エミリオ・アギナルド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
エミリオ・アギナルド・イ・ファミイ
Emilio Aguinaldo y Famy
Emilio Aguinaldo (ca. 1898).jpg

任期 1899年5月24日1901年4月1日

出生 1869年3月22日
カウィット
死去 1964年2月6日(満94歳没)
ケソン・シティ
政党 カティプナン

エミリオ・アギナルドEmilio Aguinaldo y Famy, 1869年3月22日 - 1964年2月6日)は、フィリピン革命家にしてフィリピン共和国の初代大統領

業績を記念し、マニラのエドゥサ通りにあるアギナルド空軍基地(国防省が同居)にその名が残されている。また、1987年より発行されていた5ペソ紙幣に肖像が使用されていた。

生涯[編集]

フィリピン共和国の現カヴィテ州カウィットの町に生まれる。当時のフィリピンはスペイン植民地化されており、重税と重労働で虐げられていたが、1892年アンドレス・ボニファシオが中心となり秘密結社「カティプナン」を結成し、1896年8月に武装蜂起。その時アギナルドは現カヴィテ市にあたる町で町長を務めていたが、カティプナンの戦列に加わった。

1897年、カティプナンの内部抗争からアギナルドはボニファシオを銃殺し指導権を握る。その後もアギナルドはゲリラ戦を展開しつつスペイン軍と交戦を続け、同年11月、ブラカン州に総司令部を置き、「ビアクナバト共和国」を樹立。自ら大統領と名乗る。同年スペインと和平協定(ビアクナバト協定)を結び、アギナルドをはじめカティプナンのリーダー格らは香港亡命し、香港の湾仔街(ワンチャイ)で自転車業を営む。

これに伴いフィリピンのスペインからの独立運動もしばらく落ち着くかのように見えたが、1898年2月、ハバナ湾で米艦隊がスペイン軍によって爆破された事をきっかけに米西戦争が勃発。アメリカ合衆国はフィリピンの独立に全面協力することを条件に、香港へ亡命していたアギナルドに米西戦争に協力しフィリピン上陸の案内をするよう要請。アギナルドはこれを受け入れ、米艦隊とともにフィリピンに帰国し独立運動を再開し再戦。マニラ湾海戦の後に、デューイ代将と旗艦オリンピアで会談し、独立軍を率いてスペイン陸軍の攻撃に移った。1898年6月12日に現カウィットの自宅にてフィリピンの独立を宣言した。現在も6月12日は独立記念日とされている。

同年8月13日、米軍とともにマニラにあったスペイン総督府を陥落させスペインとの戦闘を終結。9月15日にはブラカン州マロロスで革命議会を開催し、翌1899年1月23日にはマロロス憲法公布しフィリピン共和国(第一次共和国)を樹立、初代大統領に就任した。

しかし前年、1898年12月10日にアメリカとスペインの間に結ばれたパリ講和条約によって、スペインはアメリカにフィリピンの領有権を約2000万ドルで譲渡。時のアメリカ大統領ウィリアム・マッキンリーは「フィリピン群諸島は合衆国の自由なる旗のもとに置かれなければならない」とする声明を発表したが、アギナルドをはじめフィリピン国民は一斉に激しく抗議。アメリカ合衆国との間に新たな戦争が勃発する(米比戦争)。

1900年には当時の首都マロロスが陥落し正規軍は解散、ゲリラ戦を展開するが、翌1901年3月、イサベラ州パラナンでアギナルドは米軍に捕らえられアメリカの主権を認めざるを得なくなった。

マニュエル・ケソン(右)と(1935年)

アギナルドは隠遁していたが、第二次世界大戦によってアメリカの植民地であるフィリピンに日本軍が進撃してくるとアギナルドは日本と協力し、日本を応援する演説を行い、演説の中にはラジオを通してコレヒドール島に立て篭もっているマッカーサーに対してフィリピンの無実の若者の命を助けるために降伏するよう求める演説までも行った。再びアメリカ軍がフィリピンに戻ってくるとアギナルドは日本軍協力者であるとして逮捕された。

その後もフィリピンの独立を裏から支え、ついに1946年7月4日、第三次フィリピン共和国が成立しそのパレードにアギナルドはフィリピン国旗を高々と掲げるに至った。

フィリピン共和国の独立に一生を捧げたアギナルドの波乱の人生は1964年2月6日に幕を下ろした。

関連項目[編集]