アルバニア労働党
| アルバニア労働党 Partia e Punës e Shqipërisë |
|
|---|---|
| 成立年月日 | 1941年11月8日 |
| 本部所在地 | ティラナ |
| 政治的思想・立場 | 共産主義 ホッジャ主義 スターリン主義 マルクス=レーニン主義 |
アルバニア労働党(アルバニアろうどうとう、アルバニア語:Partia e Punës e Shqipërisë)は、かつてアルバニアで一党独裁制を敷いた共産主義政党。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 結成・闘争から政権へ
第二次世界大戦中の1941年11月、エンヴェル・ホッジャを指導者(書記長、のち第一書記)として アルバニア共産党(Partia Komuniste e Shqipërisë) が結成。当時アルバニアは枢軸国の占領下にあり、占領軍への抵抗活動、パルチザンが活発化するなかでの結成であった。1944年11月にはドイツ軍を主力とした枢軸軍を国外に放逐し、国土を解放した。1946年にはアルバニア人民共和国を宣言して社会主義国における一党独裁制を敷き、ホッジャが政府首班となった。1948年アルバニア労働党と改称。
[編集] 各国との論争・関係断絶
戦後はスターリンのソ連および隣国であるチトーのユーゴスラビアと友好関係を結んだが、独自の自主管理社会主義路線を採るユーゴスラビアがコミンフォルムを脱退すると関係を断絶してしまう。次いでスターリンの死後、ソ連の指導者となったフルシチョフがスターリン批判を行うと、これを修正主義として非難、中ソ対立では毛沢東指導下の中華人民共和国と歩調を合わせ、国家レベルで毛沢東主義に転じた[1]。1967年には全ての宗教を禁止し無神国家を宣言した。
さらに今度は中国がアメリカと関係を改善すると1978年には中国とも断絶し、アルバニアを鎖国的な体制下に置いた。このためアルバニアの国内開発は停滞し、ヨーロッパの最貧国と呼ばれる状況にまでなった。先進国の共産党におけるユーロコミュニズムに対しても非難を続けていた。すべてホッジャが自党、アルバニア労働党のマルクス・レーニン主義、スターリン主義を正統なものと解釈し、他者を修正主義と非難し続けた結果であった。このため各国の共産党の中で反修正主義を掲げ、旧来の主張に固執するグループが「アルバニア派」(ホッジャ主義)として分裂する現象も生じた。しかしながら、これらの動きは総じて小グループにとどまった。
[編集] ホッジャ以後
1985年にホッジャが死去すると、後継の第一書記はラミズ・アリアが引き継いだ。アリアもしばらくはホッジャの政策を踏襲したが、東欧革命の影響はアルバニアにも及び、1990年から1991年にかけてアルバニアも一党独裁制を放棄して複数政党制が導入され、民主化されることとなった。その過程でアルバニア労働党はアルバニア社会党に党名を変更し、綱領も社会民主主義を内容とするものに一新した。これに反対する少数グループ(ホッジャ夫人を含む)は1991年に改めてアルバニア共産党を結成した。
[編集] 関連項目
- アルバニアの歴史
- エンヴェル・ホッジャ
- ラミズ・アリア
- 日本共産党(左派) - 一時、日本における「アルバニア派」だったグループ。