ヴォルフガング・ショイブレ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴォルフガング・ショイブレ(Wolfgang Schäuble, 1942年9月18日 - )は、ドイツの政治家。1998年から2000年までドイツキリスト教民主同盟(CDU)の党首を務めた。またヘルムート・コール内閣で首相府長官と内相を歴任し、2005年からはアンゲラ・メルケル内閣で再び内相を務めている。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 出自・家族
1942年9月18日フライブルクに生まれる。1961年にアビトゥーア合格。フライブルク大学とハンブルク大学で法学と経済学を学ぶ。1966年、第一次法曹試験に合格し大学を修了。1970年に第二次法曹試験に合格。翌年法学博士号を取得。同時にバーデン=ヴュルテンベルク州の税務署で働くようになり、後にフライブルクの税務署の管理部門主任となる。1978年から1984年まではオッフェンブルクで弁護士として働いた。
弟トーマスも政治家で、バーデン=ヴュルテンベルク州内相を務めた。ショイブレは経済学者の夫人との間に四子をもうける。娘の一人はCDUの連邦議会議員(CDUの同州事務局長)と結婚している。
[編集] 政界
政治と関連を持ち始めたのは、1961年にドイツキリスト教民主同盟(CDU)の青年部(Junge Union)に参加したのが始まり。在学中ハンブルク大学のキリスト教民主主義学生連盟(RCDS)代表を務める。1965年にCDUの党員となる。1969年から1972年まで南バーデンの青年部委員長を務める。1972年、連邦議会に初当選。1976年‐1984年、党のスポーツ委員会委員長。1981年‐1984年、連邦議会院内総務。
1984年、第二次ヘルムート・コール内閣に国務大臣兼首相府長官として入閣。1987年のエーリッヒ・ホーネッカー・ドイツ民主共和国(東ドイツ)国家評議会議長による西ドイツ訪問の交渉責任者となった。内閣改造による第三次コール政権の成立に伴い、1989年4月から内相に転じる。翌年の東西ドイツ再統一条約交渉に西ドイツ側代表として参加し、1990年8月31日に調印した。統一直後に行われた連邦議会選挙戦の最中の1990年12月、精神病の男性に背後から銃撃を受け、脊髄に重傷を負う。命は取り留めたものの下半身麻痺となり、以後は車椅子生活となっている。犯人の男性は責任能力無しとみなされ精神病院に収容されたが、のちにこの事件を謝罪し、2004年には仮退院した。この選挙戦では野党ドイツ社会民主党(SPD)の首相候補オスカー・ラフォンテーヌも精神病の女性に刺され、瀕死の重傷を負っている。
[編集] 党首
1991年から2000年CDU・CSU連邦議会議員団長。ショイブレはコールの後継者と見なされたが、コールはなかなか党首の地位を明け渡そうとせず、1997年にショイブレを後継党首に指名したものの、少なくとも2002年までは党首に留まるつもりであると宣言した。しかし首相・党首の座に執着したコールは1998年の連邦議会選挙で大敗してSPDによる政権交代を許し、辞任に追い込まれた。直後の1998年にショイブレがCDU党首に就任。しかし翌年になって、コール時代の1994年にショイブレ自身が武器商人からCDU宛に10万ドイツマルクの不正献金を受けていた疑惑が発覚。最初は沈黙していたが2000年1月になってこれを認めて謝罪し、2月に党首を辞任した。後任党首にはアンゲラ・メルケル幹事長が選出された。なお汚職罪の追及は証拠不十分で捜査が停止された。
2001年、ベルリンのエーベルハルト・ディープゲン市長のリコールに伴う選挙に、市長候補としてショイブレを推す声もあったが、スキャンダルの直後だけに地元議員に拒否された。同様に2004年でも大統領選挙に党の重鎮として候補に取りざたされたが、やはりクリーンなイメージに欠けるということで早々に外された。2002年の連邦議会選挙後に党副幹事長に就任していたが、2005年11月、アンゲラ・メルケル政権の成立に伴い、再び内相として入閣した。この入閣にも批判する声があった。
[編集] 政治姿勢
ショイブレはCDUの中でも保守派とみなされている。1991年に統一ドイツの首都をボンからベルリンに戻すことが決められたが、その決定にはショイブレの国会演説が大きな役割を果たした。またヨーロッパ大陸の中央に位置する神聖ローマ帝国の歴史に照らして、愛国主義は健全な国民意識であり、ヨーロッパの理念と対立するものではないと肯定的に捉えている。またエリートにその意識をもつことを主張している。学校でのイスラム教の宗教教育には賛成しているが、宗教的シンボルとしてのスカーフ着用には「ヨーロッパの価値観にそぐわない」として反対している。SPDのゲアハルト・シュレーダー政権が進めた国籍法改正に反対し、同化主義を主張して二重国籍制度に反対するキャンペーンを繰り広げた。
メルケル政権の内相としても強硬な姿勢が指摘されている。対テロ戦争を想定して国内の治安維持にドイツ連邦軍が出動出来るよう憲法改正を主張している。またテロ危険人物の収容施設設置や、国外でのテロリストに対する拷問により得られた情報の利用を提案し、野党のみならず大連立の相手であるSPDからも強い反対を受けた。オンライン捜査を認める憲法改正も主張している。ドイツ国内で開催された2006 FIFAワールドカップや第33回主要国首脳会議(ハイリゲンダム・サミット)の際は、治安維持や反グローバリゼーション活動家対策のため、EU内のドイツ国境での入国審査を一時的に復活させた。このような姿勢は旧東ドイツの「シュタージ」のような監視国家体制に繋がる、と彼の反対派は非難している。
[編集] 外部リンク
- ホームページ (ドイツ語)
- ドイツ連邦議会 経歴紹介 (ドイツ語)
|
|
|
|
|
|
|

