ルール占領
ルール占領(ルールせんりょう)とは、第一次世界大戦敗戦国ドイツと、戦勝国フランスとの間での、「ヴェルサイユ体制」における賠償金の支払いをめぐる紛争により、フランス軍とベルギー軍がドイツのルール地方を占領したことを指す。
[編集] 背景
第一次世界大戦後の講和において、フランスはドイツに対し、経済と軍事面で厳しい要求を行った。この結果、ヴェルサイユ条約において、ドイツは、戦争による全ての損害を賠償する義務を負うことが定められた。賠償金の額は、最終的にその後の連合国の協議で決定されることとされ、当面は1921年4月までに200億金マルクが求められた。連合国側は、1920年6月のブローニュの会議で2690億金マルクを要求し、1921年1月のパリの会議でもこの要求を繰り返した。ドイツはこの金額を拒否し、削減のために外交的な努力を行ったのに対し、1921年3月8日に、フランス・ベルギーの連合軍が非武装地帯とされていたデュイスブルクとデュッセルドルフに軍を進め、ドイツに圧力をかけた。
連合国側は、1921年5月に、賠償金の総額を1320億金マルクとし、ドイツは年20億金マルク、かつ輸出額の26%以上を支払うように求め、ドイツが拒否した場合はルール地方を占領するという通告(ロンドンの最終通告)を行った。賠償金削減に努力してきたドイツのフェーレンバッハ内閣は、この要求によって連立政権内部が紛糾し、総辞職した。それを受けて5月10日に成立したヴィルト内閣は少数与党であったが、ドイツ議会は最終通告の内容に同意した。こうして、1320億金マルクという、ドイツにとって非常に過酷な賠償金の支払いが確定した。
[編集] 占領の経過
ドイツにとって賠償金の支払いは厳しいもので、1922年に入ると、連合国側は金銭による支払いをあきらめ、鉄、木材、石炭等の現物による支払いを求めた。しかし、現物による支払いも、順調には進まなかった。
1923年1月11日から16日に、現物による賠償が遅滞しているのはドイツが故意に遅らせているためだと主張し、石炭とコークスによる支払いを確保するためと称して、フランス・ベルギー軍がルール地方全域の占領を開始した。これがルール占領である。
ドイツでは、1年半で退陣したヴィルト内閣の後を受け、賠償金問題を視野に、アメリカと良好な関係を有すヴィルヘルム・クーノが1922年11月に首相に就任していた。クーノは占領に対して受動的な抵抗運動を呼びかけ、炭坑や工場、鉄道、行政は全面的にストライキを行い、占領に抵抗した。ストライキに参加した労働者の給料は、政府が保証した。給料の支払と税収の減少でドイツの財政は破綻し、生産が急減した状況で紙幣が大量に発行された結果、ドイツ経済はハイパーインフレーションへと陥った。8月に入るとドイツ各地で首相に反対するストライキが行われるようになり、議会の支持を失ったクーノ内閣は、在任わずか9ヶ月で退陣へと追い込まれた。
クーノに続いて首相に就任したグスタフ・シュトレーゼマンは、経済立て直しを緊急の課題として大連立内閣を組織し、占領の終了を求めてフランス・ベルギーと交渉した。しかし、フランスが妥協しなかったため、シュトレーゼマンは、占領が続いていた9月26日に、抵抗運動の終了を宣言することとなった。また、デノミネーションを実施し、インフレを沈静化させるのに成功した。しかし、1923年11月にヒトラーらが起こしたミュンヘン一揆の処理をめぐって連立政権内部で対立が生じ、3ヶ月で首相を辞任することとなった。その後、シュトレーゼマンは次のマルクス内閣の外相として賠償問題に努力し、賠償金負担を軽減する1924年8月のドーズ案を受け入れた。これにより、ルール地方の占領がようやく解消されるところとなった。ドイツ経済は、占領により、数十億金マルクに相当する重い打撃を受けたとされている。