アルテミオ・リカルテ

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英雄墓地にあるリカルテ将軍の墓

アルテミオ・リカルテArtemio Ricarte1866年10月20日1945年7月31日)はフィリピン革命期と米比戦争期のフィリピンの将軍である。フィリピン軍ではフィリピン陸軍の父とされている。リカルテは1898年から1946年までフィリピンを占領した米国政府に対して忠誠の誓いをまったく行わなかったことでも有名である。

生い立ち[編集]

彼はフィリピン諸島イロコスノルテ地方のバタックで父ファウスティーノ・リカルテと母ボニファシア・ガルシアの間に生まれた。故郷で勉強後、サンフアン・デレトラン学院に入学し、文学士として卒業した。サント・トーマス大学と師範学校で教職免許取得。サンフランシスコ・デ・マラボン(後のゼネラル・トリアス)の町で小学校校長となる[1]。そこでカティプナン(Katipunan)に参加し、「クサリヘビ 」(es:Víbora, en:viper)の名を得る。

フィリピン革命[編集]

1896年8月31日に、サンフランシスコ・デ・マラボンでスペイン駐屯軍を攻撃する際に、革命家たちを指揮、スペイン軍部隊を壊滅させ、市内警備隊を虜とした。アギナルドの軍で准将になり、テヘロス会議において総司令官に選ばれた。彼は、カヴィテラグナバタンガスにおける様々な戦いにおいて彼の部隊を指揮した。アギナルドは彼にブラカン州サンミゲル町ビアク・ナ・バトにとどまり、武器引渡しの管理、スペイン政府による平和協定の条件履行を監視するように命じた。

米比戦争[編集]

米比戦争が1899年に起こったとき、彼はマニラ近郊第2区域のフィリピン軍作戦司令官であった。1900年7月に捕らえられ、アポリナリオ・マビニとともにグアムに追放された。

戦後[編集]

1903年には、米国への忠誠の誓いが行われ、彼はマニラで解放されるはずだった。マビニは病気だったがその誓いを行い[2]、リカルテは拒否したため、今度は香港に追放される。彼はフィリピン革命を再びまとめ、再燃させることを望んで1903年にひそかにフィリピンへ渡航したが、米国政府は彼の生死にかかわらぬ逮捕に合計10,000ドルの賞金をかけた。彼は逮捕され、1910年まで投獄されたがなおも米国に対する忠誠を誓うことを拒否、同日には再度香港に追放されている。彼の逮捕の際には押収された証拠書類によって米国はフィリピン国内の革命勢力を鎮圧することに成功し、フィリピン独立運動は壊滅した。(マリベレス事件)[3]

リカルテは香港の東北にあるラマ島にいたが下の部下たちをはじめ中国革命やインド独立運動の関係者が集まってきた。昔の恋人アゲタ・エステバンも訪れ、リカルテと結婚した。

日本への亡命[編集]

1914年第一次世界大戦が始まると英国はインド人をヨーロッパ戦線に送るがこの方針に従わないインド人も多く、この風潮を足がかりに独立運動の動きも起こったため、英国はこの動きを取り締まり、さらに反戦運動教唆の容疑でリカルテを拉致し、上海の監獄に送った。

かねてから日本に亡命していたインド独立運動家ラス・ビハリ・ボース頭山満犬養毅にリカルテの救出を頼んだ[4]。アゲタ夫人は監獄の中国人守衛を買収してリカルテを脱獄させ、ふたりは頭山たちが準備した日本郵船のチケットで日本に亡命すると、しばらく愛知県瀬戸町に住み、1923年には横浜に移った。その後、しばらくは政治的発言を控えていたが、亡命して以降、フィリピンにおけるアメリカの主権を容認するような発言が多くなり、一方で終生年金を受領しているエミリオ・アギナルド将軍への批判を強めていた[5]

フィリピンに帰国[編集]

彼等はひっそり暮らしたが第二次世界大戦が起こると日本はフィリピン人を落ち着かせる作業の援助のため彼をフィリピンに航空機で戻した。彼はゲリラを根絶するために活動した第二次世界大戦中における日本寄りの組織であるマカピリの創設者としても知られている。

彼は1945年7月31日マウンテン州カリンガで死去、その墓は英雄墓地(Libingan ng mga Bayani)にある。

モニュメント[編集]

  • 1971年横浜山下公園にリカルテ将軍記念碑が建立された。
  • アルテミオ・リカルテの生家は現在フィリピン国バタック市のリカルテ国立聖堂である。
  • アルテミオ・リカルテ将軍のカヴィテにおける戦いと功績に対し、標識がカヴィテ州ゼネラル・トリアスの町に用意された。

山下公園にあるリカルテ将軍記念碑の碑文[編集]

リカルテ将軍記念碑

アルテミオ・リカルテは一八六六年十月二十日フィリピン共和国北イロコス州バタック町に生る。一八九六年祖国独立のため挙兵、一九一五年「平和の鐘の鳴るまで祖国の土をふまず」と日本に亡命、横浜市山下町一四九に寓居す。一九四三年生涯の夢であった祖国の独立を見しも、八十才の高令と病気のため一九四五年七月三十一日北部ルソンの山中に於て波乱の一生を終る。リカルテは真の愛国者であり、フィリピンの国家英雄であった。茲に記念碑を建て、この地を訪れる比国人にリカルテ亡命の地を示し、併せて日比親善の一助とす。

昭和四十六年十月二十日
財団法人 フィリピン協会
会長 岸 信介

脚注[編集]

  1. ^ 『アジアに生きる大東亜戦争』展転社、18-19頁 ISBN 4-88656-045-8
  2. ^ 2008年9月19日現在の英文記事ではマビニは米国への忠誠の誓いを行ったとされているが『アジアに生きる大東亜戦争』の32頁によれば誓いを行っていない。
  3. ^ 『アジアに生きる大東亜戦争』34頁
  4. ^ 『アジアに生きる大東亜戦争』36頁
  5. ^ 荒哲「リカルテ将軍に関する一考察」『季刊国際政治』120号、1999年2月