ヴォルフガング・ショイブレ

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ヴォルフガング・ショイブレ

ヴォルフガング・ショイブレWolfgang Schäuble, 1942年9月18日 - )は、ドイツ政治家1998年から2000年までドイツキリスト教民主同盟(CDU)の党首を務めた。またヘルムート・コール内閣で首相府長官と内相を歴任し、2005年からはアンゲラ・メルケル内閣で再び内相を務めた。同内閣で2009年より財相に転じている。

目次

経歴[編集]

出自・家族[編集]

1942年9月18日フライブルクに生まれる。1961年にアビトゥーア合格。フライブルク大学ハンブルク大学で法学と経済学を学ぶ。1966年、第一次法曹試験に合格し大学を修了。1970年に第二次法曹試験に合格。翌年法学博士号を取得。同時にバーデン=ヴュルテンベルク州の税務署で働くようになり、後にフライブルクの税務署の管理部門主任となる。1978年から1984年まではオッフェンブルクで弁護士として働いた。

弟トーマスも政治家で、バーデン=ヴュルテンベルク州内相を務めた。ショイブレは経済学者の夫人との間に四子をもうける。娘の一人はCDUの連邦議会議員(CDUの同州事務局長)と結婚している。

1992年にエアランゲン・ニュルンベルク大学より、2005年11月に母校フライブルク大学、ついで2009年6月にテュービンゲン大学より、それぞれ名誉博士号を授与された。

ドイツ外務省に保管されている、東西ドイツ統一条約文書。ページ左側にショイブレの署名がある

政界[編集]

政治と関連を持ち始めたのは、1961年にドイツキリスト教民主同盟(CDU)の青年部(Junge Union)に参加したのが始まり。在学中ハンブルク大学のキリスト教民主主義学生連盟(RCDS)代表を務める。1965年にCDUの党員となる。1969年から1972年まで南バーデンの青年部委員長を務める。1972年、連邦議会に初当選。1976年‐1984年、党のスポーツ委員会委員長。1981年‐1984年、連邦議会院内総務。

1984年、第二次ヘルムート・コール内閣に国務大臣兼首相府長官として入閣。1987年のエーリッヒ・ホーネッカードイツ民主共和国(東ドイツ)国家評議会議長による西ドイツ訪問の交渉責任者となった。内閣改造による第三次コール政権の成立に伴い、1989年4月から内相に転じる。翌年の東西ドイツ再統一条約交渉に西ドイツ側代表として参加し、1990年8月31日に調印した。統一直後に行われた連邦議会選挙戦の最中の1990年12月、精神病の男性に背後から銃撃を受け、脊髄に重傷を負う。命は取り留めたものの下半身麻痺となり、以後は車椅子生活となっている。犯人の男性は責任能力無しとみなされ精神病院に収容されたが、のちにこの事件を謝罪し、2004年には仮退院した。この選挙戦では野党ドイツ社会民主党(SPD)の首相候補オスカー・ラフォンテーヌも精神病の女性に刺され、瀕死の重傷を負っている。

観劇するショイブレと夫人(2007年、ベルリン)

党首[編集]

1991年から2000年まで、CDU・CSU連邦議会議員団長を務める。ショイブレはコールの後継者と見なされたが、コールはなかなか党首の地位を明け渡そうとせず、1997年にショイブレを後継党首に指名したものの、少なくとも2002年までは党首に留まるつもりであると宣言した。しかし首相・党首の座に執着したコールは1998年の連邦議会選挙で大敗してSPDによる政権交代を許し、辞任に追い込まれた。直後の1998年にショイブレがCDU党首に就任。しかし翌年になって、コール時代の1994年にショイブレ自身が武器商人からCDU宛に10万ドイツマルクの不正献金を受けていた疑惑が発覚。最初は沈黙していたが2000年1月になってこれを認めて謝罪し、2月に党首を辞任した。後任党首にはアンゲラ・メルケル幹事長が選出された。なお汚職罪の追及は証拠不十分で捜査が停止された。

2001年、ベルリンエーベルハルト・ディープゲン市長のリコールに伴う選挙に、市長候補としてショイブレを推す声もあったが、スキャンダルの直後だけに地元議員に拒否された。同様に2004年でも大統領選挙に党の重鎮として候補に取りざたされたが、やはりクリーンなイメージに欠けるということで早々に外された。2002年の連邦議会選挙後に党副幹事長に就任していたが、2005年11月、アンゲラ・メルケル政権の成立に伴い、再び内相として入閣した。この入閣にも批判する声があった。ドイツ連邦議会2009年選挙後は連立組み替えにより財相に転じた。

政治姿勢[編集]

ショイブレはCDUの中でも保守派とみなされている。1991年に統一ドイツの首都をボンからベルリンに戻すことが決められたが、その決定にはショイブレの国会演説が大きな役割を果たした。またヨーロッパ大陸の中央に位置する神聖ローマ帝国の歴史に照らして、愛国主義は健全な国民意識であり、ヨーロッパの理念と対立するものではないと肯定的に捉えている。またエリートにその意識をもつことを主張している。学校でのイスラム教の宗教教育には賛成しているが、宗教的シンボルとしてのスカーフ着用には「ヨーロッパの価値観にそぐわない」として反対している。SPDのゲアハルト・シュレーダー政権が進めた国籍法改正に反対し、同化主義を主張して二重国籍制度に反対するキャンペーンを繰り広げた。

メルケル政権の内相・財務相としても強硬な姿勢が指摘されている。内相時代は対テロ戦争を想定して国内の治安維持にドイツ連邦軍が出動出来るよう憲法改正を主張している。またテロ危険人物の収容施設設置や、国外でのテロリストに対する拷問により得られた情報の利用を提案し、野党のみならず大連立の相手であるSPDからも強い反対を受けた。オンライン捜査を認める憲法改正も主張している。ドイツ国内で開催された2006 FIFAワールドカップ第33回主要国首脳会議ハイリゲンダム・サミット)の際は、治安維持や反グローバリゼーション活動家対策のため、EU内のドイツ国境での入国審査を一時的に復活させた。このような姿勢は旧東ドイツの「シュタージ」のような監視国家体制に繋がる、と彼の反対派は非難している。

財務相就任はユーロ圏ソブリン危機渦中でのものだったが、2011年11月29日のユーロ圏財務相会議(ブリュッセル)に先立ち「例えばリスボン条約第14条などの限定的な条約により、、欧州の機関が安定成長協定の責務を強化することが可能になるよう望む」と発言[1]。同年12月6日、スタンダード&プアーズ(S&P)がユーロ圏15カ国の長期・短期ソブリン信用格付けを引き下げ方向で見直すと声明した事に対し「全世界の市場は今ユーロ圏を全く信用していない」「S&Pの見直し声明は、欧州の首脳らに約束を果たすこと、つまり必要な決定を一つ一つ下し、世界の投資家の信頼を回復することを促す」と評し[2]、「非常に誇張したもので公正でない」[3]と批判したユーログループ議長のジャン=クロード・ユンケルと対照的な態度を示した。その一方、欧州委員会が2011年11月23日に打開策として提案した[4]ユーロ共同債については「まず各国の財政規律の強化が確実になってから」と否定的な主張をしている [5]

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  1. ^ ショイブレ財務相:ドイツは財政規律強化に向けた条約変更を望む 2011年11月29日付 Bloomberg.co.jp
  2. ^ S&Pはユーロ圏の応援団、警告は首脳らへの「激励」-独財務相 2011年12月6日付 Bloomberg.co.jp
  3. ^ S&Pユーロ圏格付け見直し、非常に誇張したもの─ユーロG議長=報道 2011年12月6日付 ロイター・ジャパン
  4. ^ ユーロ共同債、発行に向けて取り組み前進を-欧州議会の経済委員会 2011年12月20日付 Bloomberg.co.jp
  5. ^ ドイツ財務相:ユーロ共同債の議論は「安定同盟」の達成後に可能に 2011年11月28日付 Bloomberg.co.jp

外部リンク[編集]


先代:
ヴァルデマー・シュレッケンベルガー
ドイツ連邦共和国連邦首相府長官
1984年 - 1989年
次代:
ルドルフ・ザイタース
先代:
フリードリッヒ・ツィンマーマン
ドイツ連邦共和国内務大臣
1989年 - 1991年
次代:
ルドルフ・ザイタース
先代:
オットー・シリー
ドイツ連邦共和国内務大臣
2005年 -2009年
次代:
トーマス・デメジエール
先代:
ペール・シュタインブリュック
ドイツ連邦共和国財務大臣
2009年 -
次代:
在職中