エレナ・チャウシェスク

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エレナ・チャウシェスク
Elena Ceauşescu
エレナ・チャウシェスク(1978)
生誕 1919年1月7日
日本テレビ系「DON!」(きょうは何の日…2010年12月22日放送分)では1916年生まれと紹介された。

ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国 ワラキア
国籍 ルーマニアの旗 ルーマニア
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エレナ・チャウシェスクElena Ceauşescu1919年1月7日 - 1989年12月25日)は、ルーマニア共和国の元首であったニコラエ・チャウシェスクの妻で、夫の独裁政治を支え、強大な権力を有した。また、その権力によって名声を得ることになった科学者でもあった。西側諸国からは好感を持たれたが、1985年ソ連ゴルバチョフ政権が誕生しペレストロイカを推進すると、1989年12月に起きたルーマニア革命で、革命軍に夫と共に処刑銃殺)された。

目次

[編集] 生涯

ワラキア地方の小さな村で農家の娘・レヌーツァ・ペトレスクとして生まれた。幼い頃は活発な性格ではあったが、勉強が大の苦手で、小学校4年生の時に14科目中9科目で落第を取ったことを期に学校を中退し、後にブカレストの工場で勤務。1930年代半ばに、ルーマニア共産党に入党。1939年にニコラエと出会い、1946年に結婚し、名をエレナに改めた。結婚後に工業化学を学び、科学研究所で研究者として働いた。また、共産党が権力を握るようになり、彼女は外務省勤務の秘書となる。夫との間に長男ヴァレンティン(実の子ではなく、夫妻が孤児院から引き取った養子)・次男ニク・長女ゾヤの3人の子供があり、1950年代は家族の世話に専念。1960年代になると博士号を取得、科学研究所所長となったが、エレナ自身は学校を中退しているため、この博士号は不正な取得によるものとされる(水素の元素記号すら知らなかったという)。

1965年に夫が党の中央書記長になると、ルーマニアの政治的な偶像として注目を集めるようになる。1971年中華人民共和国への外遊で毛沢東夫人の江青が政治的に影響力を持っていることを知ると、自分も同じような役割を担うことを望み(この時、江青から「指導者の妻はもっと政治に関わるべきだ」とのアドバイスを受けたとされる)、1973年に政治執行委員会の一員となった。1980年には第一副首相の地位にまで登りつめた。さらにこの時期には、夫と共に個人崇拝を強め、科学者としての権威を高めようとした。他人に書かせた100以上の論文を発表し、名誉博士号の収集に熱中した。また、国庫金を利用してルーマニア各地に別荘を作り、一般国民とはかけ離れた大宮殿に住む優雅な生活をしていたという。

ルーマニア政府が国家政策として避妊堕胎手術を禁止した上に、法律で女性に5人以上子供を産むことを強要したことにより、後に「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれる大量のストリートチルドレンを生んだことへの責任があるといわれている。また、保健管理委員会の委員長として、共産主義国家にエイズは存在しないと主張。後の大流行の原因を作った。

1989年、ルーマニアは貿易赤字に苦しんでおり、生活水準が低下していた。また、秘密警察セクリタテア)などの監視による言論の統制などで不満分子を抑圧していたが、西側の情報が僅かに入るにつれ、ついに民衆の不満が爆発したと伝えられている。同年12月、国民の自由獲得への反政府デモや暴動が全国各地で起こり、チャウシェスク夫妻は逃走した。これらの様子は、ルーマニア国営テレビを通じ全国に放送された。翌22日、エレナは夫チャウシェスクと共にヘリで逃走を試みる。22日13時、救国戦線は国営テレビ、ラジオ局を掌握。同17時、救国戦線が政権を掌握した。

23日に、チャウシェスク夫妻はトゥルゴヴィシュテにおいて救国戦線により逮捕される。25日、救国戦線はチャウシェスク夫妻を、6万人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、軍事裁判で銃殺刑の判決が下り、即日処刑された。彼女は、夫と同じブカレストのゲンチャ墓地に、夫と別々に埋葬された。

[編集] 題材にした作品

  • 『赤い王朝 チャウシェスク独裁政権の内幕』
イオン・M・パチェパ、住谷春也訳 恒文社、1993年
チャウシェスク独裁政権の内幕 側近によるノンフィクション作品である。
  • 鈴木四郎『チャウシェスク銃殺その後 ルーマニアはどこへ』中公文庫、1991年
  • 鯛夢『エレナ・チャウシェスク』短編漫画、ぶんか社「月刊いちばん残酷なまんがグリム童話」2011年10月号掲載

[編集] 外部リンク

[編集] 関連項目

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