重農主義

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重農主義(じゅうのうしゅぎ、: physiocracy)とは18世紀後半、フランスフランソワ・ケネーなどによって主張された経済思想およびそれに基づく政策である。

概要[編集]

重農主義は、18世紀後半のフランスで、ルイ15世の暴政の下で戦争と王権による贅沢によって経済・社会が疲弊した頃に発生した[1]富の唯一の源泉は農業であるとの立場から、農業生産を重視する理論であり、重商主義を批判し、レッセフェール(自由放任)を主張した。この考え方はアダム・スミスの思想に大きな影響を与えた。

また、史上初めて創始者と共通の思想を持った経済学派であるとされる。

理論[編集]

「physiocracy」とは、「physeos kratesis(自然(の秩序)による統治/支配)」という言葉に由来していると言われている。

ケネーは『経済表』を作成してその自然が形成する秩序の姿を明らかにしようとした。彼は社会は神によって創造された自然秩序に基づいて形成されるものとして人為的な社会契約説には批判的であった。自然秩序は物理道徳の両法則によって形成され、自然法実定法はこれを制御するために生み出されたものである。人間は自然法則によって自己の欲望を満たしたいとする欲求を実現する権利を持っており、その実現を保障するのが自由権財産権であり、国家は実定法を用いてこれを保障する義務を持つと唱えた。また、同時に彼は農業によって生み出された剰余価値(純生産物)が農業資本の拡大再生産をもたらす。一方、商工業は農業がもたらす原材料がなければ何も生産出来ず、生産者としての価値は存在しない。農業生産の拡大再生産による恩恵が原材料などの形で商工業に流れることで初めて商工業が発展すると唱えた。彼は社会を地主(貴族・僧侶)・生産者(農民)・非生産者(商工業)に分類し、絶対王政国家の重商主義政策や家産国家的財政観、強力な領主(地主階層)権力による経済統制・支配こそが経済発展を阻害する最大の原因と考えた。それを克服するためには、

  • 交易(とりわけ穀物などの農産物)の自由化
  • 「地租単税」論(関税などの商工業への課税を廃して土地のみを課税の対象とする)
  • 国家収入からの公共投資(道路・河川・運河などの整備による農業・商工業基盤の活性化)

などによって経済活動を自由化して、国家財政はその基盤整備のために用いられるべきであるとした。

彼の思想はジャック・テュルゴーデュ・ポン・ド・ヌムールメルシエ・ド・ラ・リヴィエールらに継承される。特にケネーの直弟子であるテュルゴーは実際に政府閣僚として重農主義政策を推進してギルドの廃止や囲い込みの禁止、流通の自由化などが図られたが、穀物流通の自由化や土地課税は王宮や地主階層の抵抗を受けて失敗に終わっている。また、産業革命が先行したイギリスとの関税の廃止はイギリス商品の大量流入を招いた。その結果、地主と農民の対立、都市ギルドと農村マニュファクチュアの対立、国家財政を基盤整備に用いず贅沢とそれが生んだ借金の穴埋めにしか用いないブルボン朝への批判へと発展し、フランス革命の遠因となった。

また、経済学においてはイギリスのアダム・スミスらの古典学派経済学の発展やカール・マルクス社会主義経済学への批判的継承などに影響を与えた。その一方で、地主による資本主義的農業経営の中で既存の封建主義的システムが継続され、生産者階層である農民の土地所有を前提としていないことに注意が必要である。

影響[編集]

東アジアにおいても重農主義と類似した農本思想が存在しているが、東西を問わずこうした思想が発達した背景には、近代農業以前において農業生産は極めて不安定であり、農作物の不作がしばしば発生したことがある。不作は食料品の価格上昇につながり、場合によっては飢饉流民その他社会不安を惹き起こす可能性もあった。従って、国家社会にとって食料の確保は重要な課題であり、その死命を制するものであった。そこに農業を保護する事を重視する政治・経済思想(重農主義・農本思想)が現われるようになったのである。

重農主義が成立した18世紀は、中国の思想がイエズス会宣教師によって欧州に紹介されはじめた時期でもあり、重農主義の理論にはイエズス会宣教師の著書を通じて中国などの農本思想が影響をあたえていたとする研究もある[2]

主要な理論家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 橘木俊詔 『朝日おとなの学びなおし 経済学 課題解明の経済学史』 朝日新聞出版、2012年、15頁。
  2. ^ Christian Gerlach, "Wu-Wei in Europe. A Study of Eurasian Economic Thought" (Department of Economic History London School of Economics March 2005)[1] (PDF)

関連項目[編集]