ロシア社会民主労働党

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ロシア社会民主労働党(ロシアしゃかいみんしゅろうどうとう、Российская социал-демократическая рабочая партия)は、1898年に創立されたロシアで最初のマルクス主義政党。のちにボリシェヴィキメンシェヴィキに分裂した。

党の創立[編集]

1890年代に入り、ロシアにおいても工業化の進展とともに労働運動が興隆し、それを基盤に様々な社会民主主義(マルクス主義)グループが形成された。そこで次第に全国的な党の創立が課題とされるようになった。

そこで当時有力だったキエフのグループが中心となり、1898年にミンスクで党の創立大会が開かれた。この大会は党名を「ロシア社会民主党」とし、すでに発行されていた『ラボーチャヤ・ガゼータ(労働者新聞)』を党中央機関紙とし、中央委員会を選出した。

中央委員会はピョートル・ストルーヴェに党の宣言の起草を依頼したが、大会直後に大量の逮捕によって解体してしまい、実質的な活動を始めることはできなかった。宣言を起草したシュトルーベは独断で党名を「ロシア社会民主労働党」とし、以後この名前が定着した。

ボリシェヴィキとメンシェヴィキの分裂[編集]

1900年に新聞『イスクラ』を創刊したレーニンマルトフプレハーノフらのグループが中心となり、1903年に、ブリュッセルで、第二回党大会が開かれた。大会には26の組織を代表し、51票の議決権を持つ43名の代議員が参加した。そのうち過半数は『イスクラ』編集局を中心とするグループ(イスクラ派)だった。

大会は党の綱領と規約を決め、中央機関を選出した。中央機関はロシア国内において党を実践的に指導する中央委員会、国外から思想的に指導する中央機関紙、中央委員会と党評議会が対立した場合に調停を行う党評議会という三つの機関によって構成されることになった。『イスクラ』は中央機関紙となり、イスクラ派が党を支配することになった。

しかし大会の審議過程でイスクラ派は分裂した。大会の序盤で党員の資格を規定する党規約第一条が審議され、レーニンは党の組織的活動に参加することを党員の条件としたのに対し、マルトフは党に対する支持だけを条件とした。この点に関してはマルトフの案が採択された。しかし終盤で中央機関紙の地位を得た『イスクラ』編集局の選挙が行われたとき、レーニンはもともと『イスクラ』編集局を構成していた6名のうち3名を排除し、プレハーノフ・マルトフ・レーニンの3人で編集局を構成する案を提示し、採択された。これには排除された3名だけでなくマルトフも激しく反発し、大会後に決定を承認する多数派と決定を批判する少数派が相互に批判しあうことになった。これがボリシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)の発端である。

大会直後にはレーニンとプレハーノフが『イスクラ』編集局を握っていたが、プレハーノフがのちにメンシェヴィキの側に移ったため、レーニンは編集局から脱退せざるをえなくなった。『イスクラ』はメンシェヴィキの機関紙となり、ボリシェヴィキを激しく批判した。レーニンは『一歩前進、二歩後退』などの著書で対抗し、1904年末には分派の中央部として「多数派諸委員会ビューロー」を創設した。このビューローは1905年1月に新聞『フペリョード』を創刊した。

ロシア第一革命と両派統合の試み[編集]

ボリシェヴィキとメンシェヴィキの当初の対立点は組織問題だったが、論争が展開するにしたがって戦術問題にも対立が波及していった。

1905年血の日曜日事件によってロシア第一革命が始まった直後、ボリシェヴィキは単独で第三回党大会を開いた。この大会では武装蜂起を準備することが決定された。武装蜂起は同年12月に実行されたが敗北した。

分裂を嫌う労働者大衆の圧力により、ボリシェヴィキとメンシェヴィキは統一交渉を始め、1906年4月にはストックホルムで統一党大会(ボリシェヴィキの観点では第四回党大会)が開かれた。この大会ではメンシェヴィキが多数派となった。1907年4月にはロンドンで統一党大会(ボリシェヴィキの観点では第五回党大会)が開かれ、ボリシェヴィキが多数派となった。しかしこの二つの大会は党の分裂を克服することはできなかった。

1906年3月から4月にかけて行われた第一国会の選挙の際、ボリシェヴィキはまだ革命期が続いていると考えてボイコット戦術を取り、メンシェヴィキは選挙に参加した。しかしボリシェヴィキもストックホルム大会の決定を受けてまだ選挙が終わっていない地域の選挙に参加した。社会民主労働党は478議席中18議席を獲得した。1906年7月に第一国会が解散され、第二国会が招集されるとボリシェヴィキはボイコット戦術を放棄し、選挙に参加した。11月から翌年1月にかけて行われた第二国会の選挙では社会民主労働党は518議席中65議席を得た。

反動期における四分五裂[編集]

1907年6月3日、ツァーリ政府の首相ストルイピンは第二国会を解散し、社会民主労働党の国会議員を逮捕した。これにより第一革命は終わり、ロシアは反動期に入った。選挙法が労働者に不利なように改悪されたため、社会民主労働党が第三国会の選挙で得た議席は442議席中19議席となった。

この反動期において、ボリシェヴィキの一部は国会議員を召還すべきだと主張した。召還主義と呼ばれる。また、国会議員に党への従属を要求する最後通牒をつきつけるべきだ、という最後通牒主義も現れた。これらのグループは1909年に独自の機関紙として『フペリョード』を創刊し、レーニン派と対立した。

一方、メンシェヴィキの中からは召還主義とは正反対の考え方が出てきた。非合法の地下活動を清算して合法的な大衆組織での活動にエネルギーを集中することを主張するもので、ボリシェヴィキからは解党主義と呼ばれた。メンシェヴィキの中でもプレハーノフを中心とするグループはこの考え方に反対し、党維持派メンシェヴィキを形成した。

以上のような四分五裂の状況の中で、トロツキーを中心とするグループは党の統一を回復することを目指し、1908年にウィーンで『プラウダ』を創刊した。この活動は一定の成功をおさめた。1910年1月にはパリで党中央委員会総会が開かれ、各派の代表によって分派の清算が合意された。しかしこの合意は守られず、レーニン派は独自の党の建設を目指す動きを強めていった。

レーニン派の独立[編集]

1912年1月、レーニン派はプラハで党維持派メンシェヴィキとともに党協議会(プラハ協議会)を開いた。この協議会は新たな中央委員を選出し、解党派を党から追放した。ロシア社会民主労働党の分裂は最終段階に達した。

トロツキーを中心とするグループはプラハ協議会に対抗して党の統一を回復しようとし、1912年8月にパリで協議会を開いた。これにはレーニン派以外の全てのグループが参加し、「八月ブロック」を形成した。しかし「反レーニン」以外の共通項が存在しない寄り合い所帯だったため、実質的な成果をもたらすことなく終わった。

参考文献[編集]

  • ユーリー・マルトフ『ロシア社会民主党史』(新泉社)
  • Г・ジノヴィエフ『ロシア共産党史』(新泉社)
  • 加藤一郎『ロシア社会民主労働党史』(五月社)
  • トロツキー研究所『トロツキー研究』第36-37号(トロツキー研究所)

関連項目[編集]