ジョン・ロー
ジョン・ロー(仏: John Law de Lauriston, 1671年4月21日 - 1729年5月21日)は、スコットランド出身の経済思想家、実業家、財政家である。真手形主義[1] や稀少価値論 [2]を提唱した嚆矢とされる。ジョン・ローはスコットランド人でありながら、後年にはコルベールやテュルゴー、ネッケルらがかつて就いた財務総監に就任し、フランス(ブルボン朝、ルイ16世)初の紙幣を発行するに至った。
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[編集] ジョン・ローの思想
ジョン・ローの貨幣理論は、先古典派経済学の時代の重商主義が全盛を迎えたフランス経済にパラドックスともいえる理論を提示した。王立銀行券の問題は、確かに全国土の貨幣制度を紙幣にする試みであり、ある種、夢想家[3]と思われても仕方がない。18世紀に入り、彼は独自の先駆的な貨幣理論を持ち歩いたが、いずれにしても失敗に終わっている。もっとも、ローの持つ貨幣理論には現実的な側面があった。それは兌換貨幣がもつ貨幣価値の保存において、貨幣鋳造に関連する不確実性によって多大な損失を被る可能性がある。このときリスクにバランスを保つということを考えた。
ローは、自らの貨幣理論を遂行するに当たって、金融政策のセオリーを採用している。すなわち、対外経常収支に関する禁止事項を作成し、「平価切下げ[4]」などの貨幣のハードルを高くする政策を採る。そして銀行の仲介業務を通じた信用を確保し、紙幣が物価を保証するというものである。だが、彼は大衆を良く理解しており、貨幣理論の持つ特徴である労働価値、安定性、無限時間といった性質を熟知し、「国家の利益のロジック[5]」を用いて自らの政策を説明している。
フランス政府の公債整理計画は、パニックを利用した計画性のある貨幣政策であるが、1926年の時(ルール問題に関連するフランス国内のインフレーション)のように、その一貫性がしばしば仇になった。ローは、金銀正貨が経済力を示す世界において、国内の影響を考えながら、「アンチジョンロー」を順化させる方針を採ったのである。一般銀行の王立銀行への組み入れはその第一歩であった。しかし、結局、ジョン・ローはバブル経済という事態には対応できなかったのである。
[編集] ジョン・ローと財務総監
スコットランドの首都であったエジンバラ近郊の、金細工職人を生業としていた家に出生した。父親は彼にかなりの遺産を遺した。そこで、1694年にロンドンに上京した。お金を湯水のように使ったので、賭博ゲームに手を出さざるを得なかった。しかし、幸運が味方したのか、まもなく財産を築いた。世間からいかさま師との評判が立ったほどだった。彼は友人と決闘することになったが、決闘に勝ったもののロンドン塔に幽閉された。アムステルダムへ逃れてからは、銀行家としての道を歩むことになり、パリ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどに赴き、ヨーロッパ各国の経済システムを注意深く観察し、経済思想家としても自分の思想を持った。ルイ15世の摂政であったオルレアン公爵と懇意であったために、比較的に宮廷では早く出世した。通貨の信用性を初めて強調し、重金主義の批判者としてフランスのジャン=バティスト・コルベール以来の経済政策を批判し、1716年、フランス王立銀行[6]の設立に寄与した。さらに、フランス領ルイジアナミシシッピー開発を担保とした不換紙幣の発行を主唱し、ルイ14世が生み出した多大な財政赤字の解消に寄与した。これがミシシッピ計画である。一方で、この不換紙幣は実際に、ミシシッピー開発が生み出す価値以上の値を付けるバブル経済になった。1720年の取り付け騒ぎが起こると支払い能力以上の現金が引き出され、ミシシッピ計画は破綻した。計画の破綻はフランス大革命の遠因を作り出すこととなった。
[編集] 参考文献
- Charles Rist. 『Histoire des doctrines relatives au credit et a la monnaie:depuis John Law jusqu'a nos jours』Paris:Dalloz 2002 ISBN 1855063336
- チャールズ・マッケイ著 塩野美佳・宮口尚子訳『狂気とバブル』2004年(原著は1852年)パンローリング社 ISBN 4-7759-7037-2
[編集] 脚注・出典
- ^ (The Real Bills Doctrine of Money)
- ^ (The Scarcity Theory of Value)
- ^ (visionnaires)
- ^ (dévaluation)
- ^ (logic au profit d'État)
- ^ (Banque Générale)