカ軍はさらに、パンパンガ州マカベベのフィリピン人を雇い入れることも行った。1898年から1902年の間にフィリピンで戦闘を指揮したアメリカ軍の将軍30人のうち26人は、インディアン戦争においてジェノサイドに手を染めた者であった。
1899年2月末までに、アメリカ軍はなんとかマニラを手中に収め、フィリピン軍は北部へ退去せざるを得なかった。
4月にアメリカ軍はクィングァの戦い(現ブラカン州プラリデル)を制圧。
6月のフィリピン政府内の敵対派によるアントニオ・ルナ将軍の暗殺によって、フィリピンの通常軍は弱体化した。
アメリカ軍の勝利はその後も、 ザポテ橋の戦い(1899年6月13日)、 サン・ハシントの戦い(1899年11月11日)、 と続いた。
ティラード峠の戦い(1899年12月2日)で、グレゴリオ・デル・ピラール准将はアギナルドを逃がすために戦闘を遅らせたが、ピラール本人は最後の攻撃で殺された。
ゲリラ戦[編集]
アントニオ・ルナ将軍とグレゴリオ・デル・ピラール准将という優秀な将軍2人を失ったため、フィリピン軍は通常戦を戦う能力を急激に失っていった。ミゲル・マルバールの指揮の下、戦況はゲリラ戦の様相を見せたが、アメリカ軍の勝利はその後も、 プラン・ルパの戦い(1900年9月13日)、 マビタクの戦い(1900年9月17日) と続いた。
サマール島・レイテ島・バタンガスの戦い[編集]
黒人兵のなかに「なぜ白人のためにニガーがニガーを殺すのか」という疑問が広まり、デビッド・ファーゲンら9人が脱走し、アギナルド軍に加わった。ファーゲンは現地兵をよく統率し、米軍に痛撃を与え、その功で現地軍の大尉に昇進し、フィリピン人の妻も得た。
1901年9月28日、サマール島でバランギガの虐殺が発生。小さな村でパトロール中の米軍二個小隊が待ち伏せされ、半数の38人が殺された。アーサー・マッカーサーは報復にサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じた。少なくとも10万人は殺されたと推定されている。またマッカーサーはアギナルド軍兵士の出身者が多いマニラ南部のバタンガスの掃討を命じ、家も畑も家畜も焼き払い、餓死する者多数と報告された。
公式の戦争終結[編集]
1902年7月1日、Philippine Organic Actが承認された。
1902年7月4日、セオドア・ルーズベルトが公式声明を発表。
戦争終結の戦闘[編集]
モロの反乱[編集]
詳細は「モロの反乱」を参照
1899年から1913年にかけて、Moro Province(スールー王国、マギンダナオ王国、en:Confederation of sultanates in Lanao、サンボアンガ共和国)のモロ族への残党狩りが長期間に渡って行われた。
- 1903年4月4日、タラカの戦い
- 1903年10月、ハッサンの蜂起
- 1904年12月12日、ドローレス川の戦い
- 1906年3月5日、第一次ブッダージョの戦い
- 1911年12月1日、第二次ブッダージョの戦い
- 1913年、バグサク山の戦い
結果とその後[編集]
フィリピン側は数十万人の市民が殺害された。なお、当初アメリカにより保証されていたフィリピンの独立も、1946年のマニラ条約で漸く果たされることとなる。こうした経緯から、現在においてもフィリピン国民の対米観は決して芳しいものではなく、アメリカの支援を受けたマルコス軍事独裁政権がエドゥサ革命で倒された他、1992年には米軍基地撤去が成っている[4]。
脚註[編集]
- ^ a b “Historian Paul Kramer revisits the Philippine-American War”, The JHU Gazette (Johns Hopkins University) 35 (29), (April 10, 2006) 2008年3月18日閲覧。
- ^ Chambers & Anderson 1999
- ^ a b Guillermo, Emil (February 8, 2004). “A first taste of empire”. Milwaukee Journal Sentinel: 03J.(author unknown) (November 1, 2003). “Kipling, the 'White Man's Burden,' and U.S. Imperialism”. Monthly Review 55: 1.
- ^ [1]
外部リンク[編集]
- [2]American Imperialism and the Philippine War,D.Wertz,Wesleyan University,2008.
- 中野聡「民主主義と他者認識--アメリカのフィリピン政治論」2000年、34thアメリカ学会年次報告資料
関連項目[編集]
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