ヤン・ペーター・バルケネンデ
|
ヤン・ペーター・バルケネンデ
Jan Peter Balkenende |
|
|
|
|
| 任期 2002年7月22日 – 2010年10月14日 |
|
| 君主 | ベアトリクス |
|---|---|
| 前任者 | ウィム・コック |
| 後任者 | マルク・ルッテ |
|
|
|
| 出生 | 1956年5月7日(57歳) |
| 本名 | ヤン・ピーター・バルケネンデ (Jan Pieter Balkenende) |
| 国籍 | オランダ |
| 政党 | キリスト教民主アピール |
| 居住地 | オランダ カペレ・アーン・デン・エイセル |
| 母校 | アムステルダム自由大学 |
| 職業 | 政治学者 公務員 教授 |
| 信仰 | オランダプロテスタント教会 |
ヤン・ペーター・バルケネンデ(
Jan Peter Balkenende, 1956年5月7日 - )は、オランダの政治家。キリスト教民主アピール所属。2002年7月22日から2010年10月14日まで、4期にわたって同国首相を務めた。
目次 |
少年時代 [編集]
ヤン・ペーター・バルケネンデ(戸籍上の名前はヤン・ピーター・バルケネンデ (Jan Pieter Balkenende))は1956年5月7日にオランダのカペレ近郊にあるビーゼリンヘで生まれた。父親は穀物商で、母親は教師という家庭であった。現在、バルケネンデはカペレ・アーン・デン・エイセルに妻と娘とともに住んでいる。またバルケネンデ自身は首相公邸ではなく、デン・ハーグ市内にあるアパートを借りている。
学生時代 [編集]
バルケネンデはプロテスタント系の初等学校に通学していた。またフースで中等教育を受け、1974年に中等学校を卒業した。
その後アムステルダムにある自由大学で学び、1980年に歴史学で M.A.、1982年にオランダ法学で LL.M 、1992年に法学で Ph.D を取得した。
政治経歴 [編集]
政界入り直後 [編集]
バルケネンデの政界での経歴はキリスト教民主アピールの研究機関の職員から始まり、その後アムステルフェーンの市議会議員となった。このころに共同体主義者であるアミタイ・エツィオーニの影響を強く受け[1]、論文 "Overheidsregelgeving en maatschappelijke organisaties"(日本語仮訳「行政法規と社会団体」)で Ph.D を取得した。その後アムステルダム自由大学でキリスト教社会思想の員外教授となった。
1988年5月19日、キリスト教民主アピールは野党であったが、バルケネンデは第二院の議員となった。バルケネンデはキリスト教民主アピールで財政を専門として活動し、また社会問題や司法、国内問題にも携わっていった。この活動においてバルケネンデは国債の削減と財政健全化を訴えていくようになった。
2001年10月1日、バルケネンデはヤープ・デ・ホープ・スヘッフェルの後任としてキリスト教民主アピールの議員団長に選出された。同年11月3日には翌年5月の選挙において比例名簿の最上位となることが決まった。選挙の結果、キリスト教民主アピールは第二院における最大政党の地位を奪回した。
首相在任期 [編集]
バルケネンデは4期にわたって首相を務めている。
第1次政権 [編集]
2002年7月4日、総選挙後にウィム・コックが首相辞任を表明したことをうけて女王ベアトリクスはバルケネンデに新政権の樹立を要請した。第1次バルケネンデ政権にはピム・フォルタイン・リストが加わったが、その代表だったピム・フォルタインは選挙の数日前に暗殺されている。ところがピム・フォルタイン・リストの内部対立で政権が不安定化し、発足からわずか86日後に第1次バルケネンデ政権は崩壊した。
第2次政権 [編集]
2003年の総選挙を経て、バルケネンデはリベラル系の自由民主国民党と革新系の民主66との連立で第2次政権を樹立した。中道右派連立政権の首班となったバルケネンデが掲げた政策はオランダの行政改革、犯罪抑止、強硬な移民政策、歴史的に大幅な歳出の削減といったものを中心に展開した。また政権発足後まもなく始まったイラク戦争を支持、反戦世論が強かったEU諸国の中で、際立った親米姿勢を見せた国となった。これらの施策は世論の大きな反発を受け、キリスト教民主アピールの支持率が低下する結果となった。2004年の欧州議会議員選挙でキリスト教民主アピールは、議席を大幅に失うという大方の予想に反して引き続き最大議席を獲得したものの、2006年の地方選挙では多くの地方政府で第1党の地位を失うという大敗を喫した。2006年の世論調査ではバルケネンデの首相としての支持率が 26-33% にとどまるという結果が出され、有権者からの人気が低下していたにもかかわらず、キリスト教民主アピールの指導者としてのバルケネンデの地位は引き続き安定したものであった。2006年の初旬にキリスト教民主アピールの一部から、バルケネンデを降ろして農業・自然・食品安全相のセース・フェールマンを担ぎ上げようとする動きがあった。フェールマンはこの動きに応じず、バルケネンデに対する支持を表明した。その後バルケネンデの人気が回復し、2006年の秋には首相にふさわしい人物について調査がなされたところ、バルケネンデが 53% という結果となり、同 40% だった野党第1党の党首であるファウター・ボスを上回った[2]。この世論調査での逆転は前年のオランダ経済の着実な回復を見せたことを受けて政権が評価されたことによるものと考えられ、またボスを次期首相としてふさわしいと考える有権者が減ったとみなされた。
第3次政権 [編集]
2006年6月30日に連立与党で最小の民主66は、第二院議員アヤーン・ヒルシ・アリの帰化をめぐる騒動での移民相リタ・フェルドンクの対応に反発して連立から離脱した。バルケネンデは首相辞任と早期の総選挙実施を表明し、1週間後に暫定政権となる第3次政権を発足させた。第3次政権はキリスト教民主アピールと自由民主国民党による少数連立与党で構成され、2006年11月22日の総選挙まで在任することとなった。
第4次政権 [編集]
バルケネンデは総選挙で勝利し、キリスト教民主アピールの第1党としての地位を守った。この結果を受けて過半数を持つ新しい政権の樹立のための連立相手を求め、バルケネンデは労働党と正統派プロテスタントのキリスト教同盟との社会・キリスト教連立を形成した。2007年2月9日に女王ベアトリクスはバルケネンデを組閣担当者 (formateur) に指名し[3]、同月13日に第4次バルケネンデ政権を宣言、22日に発足させた。
2010年6月9日投開票の総選挙では野党・自由民主国民党に敗北し、同日のうちに首相退陣と政界引退を表明した[4]。
備考 [編集]
バルケネンデは『ハリー・ポッターシリーズ』の主人公ハリー・ポッターにとても似ていることで知られ、実際オランダ人から Jan Potter と呼ばれる。このことはある種の侮辱をもって指摘されることもあるが、彼が子どもなどから人気を得るのに一役買っている面もある。2005年6月4日にベルギーのフラマン語紙 Het Laatste Nieuws 上で同国外相カレル・ドゥ・グヒュトは両者を比較して「バルケネンデはハリー・ポッターにチビでお堅いブルジョワの知能を混ぜたようなもの」と発言した。これはオランダとベルギーの間で外交問題となり、ベルギーの駐オランダ大使はオランダ外相ベルナルト・ボットに謝罪を行なった[5]。
脚注 [編集]
- ^ Cuperus, Rene; Becker, Frans (2007年4月18日). “The political centre under pressure: elections in the Netherlands” (英語). Policy Network. 2009年11月15日閲覧。
- ^ Kooistra, Jan (2006年9月10日). “Balkenende als premier populairder dan Bos” (オランダ語). Elsevier.nl. 2009年11月15日閲覧。
- ^ “Balkenende benoemd tot formateur” (オランダ語). NOS.nl (2007年2月10日). 2009年11月15日閲覧。
- ^ “オランダ政権交代へ、「緊縮財政」掲げ野党勝利”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). (2010年6月10日) 2010年6月10日閲覧。
- ^ “Belgian Potter jibe upsets Dutch” (英語). BBC News (2005年6月6日). 2009年11月15日閲覧。
外部リンク [編集]
- オランダ政府(オランダ語)
- Mr.dr. J.P. Balkenende(オランダ語) - Parlement & Politiek(ライデン大学)による
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: ウィム・コック |
第49代:2002 - 2010 |
次代: マルク・ルッテ |
2002 - 2010 |
||