シモーヌ・ヴェイユ (哲学者)

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シモーヌ・ヴェイユ
Simone Weil
シモーヌ・ヴェイユ(1921年)
生誕 1909年2月3日
死没 1943年8月24日(満34歳没)
時代 20世紀哲学
地域 西洋哲学
学派 フランス20世紀哲学・思想
研究分野 認識哲学、政治哲学、宗教哲学、言語哲学、神学論
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シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)(Simone Weil, 1909年2月3日 パリフランス - 1943年8月24日 ロンドンイギリス)は、フランスの哲学者である。父はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄である。

彼女は第二次世界大戦中にロンドンでほぼ無名のまま客死した(享年34歳)。戦後、残されたノートの一部が知人の編集で箴言集として出版されるとベストセラーになった。その後もあちこちに残されていた膨大な原稿・手紙・ノート類を知人たちが編集・出版するにつれてその深い思索への評価は高まり、何カ国語にも翻訳されるようになった。遺稿は政治思想、歴史論、神学思想、労働哲学、人生論、詩、未完の戯曲、日記、手紙など多岐に渡る。

生涯[編集]

従軍中の父ベルナール、母セルマ、兄アンドレと。7才
シモーヌ・ヴェイユ。12才
ヴェイユと生徒(後列),校長(前列右)ロアンヌ。24-5才[2]
前線から帰還したシモーヌ。スペイン:27才

誕生】 1909年2月3日、シモーヌ・アドルフィーヌ・ヴェイユ(Simone Adolphine Weil)[3]は父の医師ベルナール・ヴェイユと母セロメア(通称セルマ)の娘としてパリのアパートで誕生した。兄アンドレは3才年上。1歳を過ぎても固形物を摂ることができず重篤な状態に陥り「この子は生きられない」と医師に言われたが専門家の指導と両親の努力により危機を脱した[4]


幼少期~(第一次世界大戦)】 両親は共にユダヤ系であったがその"完全な不可知論"[5]により兄妹をできるだけユダヤ的なものから遠ざけて育てた[6]1914年第一次世界大戦勃発と同時に父ベルナールは軍医として招集され各地を転戦した。家族の同行は軍律で禁じられていたが母親セルマは二人の子供・祖母・愛犬を引き連れて夫の任地を追い転々とした[7][8]。揺れ動く状況下で兄妹の教育は切れ切れとなったが、通信教育などで独学していた兄アランがシモーヌに字を教えた[9]。兄妹は父親を驚かせようと隠れて勉強し、新年元旦に父親の前で5歳のシモーヌが新聞を読んでみせ父親を驚かせた[10]。5歳で字を読めるようになったシモーヌは本を暗記するようになり7歳のときにはラシーヌコルネイユを暗誦した[11]1916年、戦争はおびただしい人命と物資の損耗を重ねながら長期化していた[12]。兄アンドレと7歳のシモーヌはそれぞれ前線にいる"自分の"兵士[13]と手紙を交わようになり、自分たちのお菓子を前線に送ったりした。シモーヌの文通相手の若い兵士は8歳のシモーヌと会うため許可をとってヴェイユ一家の滞在地を訪れ、彼女と話をした[14]
この若い兵士は、その後死んだ[15]。9歳のシモーヌは愛国的な詩に熱中するようになった[16]


少女時代(9才~】 戦争は1918年に終結した。ヴェイユ軍医はすぐ除隊とはならず一家は任地に留った[17]。もう新聞を読める9歳の少女は戦後のヴェルサイユ条約が敗戦国ドイツに過酷すぎると感じた[18]。少女の政治に対する関心は弱い立場に対する同調と抑圧への嫌悪を伴って終生保たれ続けた[19]。父ベルナールの除隊後、一家はパリに戻り1919年10月、シモーヌはパリのフェヌロン高等中学に入学した[20]。学校で彼女はその不器用さゆえ製図やデッサンで成績が悪く[21]、母セルマが担当の老嬢の先生を訪ね、娘は血行が悪いため手が腫れているから不器用なのだと訴えると、老嬢は自分の手をたたいてみせ「足りないのはここではございません」と言うと自分の額を叩いてみせ「ここですよ」と答えた[22][23]。十四歳の時、数学の天才・兄アンドレと自分を比較して自殺を思うほどの劣等感にみまわれたが[24]数ヶ月苦しんだ末立ち直った[25]。彼女はフェヌロン校でも登校と長期休学を何度かくりかえし1923年末に退学した[26]バカロレア(大学入学資格試験)の準備として家庭教師や、講義を誰にでも公開しているコレージュ・ド・フランスで中世文学研究の大家ベディエフランス語版[27]の講義を受講し、1924年6月、古典語(ラテン/ギリシア語)のバカロレア試験に15歳で合格した[28]。続けて彼女はデュリュイ高等中学校で二つめのバカロレア試験の準備に励んだ[29]


学生時代(16才~】 1925年6月、16歳[30]で哲学のバカロレア(大学入学資格試験)に合格したシモーヌはソルボンヌ大学を含めフランスのどの大学にも入る資格を得ていたが更に上の高等師範学校を目指し、アンリ4世高等中学の高等師範入学準備学級(カーニュ)に入った[31][32]。ここで哲学者アランの教えを受けたことはシモーヌに多大な影響を与えた[33]。在学二年目の受験に失敗したシモーヌは猛勉強し、時にはソルボンヌ大学の講義にも出かけ[34]、在学三年目の1928年、シモーヌは受験に合格してパリの高等師範学校に入学した。高等師範学校在籍中もアランの講義を受けにアンリ4世校にたびたび出かけ[35]、ソルボンヌ大学にも登録して哲学関係の講義に出席した[36]1931年7月、22歳のシモーヌは哲学のアグレガシオン(大学教授資格)試験に合格した[37]


教師時代(22才~】 1931年9月、シモーヌはル・ピュイ女子高等中学校リセの哲学学級教授に任命された[37]赴任地のル・ピュイで彼女は高等師範学校時代から始めていた組合活動を本格化させた[38]。学校でのシモーヌ・ヴェイユも管理者にとっては頭の痛い存在で、定められた教科計画に従わないどころか全く無視し、教科書の暗記よりも与えられたテーマを自分の頭で理解し精神的に発達することを重視したため[39][40]。 地元の保守系新聞にスキャンダルとして報道された”ル・ピュイ事件”-失業者の陳情にシモーヌが同行したことを「過激な”赤い処女”によるデモの煽動」と地元保守新聞がスキャンダル化し、更にシモーヌが採石場の失業者と握手したこともスキャンダルとして騒ぎ立て攻撃し続けた”事件”[41]-により赴任一年目で転任を命ぜられた[42]1932年6月[43]休暇願いを受理されたシモーヌは前年にナチスが選挙で大躍進したドイツ[44]へ旅行し、強い衝撃を受けた[45]。ドイツから帰ったシモーヌは新しい赴任地オセールでも活発な組合活動を続け、今回は哲学クラスの閉鎖という形で追い出された。3つめの赴任先ロアンヌ女子高等中学[46]在職中も彼女は組合活動を続けたが、組合間の主導権争いや、いくつかの新聞・雑誌への諸投稿[47]でのスターリニズム批判に伴う軋轢は深刻になっていた[48]1933年大晦日、フランスに亡命していたレオン(レフ)・トロツキーが希望していた秘密会合[49]のためにシモーヌは両親のアパートを提供したが、その時トロッキーと激論を交わした[50]


工場体験(25-26才】 1934年冬~35年夏、休暇願いを出したシモーヌは、複数の工場で未熟工として断続的に8ヶ月間働く。この経験は彼女の内面にいくつか変化をもたらした[51]。 疲弊したシモーヌは両親と共にポルトガルへ行き、ひとり立ち寄った夜の寒村で初めてキリスト教との"接触"を得た[52]。9月、教職へ復帰し、4つめのブールジュ女子高等中学へ赴任する。1936年6月パリでゼネラル・ストライキが発生するとパリへの往復を始め、働いていたルノー工場などに入ってストの実態を見聞し、7月14日の民衆デモにも参加した[53]


スペイン内戦(27才~】 同月下旬スペイン内戦勃発の報に接し8月初頭スペインへ渡る。新聞記者を装ってアナーキストCNT(労働国民連合[54]))に接触、最下部組織としてフランコ軍と最前線で対峙していた外国人からなる義勇軍小部隊で参加を許された。部隊にいた知り合いのフランス人に小銃の訓練も受けたが炊事当番に回され、爆撃を受けながら5日間行動を共にしたあと炊事用に沸騰していた油に足をつっこんで大やけどを負い離脱した[55]


第二次世界大戦 (30才~】 1940年10月フランス臨時政府(ヴィシー政権)が発布した≪ユダヤ人法》により、シモーヌの父親は失職し、[56]シモーヌが申請していた教職復帰願いも黙殺・あるいは本人に通知されない奇妙な辞令の形で葬り去られた[57]1942年、シモーヌ抜きでは亡命を肯んじない両親のため、シモーヌは両親とともにアメリカに渡る(渡米後すぐシモーヌは戦禍のフランスから離れた事を後悔し始めた)[58]。4ヶ月後、両親と離れて再び海を越えロンドンに渡った。
知人[59]のつてでシモーヌは、ロンドンに亡命していたド・ゴールの「自由フランス」本部に行き、文書起草委員[60]として小さな事務室を与えられた。シモーヌがずっと胸に秘めていた「前線看護婦部隊」の創設[61]と彼女自身のそれへの参加という提案書はド・ゴールから「狂気の沙汰」の一言で退けられた[62]。彼女は深く失望しながらも与えられた仕事をこなし、倒れるまでの4ヶ月間ほとんど寝食を忘れるほどの激務ぶりで大量に書き続けた[63]


最期(34才】 1943年4月、下宿の床で昏倒しているシモーヌを友人が発見した。ロンドンの病院に運ばれた彼女は「急性肺結核」と診断されたが、身体的栄養不足によりその回復は妨げられた[64]。彼女は生涯の全時期にわたり繰り返し拒食傾向を示していた[65][66]。およそ4ヶ月間、ロンドンの病院に入院したあと、8月にアシュフォードのサナトリウムに移った。その1週間後、1943年8月24日の夜、シモーヌ・ヴェイユは静かに息を引きとった。

検死官による死亡診断書は「栄養失調と肺結核による心筋層の衰弱から生じた心臓衰弱。患者は精神錯乱をきたして食事を拒否、自ら生命を絶った。」[67]と記された。後半部分が波紋を起こし、イギリスの新聞2紙が「食物を絶って死ぬ、フランス人一女教師の異常な犠牲行為」との見出しでこの無名な元教師の死を報じた[68]。シモーヌ・ヴェイユの埋葬に立ち会ったのは7人で、その場に司祭はいなかった[69]。生前に一冊の著作もない彼女を知っていたのは家族・知人・関係者だけであった[70]

シモーヌ・ヴェイユの墓


その後】 ヴェイユが死んで4年後の1947年、友人の農民哲学者ギュスタ-ブ・ティボンフランス語版[71]は生前シモーヌから託された十数冊の雑記帳(カイエ)を編纂し、『重力と恩寵』と題して出版した。無名の著者によるこの本は宗教・哲学分野としては異例のベストセラーとなり[72]シモーヌ・ヴェイユ「発見」[73]の先駆けとなった。

思想[編集]

美の必然性[編集]

ヴェイユは美を重視し、それは神や真理へ至るためのほとんど唯一の道であるとしている。したがって彼女の美に対する洞察はその思想の核心に近づいたものといえる。美を愛することは魂の自然な本性に備わっているから、だれでも美には惹きつけられる。もちろん、何を美しいと思い、愛するかには個人差がある。金を愛する守銭奴もいれば、権力を愛するものもいる。ヴェイユは享楽への愛を否定する。贅沢は高慢であり、己を高めようとすることである。彼女の言う美や愛とはそのような対象への支配と逆の、自己否定である。真に美しいものとはそれがそのままであってほしいものである。 それに何かを付け加えたり減らしたいとは思わない完全性、それが「なぜ」そのようにあるのかという説明を要せず、それがそのままで目的としてあるもの。「美は常に約束するけれど、決して何ものをも与えようとはしない。」という彼女の言葉はそのことを表している。美は何かの手段とならず、それ自身しか与えない。

人は美に面したとき、それを眺め、それ自身の内なる必然性を愛する。そして必然性を愛するということは、対象への自己の支配力を否定することである。自己を拡張しようという欲求は対象を食べてみずからの内に取り込もうとするが、美は距離を置いて見つめる対象でしかない。それを変化させたり所有することは汚すことである。美の前で人は飢えながらも隔たりをもってそれを見つめ、そのままで存在してほしいと願う。

不幸[編集]

ヴェイユは美のほかに不幸が真理に至る道になるという。説明不能でありながら魂に染み込んでくる実在的なものという点で美と不幸は共通する性質を持つ。ただし不幸は美のように、人にとって自然な道ではない。自己を強大化し、他人を支配するための力を求めるのが魂にとっては自然なのである。ヴェイユはそのような力の崇拝を嫌悪していた。弱者に対して野蛮に振る舞う人の本性を彼女は洞察している。弱者は強者の前で意志の自由を失い、服従するだけの物質と化してしまう。人が力に屈服し、人格を失ってしまった状態。それが不幸と呼ばれる。不幸はまったく理不尽に人に食い込んでくる。ヴェイユは工場のなかで魂のない奴隷へと下落したたくさんの人間を見、自らもそれを体験した。真の不幸は苦しんでいる当人すら自分の苦しみのありさまを理解できないほどに思考力を奪う。そのように不幸な人は、人格としては存在すらしていないのである。

隣人愛は不幸な人の存在していない人格を存在させる。それは自らは飢えて相手を満たそうとする。その人の人格を愛するというのではなく、ただ、その人自身であるということによってのみ愛するのだ。強いから、美しいから、善いから愛するのではなく、また、愛すべきものを自己に取り込もうとするのではなく、真の愛は不在として絶対の対象を求める。

存在していないものへの気遣い、それは注意力によって可能となる。ヴェイユの注意は隔たりをもったはるか遠くの弱きもの、小さきものに注がれる。注意力はヴェイユの思想の中で大きな位置を占めている。彼女は神への注意を祈りと呼び、真の宗教は極度の注意力を必要とするとしている。注意とは思考を停止させ、無欲で純粋な待機状態になることである。それは努力と忍耐を尽くさねば為しえないが、何かを得るための努力ではなく、むしろ徹底した待望なのである。人は努力したのに報いが得られないということに耐えられず、真実を歪めてでも報いを求めてしまう。ヴェイユの注意とは報いではなく真実を求めるものであり、いかに悲惨なことでもそのままに見つめることだ。この時の純粋さとは汚れを避けることではなく、汚れを見つめうる純粋さだ。それは真理を報いとして求めるものでもない。それは生命よりも真理を愛し、自分の不完全さを徹底して理解することを欲する。

いかに激しい苦痛のなかでも正しい方向へと向かう力、愛する力を失わないよう願うことはできる。ヴェイユとて苦しみを好んでいたわけではなく、喜んで不幸を受け取れとは言わない。そのようなことを言うのは、人々の不幸を見過ごしにすることだ。喜びは喜びとして、不幸は純粋に不幸として受け取らなくてはならない。しかし純粋な不幸を愛をもって受け入れるという奇跡をなしえたとき、不幸は神に触れる啓示になりうるというのである。

真空[編集]

自然なあり方として人は自己を増大させようとする。自らをすり減らすというのは自然なことではなく、超自然的なことである。自己無化に貫かれるヴェイユの思索は根底で神と結びつく。ヴェイユが残したノートを彼女の友人のティボン神父が編集した本『重力と恩寵』の冒頭にはこうある。

魂の自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される。

この世はひたすら下落へと向かう重力に支配されており、それから免れようにも重力に支配された魂は誤りを犯す。だから自分から高まろうとするのではなく、待望こそ必要とされるのである。すべてをもぎ取られた真空としての待望である。そして真空とは自然なことではない。ヴェイユによれば下落から逃れて高みに昇るのは恩寵によってのみ可能であるが、重力の下降運動、恩寵の上昇運動とともに恩寵の二乗としての下降運動があり、これは重力と無関係に自ら下降する。

ヴェイユは自己否定としての神を語る。キリストの受難もそのように捉えられている。神から最も離れており、神に立ち戻るのは絶対に不可能なほどの地点にある人のもとに、神が人としてやってきて十字架にかかったということは神の自己否定であるという。

ヴェイユによれば世界の創造も自己否定である。神は世界創造以前にはすべてであり、完全であった。しかし神は創造によって自分以外のものが世界に存在することに同意し、自ら退いたのである。神と神以外のものの総計は、神だけが存在する状態よりも小さい。創造とは拡大ではなく収縮である。神の代わりに世界を支配するようになった原理は、人格の自律性、物質の必然性である。神の自己否定によって存在を与えられた我々は神の模倣、つまり自己否定によって神に応えることができるという。そして応答としての自己否定とは具体的には隣人愛世界の美への愛なのである。この愛とは、神がそのように創造した世界を受け入れることと言ってもよい。つまりそれ自身のために、自己の支配力を否定することである。

世界が善だから愛するというのではなく、悪をみつめ、悪を憎悪しつつも善と悪を造った神と、神が創ったこの世界を愛することを説く。ヴェイユは偽りの慰めを退け、想像上の神を信じる者より神を否定する者の方が神に近いという。全く神が欠けているということでこの世界は神そのものであり、この奥義に触れることで人ははじめて安らぐことができると、ヴェイユはノートに書き残している。

カトリック教会との関係[編集]

カトリック教会聖人であるアッシジのフランチェスコに深い共感を寄せ、フランチェスコに縁のある聖堂での宗教体験を書き遺している。友人であったティボン神父ことギュスターヴ・ティボンとの関わりの中で、カトリックの神学や信仰の在り方について様々な考察を遺している(シモーヌ・ヴェーユ著作集第四巻、春秋社)。自らを「教会の門の前で人々を呼び集める鐘」と評したが、洗礼は受けなかった。

著作[編集]

単著[編集]

共著[編集]

  • 渡辺義愛訳「神への愛についての雑感」、『現代キリスト教思想叢書』第6巻、白水社、1973年

著作集[編集]

  • 『シモーヌ・ヴェーユ著作集 第1 戦争と革命への省察 初期評論集』 春秋社、1968年
  • 『シモーヌ・ヴェーユ著作集 第2 ある文明の苦悶 後期評論集』 春秋社、1968年
  • 『シモーヌ・ヴェーユ著作集 第3 重力と恩寵』 春秋社、1968年
  • 『シモーヌ・ヴェーユ著作集 第4 神を待ちのぞむ』 春秋社、1967年
  • 『シモーヌ・ヴェーユ著作集 第5 根をもつこと』 春秋社、1967年
  • 『シモーヌ・ヴェーユ著作集 1』 橋本一明・渡辺一民編、春秋社、1998年11月、新装版。ISBN 4-393-32531-1
  • 『シモーヌ・ヴェーユ著作集 2』 橋本一明・渡辺一民編、春秋社、1998年11月、新装版。ISBN 4-393-32532-X
  • 『シモーヌ・ヴェーユ著作集 3』 橋本一明・渡辺一民編、春秋社、1998年10月、新装版。ISBN 4-393-32533-8
  • 『シモーヌ・ヴェーユ著作集 4』 橋本一明・渡辺一民編、春秋社、1998年9月、新装版。ISBN 4-393-32534-6
  • 『シモーヌ・ヴェーユ著作集 5』 橋本一明・渡辺一民編、春秋社、1998年12月、新装版。ISBN 4-393-32535-4
  • 『シモーヌ・ヴェーユ選集 1 初期論集 哲学修行』 冨原眞弓訳、みすず書房、2012年1月。
  • 『シモーヌ・ヴェーユ選集 2 中期論集 労働・革命』 冨原眞弓訳、みすず書房、2012年8月。
  • 『シモーヌ・ヴェーユ選集 3 後期論集 霊性・文明論』 冨原眞弓訳、みすず書房、2013年12月。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ジュール・ラニョー(Jules Lagneau)は、アランが「かって出会った唯一の偉大な人物」と評し師事した、リセの哲学教師。野村圭介「アラン・小林秀夫・自然」昭和60年1月、2014年8月2日閲覧。
  2. ^ 冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』(2002)82頁
  3. ^ ミドルネームのアドルフィーヌは母方の祖父アドルフに因んでつけられた。(シルヴィ・ヴェイユ『アンドレとシモーヌ』春秋社(2011)128頁
  4. ^ シモーヌ・ペトルマン『詳伝 シモーヌ・ヴェイユⅠ』勁草書房_新装版(2002)11~12頁(以下第1巻=SP1、第2巻=SP2 と略す)
  5. ^ 「シモーヌ・ヴェーユの両親は完全な不可知論の中で彼女を育てた」『シモーヌ・ヴェーユ伝』ジャック・カボー.みすず書房(1974)9頁(以下同著=JC,と略す)
  6. ^ 但しヴェイユの姪シルヴィ・ヴェイユは父アンドレが割礼を受けていたと書いている.『アンドレとシモーヌ -ヴェイユ家の物語-』シルヴィ・ヴェイユ.264頁 また、カボーが両親の「不可知論」と名指した内容に関してシルヴィは自身の祖父母を,"進歩思想の無信仰者医師ベルナール""自由思想の""反抗的なセルマ"と評している.(同書.65-69頁)
  7. ^ 冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』岩波書店(2002).10頁
  8. ^ 次の年,同行禁止令は解除された:SP1.18頁
  9. ^ SP1.17-30頁。JC.6-7頁
  10. ^ ジャック・カボーのヴェーユ伝には”六歳”と書いてある(JC,6頁)が,1915年の元旦だと2月3日生まれのシモーヌは現在日本で一般的な"満年齢"では5歳となり,冨原眞弓も「五歳にして新聞を読み」(『シモーヌ・ヴェイユ』岩波書店:10頁)としているのでそちらをとった.
  11. ^ 『シモーヌ・ヴェイユ』冨原眞弓:10頁.(*文章に対する並外れた記憶力はこの時期発達したのかもしれない-意味記憶の発達は例えば2015-5-6閲覧とか2015-5-6閲覧など)
  12. ^ 西部戦線 (第一次世界大戦),世界史講義録-第114回.総力戦となった第一次大戦 ]
  13. ^ 第一次大戦時、フランスには身寄りのない兵士に対し子供達が学級ぐるみで家族がわりになる「クラスの名付け子兵士 filleul de la classe」という制度があった(「第一次世界大戦とフランスの子どもたち」天野知恵子 62頁. 2015年5月5日PDFダウンロード可)。所属学級がなかったヴェイユ兄妹はおそらく個人単位でそれぞれの名付け子兵士と交流していたのだろう。SP1,22頁
  14. ^ 彼を泊めることができたとき,少女ははひどく喜んだ.SP1.26頁
  15. ^ 同前.同頁.
  16. ^ 「彼女は一巻のデルレード(*急進的愛国主義者)の書物をほとんど全部暗記してしまい、まったく面白いほど熱心に、彼女に耳を傾けようとする人に暗誦してやるのです。」(ヴェイユ夫人の手紙):SP1.20頁,デルレード関連;愛国主義者デルレードの帰還)
  17. ^ SP1.30頁
  18. ^ 「そのときまでわたしは、戦時下の子供たちとおなじく,まったく熱狂的な愛国者でした」しかし「敗れた敵を辱めようとする意思が,この時期(およびそれ以後にも何年にもわたって)いたるところでぞっとするほど充満し,それによってわたしの素朴な愛国主義はいっぺんに癒えてしまいました。わたしの国が蒙らせている辱しめはわたしの国が受けるかも知れない辱しめにくらべて,ずっとわたしには痛ましいものなのです」(ジョルジュ・ベルナノスへの手紙)_JC.8頁
  19. ^ 「彼女は早くから社会的不正に心を痛めるようになり、自分の本能によって、不幸な人々の側に身を置くようになっていたのです。この選択はけっしてかわることなく彼女の生涯に一貫性を与えています」『シモーヌ・ヴェーユ著作集 1』春秋社1968.<『労働の条件』によせたテヴノン夫人(*Albertine Thevenon)の序文>508頁
  20. ^ SP1.31頁
  21. ^ 「一日を費やしたが評価はゼロであった」SP1.p32
  22. ^ 「シモーヌは、終生、この返答を面白がった。彼女はよく母親に向かって、自分の額をたたきながら、「足りないのは、ここでがんす」と言ったものである。(同前書同頁)
  23. ^ シモーヌの不器用さは彼女の人生の至るところでひとつのキーとなっている-「シモーヌ・ヴェイユは幼児から、一種の血行障害に苦しめられ、たとえば学校での製図の授業などのときに、急に手がしびれて動かなくなる経験がたびたびあった(略)(工場では)生来の不器用というハンディキャップを背負った彼女がどんなに苦しんだかは想像に余りがある」(『労働と人生についての省察』訳者・田辺保によるあとがき.267頁)スペイン戦争(前線での彼女のポジションや火傷)など。もうひとつのキーである頭痛については、吉本隆明『甦るヴェイユ』Ⅳ章”痛みの神学・心理・病理”135-157頁などが詳しい。
  24. ^ 「十四歳のとき…生来の自分の能力の凡庸さゆえに、わたしは死ぬことを真剣に考えたことがあります。兄のなみはずれた素質を思いますとき…」「わたしが嘆き悲しんだ他のは外面的な成功が得られないという事ではなく、真に偉大な人びとだけが入ってゆくことができる真理」に「近づく希望がまったく持てないということでした」JC.10頁
  25. ^ 「心の闇の何ヶ月かを過ごしたあとでわたしは突然に、どんな人でも、たとえ生まれつきの能力はほとんどなくても、ただ真理を望んでたえず真理に達するためにちょっと注意さえすれば」「真理の国に入ることができるのだという確信を持ち、その確信はいつまでも続くことになりました」『シモーヌ・ヴェーユ著作集 Ⅳ』<「神をまちのぞむ」渡辺秀訳>.30頁
  26. ^ SP1.40頁
  27. ^ ジョセフ・ベディエ(コトバンク).参照フランス中世文学の写本と校訂法-ベディエの立場を廻って-
  28. ^ バカロレアの口頭試験(試験は筆記と口述の2つ)で『ローランの歌』について質問で、大家べディアの講義を受けていたシモーヌが答えていくと「髭をはやした老試験管の顔が」「輝きをましていくのが傍目にも明らかで」「彼女は「優」の評価で合格した」SP1.40-41頁。『シモーヌ・ヴェーユ著作集 Ⅴ』359頁の年譜では1924年にまだフェヌロン校にいたことになっているがペトルマンの記述をつきあわせるとつじつまが合わないので1923年とした
  29. ^ JC.11頁
  30. ^ 兄アンドレは14歳で古典語のバカロレア,15歳で哲学と基礎数学のバカロレアに合格した翌年,高等師範学校理系試験を16歳で受験し<きわめて優秀>という評価で合格していた。14歳のシモーヌが兄への劣等感に苦しんだのはその頃。SP1.38頁
  31. ^ JC.13頁
  32. ^ 制度についてはグランゼコール参照
  33. ^ 「シモーヌ・ヴェーユの魂におよぼしたアランの影響は決定的である。のちのちまで彼女は、その影響から完全に離脱することはけっしてできないであろう」「今日でも,,,彼ら自身がつよい影響を受けたサルトルメルロ・ポンティとはアランをめぐって論争しているのである」JC.15頁
  34. ^ この時ソルボンヌの学生だったボーヴォワールにシモーヌは強い印象を与えている-「彼女の頭のよさは大評判だったのと、その異様な服装のせいで、わたしは彼女に興味をもっていた。彼女はもとアランの生徒だった学生の一群に取り巻かれて、ソルボンヌの中庭をのしていた。(略)その頃中国には大飢饉が起こり(略)この報に接した彼女が嗚咽したという話をわたしは人から聞いていた。彼女の哲学的才能よりもその涙がわたしに尊敬の念をいだかせた。(後略)」SP1.92頁
  35. ^ SP1.107頁
  36. ^ プラトン『ピレボス』やバークレーに関する講義などを受け小論文も提出した。_SP1.128頁
  37. ^ a b 『シモーヌ・ヴェイユ著作集Ⅴ』<年譜・書誌>:361頁
  38. ^ 学生の時に知り合った活動家たちに紹介された労働階級出身のユルバン・テヴノンBiographie d’Urbain Thévenon”. 2015年5月5日閲覧。を通してシモーヌは本物の労働者階級の戦闘的な労働者(主に抗夫)たちの組合活動のただ中にとびこんだ。『シモーヌ・ヴェーユ著作集』春秋社<『労働の条件』によせたテヴノン夫人の序文>:509-514頁
  39. ^ JC.50頁
  40. ^ 生徒たちは「彼女の教育の中にひとつの強固な,しっかりまとめられた,厳しい思想を感じとっていた」が「彼女の仕草の,特に彼女の手の不器用さ」や「実生活では無防備にひとしい人間であることを知って」彼女にギリシア語を教わっていた第4学年の小さな生徒たちですら「彼女を守ろうとし」「彼女を母親のように保護していた」「彼女がセーターを裏返しに(あるいは前うしろに)着込んでクラスにやってきた」時に「少女たちはそのことを彼女に告げ」見張りをたてて彼女が黒板の後ろで着替えられるよう「とりはからった」:SP1.144頁
  41. ^ JC.54-64頁。SP1.162-167頁。『シモーヌ・ヴェイユ選集Ⅱ』冨原眞弓訳.286-287頁
  42. ^ この時シモーヌの学級の生徒の全父兄が署名した転任撤回の請願書が文部省に送られた。JC,65-66頁
  43. ^ 生徒たちはバカロレアの試験に備えて自宅での復習勉強に忙く学校には来なくなっていた。SP1.208頁
  44. ^ 1930年9月の総選挙でナチスは議席を12から107に伸ばした.『シモーヌ・ヴェーユ著作集1』<解説>22頁の表.wikiナチ党の権力掌握'ナチ党の得票数の変化'表.
  45. ^ 「反ナチのドイツ人たちが(略)残酷な目にあっていた」ことにヴェーユは「心の底まで痛めつけられ」たが、雑誌に寄稿したルポルタージュでは「ドイツの状況をこの上なく明快に分析してみせ、ヒットラーの勝利を予言した。かなしいことに彼女の予見したことはあたった」<『労働と人生についての省察』黒木義則・田辺保訳(1967)>アルベルチーヌ・テヴノンによる序文.7頁)*次の
  46. ^ ロアンヌでシモーヌが行った授業を生徒(アンヌ・レーノー)書き留めたノートが『 ヴェーユの哲学講義』記事下部Book_Dispriction(要クリック)参照
  47. ^ ドイツ旅行のルポでのドイツ共産党批判,激しい論争を巻き起こした『展望-我々はプロレタリア革命に向かっているのか?』1933<プロレタリア革命>誌,『戦争に関する考察』1933<社会批評>(ボリス・スヴァリーヌフランス語版(*フランス共産党の創立者のひとり.新生ソ連からトロッキーとともに追放され,フランス共産党を脱退した後はトロッキーとも袂を分かった革命的サンディカリスト:『シモーヌ・ヴェイユ』冨原眞弓(2002)岩波書店.P48)が主催していた雑誌)などにコミンテルン批判を含む寄稿を頻繁にしていた_『シモーヌ・ヴェイユ』冨原眞弓:27-51頁,『シモーヌ・ヴェーユ著作集1』15-18頁/512-513頁,『シモーヌ・ヴェイユ選集2』みすず書房:294-298頁.特に『シモーヌ・ヴェーユ著作集Ⅴ』<年譜・書誌>(渡辺一民編)は論文と投稿雑誌名,日付が詳細で丁寧.
  48. ^ SP1.第7章,JC.第3章
  49. ^ 当時フランス政府から滞在を認められていたトロッキーはバルビゾンに居住していたが、政治的集会に参加しないことが条件だったため、パリで政治的な会合を行う時は隠れて行わなければならなかった。SP1.298頁。吉本隆明は"第四インター結成にあてた会合"としている(『甦るヴェイユ』60頁)
  50. ^ この時のやりとの内容はシモーヌが書き残したメモなどを含めた詳細はSP1.298-301頁.「主としてロシアが労働者の国家であるか否かをめぐる問題に集中していた。トロッキーは肯定的な主張をしていた」と著者シモーヌ・ペトルマンはメモの引用後纏めている(300頁).冨原眞弓は「この時点ヴェイユはすでに、ロシアの国家体制の歪みをまねいた原因は、たんにスターリン独裁の実践上の誤謬だけでなく、レーニン、さらにはマルクス自身の理論上の瑕疵(かし)にも求められるべきだと考えていた。もちろんトロッキーは激怒した。問題はあってもロシアはやはりれっきとした労働者国家だと考えていたからである」(『自由と社会的抑圧』<解説>:176頁)と解説している。シモーヌの短い覚え書きには主にトロッキーの言葉がメモされていたため吉本隆明は「たぶん、ヴェイユは国家機関にいる共産党官僚に専制をゆるしているロシアの労働者たちをみれば、ソ連邦は労働者の国家とはいえない。国家機関の解体、社会の個人にたいする従属が出来あがらないかぎり、プロレタリア革命の成就とはいえないと主張した」(『甦るヴェイユ』60頁)と推測した上でメモを引用し,トロッキーの「個人主義者たち(民主主義、無政府主義者)たちが完全に個人を防衛することは決してない(それはできないことだ)。ただかれらの個性をそこなうものに対してのみ(戦う)にすぎない」という反論を「トロッキーらしいなかなかいい見解」とし「観念論的なのはあなたのほうだ。あなたは隷属させられている階級(労働者-註:吉本)を支配階級と呼んでいるだから」というヴェイユの反論を「ヴェイユもヴェイユらしくいいことを言いかえしている」と評価し「相手へのぴたりとはまったトロッキーとヴェイユの相互批判の面白さはいまでも(*1990~1991年頃)興味ぶかい」としている(同61頁)
  51. ^ 「人間的尊厳の感情は打ち砕かれてしまった」(ヴェイユ『労働と人生についての省察』黒木義典・田辺保訳勁草書房(1968)128頁)「不幸がわたしの肉体とたましいの中に入り込んできた」-後年ペラン神父へ宛てた手紙(『労働と人生についての省察』<同書:訳者あとがき>.268頁)「わたしは、あの生活で、すっかり陽気さをなくしてしまった」SP2.40頁。冨原眞弓訳『自由と社会的抑圧』解説(174頁)にも同様の記載がある_「この経験で失ったものは「ある種のほがらかさ」であった」
  52. ^ 猟師の妻たちがろうそくを持って古い聖歌を悲しげに歌いながら小舟のまわりを廻る光景に立ち会ったシモーヌは、「キリスト教とはすぐれて奴隷たちの宗教」であり、奴隷である自分もまた「それに身を寄せずにはいられない」ことを感得したという。SP2.46頁。
  53. ^ JC.138-156頁。SP2.65-72頁。
  54. ^ 和訳は他に"国民労働連合","全国労働者連合"など一定しておらずここではJC.160頁、世界史の窓_「スペイン人民戦線」 2014年8月13日閲覧などに従った
  55. ^ SP2.79-82頁。従軍時はまだ戦闘初期でシモーヌは一発も銃を撃っていない(一度司祭の処刑に立ち会いかけたが取りやめになった)。シモーヌのあと同部隊に参加した女性たちは皆死んだ。またシモーヌは野戦病院で、人民軍が行った理不尽な処刑の話もいろいろ聞いたという(同.87-88頁).
  56. ^ シルヴィ・ヴェイユ『アンドレとシモーヌ』116頁「1940年10月3日には、反ユダヤの公職追放の法律が、彼に医師の仕事を続けることを禁じた。」
  57. ^ シモーヌは文部省に対し「ユダヤ人排斥法」と自分への処遇の関連を問う文書を送ったが返答はこなかった。(冨原眞弓「シモーヌ・ヴェイユ」.168-170頁)。
  58. ^ SP2.334頁,361頁,373頁
  59. ^ アンリ四世校での同級生モーリス・シューマン.『重力と恩寵』<年譜>田辺保編_ちくま学芸文庫:377頁
  60. ^ 文書起草委員は、戦後フランスの再建に関する種々の提言(新憲法構想など)・フランスにいる様々なレジスタンス組織が送ってくる大量の報告・情報の分析などが仕事であった。冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』220-226頁
  61. ^ 前線(第一線)看護婦部隊;「十人ほどの看護知識をもつ志願者」が砲火の真下で負傷兵士の治療・世話をし「すべてのメンバーがよろこんで死ぬことを決意しているような特別部隊」。吉本隆明『甦えるヴェイユ』JICC出版局(1992)194頁
  62. ^ 田辺保_『ロンドン論集さいごの手紙』訳者あとがき:348頁,『さいごのシモーヌ・ヴェイユ』230頁.
  63. ^ 「一日数時間しか眠らず、寒い夜のロンドンで暖もとらず、ろくな食事もせず」「昼夜をついでひたすら書き続けた。」冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』219-220頁
  64. ^ SP2,405頁
  65. ^ GINETTE RAIMBAULT, CAROLINE ELIACHEFF『天使の食べものを求めて』三輪書店(2012)、第4章「シモーヌ・ヴェイユ」で、ラカン派の著者たちは主にペトルマンの詳伝に依りながらシモーヌには多くの拒食女性と共通する心理傾向があったと書いている.
  66. ^ ジャック・カボーは、シモーヌ・ヴェイユがロンドン滞在中「出された食事を全部は食べなかった」り,デザートのりんごを「フランスの子供たちは食べられないんですから」と断ったりという「食事への拒否」が「自殺への傾向を明らかにしていた」というのは「安易で空想的な解釈で(略)きわめて妥当性を欠いた解釈でもある」と書いている.「あらゆる場合と同様にこの場合にも」「苦しんでいる人間たちとともにやむにやまれず苦しむという彼女の能力が姿を現したのである。」JC.446頁
  67. ^ JC.452頁.
  68. ^ 田辺保『さいごのシモーヌ・ヴェイユ』お茶の水書房(1984)266-267頁
  69. ^ 入院から埋葬までの経過:JC.447-453頁。SP2.405-427頁
  70. ^ シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』(アンヌ・レイノー編)筑摩書房(1996)386頁 "シモーヌ・ヴェーユ 一つの注解 ―文庫本あとがきにかえて 川村孝則”参照
  71. ^ 「農民哲学者」ティボンとの出会いは、1941年6月フランスのヴィシー政権が最初のユダヤ人排斥法を強化して失業したユダヤ人に農作業を奨める運動を展開していた時期に、もともとシモーヌから本格的農業労働への希望を聞いていた知人ペラン神父(シモーヌ『神をまちのぞむ』を編集出版した人)に彼の農場を紹介されたことによる。シモーヌはこの農場で働いたあとティボンへ申し出て別の雇用者の元で朝から晩まで一ヵ月間葡萄つみの重労働をした。『シモーヌ・ヴェイユ』冨原眞弓:1-2頁,170-172頁。JC.271-272頁.
  72. ^ 『シモーヌ・ヴェイユ』冨原眞弓:1頁,『重力と恩寵』ちくま学芸文庫<訳者あとがき>.353頁
  73. ^ シモーヌ・ヴェイユ『労働と人生についての省察』黒木義典・田辺保訳 -「訳者あとがき」265頁
  74. ^ 大木健『カルカソンヌの一夜―ヴェイユとブスケ』朝日出版社(1989) 978-4255890463 にも同書簡収録の模様(未見)

備考[編集]

外部リンク[編集]