ギリシャ

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ギリシャ共和国
Ελληνική Δημοκρατία
ギリシャの国旗 ギリシャの国章
国旗 国章
国の標語:Ελευθερία ή θάνατος
(ギリシャ語: 自由さもなくば死)
国歌自由への賛歌
ギリシャの位置
公用語 ギリシャ語
首都 アテネ
最大の都市 アテネ
政府
大統領 カロロス・パプーリアス
首相 アントニス・サマラス
面積
総計 131,940km294位
水面積率 0.9%
人口
総計(2008年 11,161,000人(74位
人口密度 81人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年 1,821億[1]ユーロ (€)
GDP (MER)
合計(2013年 2,418億[1]ドル(43位
GDP (PPP)
合計(2013年 2,780億[1]ドル(52位
1人あたり 25,126[1]ドル
独立
宣言 1822年
承認 1829年
通貨 ユーロ (€) (EUR) [注記 1][注記 2]
時間帯 UTC +2(DST:+3)
ISO 3166-1 GR / GRC
ccTLD .gr
国際電話番号 30
  1. ^ 2001年以前の通貨はドラクマ
  2. ^ ギリシャのユーロ硬貨も参照。

ギリシャ共和国(ギリシャきょうわこく、ギリシャ語: Ελληνική Δημοκρατία, 英語: Hellenic Republic)、通称ギリシャは、ヨーロッパの南東、バルカン半島最南端部に位置する共和制国家である。半島南部およびペロポネソス半島に加えエーゲ海を中心に存在するおよそ3,000ものによって構成される。北は西からアルバニアマケドニア共和国ブルガリアと、東はトルコと国境を接している。本土の周囲は東にはエーゲ海、西はイオニア海、南は地中海に囲まれている。

ギリシャは地中海文明のルーツの一つであり、複数の文明の接点に位置する国としてヨーロッパ、アフリカアジアの歴史に大きな影響を与える。

現在のギリシャは国連EU および NATO の加盟国である。1896年2004年には首都アテネ近代オリンピックが開催された。1906年の開催事実もあるが現在ではこれは抹消されている。

国名[編集]

正式名称はギリシャ語Ελληνική Δημοκρατία (ラテン文字転写: Ellinikí Dimokratía [eliniˈci ðimokraˈti.a]、読みは「エリニキ・ジモクラティア」)。通称は Ελλάς (同 Ellásエラス古典語ではἙλλάς (同 Hellásヘッラス)、または Ελλάδα (同 Elládha 発音 [eˈlaða] ( 聞く)エラザ)。古典語の対格形 Ἑλλάδᾰ (同 Helláda 、ヘッラダ)に由来。なお正式名称の Ελληνική の部分は Ελλάς形容詞形)。いずれもギリシャ神話に登場する民族の父祖ヘッレーンに由来するなど諸説あるが、正確な処は定かではない。

公式の英語表記は Hellenic Republic であるが、通称は Greece が用いられる。

日本語による表記はギリシャ共和国。通称ギリシャ。歴史・地理・人文系ではギリシアという表記もされるが、国会の制定法や外務省、およびギリシャの在日大使館のサイトではギリシャと表記される。漢字では「ヘラス」の音訳として「希臘」(繁体字: 希臘 (広東語イェール式発音表記: Hei1 laap6 (ヘイラーップ))、簡体字: 希腊 (ピンイン: Xīlà (シーラー)))と表記され、「」と略される(例えば、ギリシャ語を希語と書くなど)。ギリシャあるいはギリシアという名称は、ラテン語名の Graecia (グラエキア)がポルトガル語Grécia (グレスィア)となり、これが宣教師によって日本にもたらされ変容したとされる[2]。こちらも由来についてはラテン民族と境を接していたギリシャ系民族の名、あるいはギリシャ神話の主神ゼウスパンドーラーの息子の一人でギリシャ人の始祖となったグライコスに因むなど諸説あるが、正確なところは不明である。

また、中東の諸言語での呼称、例えばアラビア語اليونانal-Yūnān 、アル=ユーナーン)、ヘブライ語יווןYəván 、イェヴァン)、トルコ語の Yunanistan (ユナニスタン)などは、全てイオニアに由来する。

歴史[編集]

古代: ギリシア・ローマ時代[編集]

古代のギリシャはアテナイコリントステーバイなどの多数のポリス(都市国家)が並び立っており、言語・文化・宗教などを通じた緩やかな集合体でありマケドニア王国に征服されるまで統一国家を形成することはなかった。政治的に独立していた各ポリス間では戦争が絶え間なく繰り返された。紀元前5世紀アケメネス朝(ペルシア帝国)が地中海世界に進出してくると、各ポリスは同盟を結び、これに勝利した(ペルシア戦争)。しかしその後アテナイを盟主とするデロス同盟スパルタを盟主とするペロポネソス同盟とでペロポネソス戦争が勃発し、ギリシャ全体が荒廃し勢力を失った。紀元前4世紀半ばにマケドニアピリッポス2世カイロネイアの戦いに勝利すると、ギリシャ諸ポリスはマケドニアを盟主としたヘラス同盟英語版(コリント同盟)に属することとなる。ギリシャ人はアレクサンドロス3世(大王)の東方遠征に従軍して長年の宿敵ペルシア帝国を滅亡させた。ペルシャの傭兵となったギリシャ人がいたが、彼らは裏切り者として奴隷にされた。

大王死後、マケドニアを支配したアンティゴノス朝と対抗。この時期にピュロスエペイロス王)らが活躍した。やがてアカイア同盟を結成して共和政ローマと手を結ぶ。マケドニアの没落後はローマと対決したが、紀元前146年にローマ軍に敗北、コリントスの破壊と共にローマ属州アカエアとされた。古代ギリシアは民主主義の原点であった。

現在のギリシャ人は後世に主にバルカン半島北部から南下してきた人々、ラテン人スラヴ人アルバニア人等との混血、古くからは南のアラブ人エジプト人、東のトルコ人などとも混血が進んでいる。現在と当時ではその人種的な構成等は異なっていると言われることもあるが、ヨーロッパにおいて古代から純粋な血統を保持している民族などというものはなく、ギリシャ人もまたその例に漏れないだけである。

中世: 東ローマ帝国[編集]

1025年、皇帝バシレイオス2世没時の東ローマ帝国版図

395年ローマ帝国が東西に分裂したのちは、ギリシャ地域は東ローマ帝国に属した。

世紀以降の東ローマ帝国はギリシャ語を公用語とし、皇帝をはじめとする支配階層もギリシャ語を母語とする民族が中心となっていったが、彼ら自身は自分をギリシャ人とみなさず、「ローマ人」と称した。東ローマ帝国はギリシャ民族の歴史の一部と捉えられている。なお、東ローマ帝国を「ギリシャ化したローマ帝国」と捉える研究者もいる(ギリシャでは自らを「ローマ人」と呼ぶことがあるという)。ただ、東ローマ帝国の中心地はアナトリアトラキアマケドニアであり、現在のギリシャに当たる部分は、スラブ人の侵入と移住、アラブ勢力の来襲やブルガリア帝国やノルマン王国といった外部勢力の攻撃が相次ぎ、中央のコンスタンティノポリスからは辺境地域と見なされていた。

1204年第4回十字軍によってコンスタンティノポリスが占領されて東ローマ帝国は崩壊し、ギリシャにも十字軍が侵入してきた。12世紀末のコムネノス王朝末期以降東ローマ帝国は内部崩壊を起こして国政が混乱していたため、ヨーロッパ側に住むギリシャ人の多くは十字軍を混乱を収め、安定をもたらすものとして歓迎した[3]。このため、アテネ公国などの多くの十字軍国家が成立した(十字軍に抵抗したのは裕福なコリントスのみ)。他には東ローマの亡命政権であるエピロス専制侯国や、ブルガリア帝国セルビア王国、また都市国家ヴェネツィアなどが割拠するようになった。

アナトリアに逃れたギリシャ系のニカイア帝国により1261年に東ローマ帝国は復活したが、国力が弱体化していたためにギリシャ全土を奪回できず、諸勢力の割拠状態が続き、その隙をついて14世紀以降はイスラム王朝オスマン帝国が勢力を伸張させていった。

中世: オスマン朝支配時代[編集]

1453年、東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅ぼされ、残る諸勢力も15世紀末までにはほとんどがオスマン帝国に征服された。オスマン帝国はコンスタンティノポリスに遷都し、369年間のオスマン帝国による統治が続いた。

近現代: 独立回復と王政時代[編集]

オデッセイにおいて創設された秘密組織フィリキ・エテリアを中心として、1821年オスマン帝国に対する反乱が企てられた。3月にギリシャ各地の都市で蜂起が起こり、ギリシャ独立戦争が始まった。エジプトの助けを得てこれを鎮圧しようとしたオスマン帝国に対し、が介入、1829年アドリアノープル条約によってギリシャ独立が承認された。翌1830年バイエルン王国の王子オットーをオソン1世として国王に据えギリシャ王国として独立し、古代ギリシャ滅亡以来約1900年ぶりにギリシャ人の国家が復活した。

その後は汎ギリシャ主義(メガリ・イデア)を標榜し、1897年にはトルコに侵攻(希土戦争)し敗北するも、第一次世界大戦直前の1912年から1913年にはバルカン戦争に参戦し、クレタ島をトルコから奪取した。

1919年パリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど反人種差別を表明した。1919年 - 1922年にセーブル条約を押し付けるため、ギリシャ系住民保護を名目にアナトリアに侵攻したが、(希土戦争ムスタファ・ケマル・パシャが率いるトルコ軍に敗退した。1924年クーデターにより共和制ギリシャ第二共和政となるが、1935年には王政ギリシャ王国1935年 - 1941年)が復活したが、国王ゲオルギオス2世の強権発動によって極右政党党首イオアニス・メタクサスが陸軍大臣に任命されていたが、1936年4月12日に暫定首相デメルジス英語版が死去したことに伴い首相に就任。1936年8月4日にメタクサスがクーデターを起こし八月四日体制1936年 - 1941年)と呼ばれる独裁体制となった。

第二次世界大戦ではナチス・ドイツおよびイタリアブルガリアの侵攻にあい(ギリシャ・イタリア戦争)、戦いの最中にメタクサスが病死、王室と政府はイギリスに亡命した。1941年4月のギリシャの戦いに敗れ、ギリシャ本土はドイツ・イタリア・ブルガリア3国による分割占領状態におかれ、傀儡国家ギリシャ国1941年 - 1944年)体制になった。大戦中、占領軍に対するレジスタンス運動を主導した共産主義左派ギリシャ共産党 (KKE) に支援されたギリシャ人民解放軍英語版 (ELAS)、対立する反共共和主義者のパルチザンギリシャ民族共和同盟英語版 (EDES) の三つ巴の戦いとなった。さらにナチスによるロマニオットセファルディムに対するホロコーストが行われた。

ギリシャ内戦[編集]

第二次大戦が終結し亡命政府が帰還した後、1944年12月3日十二月事件ギリシャ語版が起き、共産主義左派と王党派右派の間で対立が先鋭化すると、1946年にはギリシャ内戦が勃発した。ソ連と隣国ユーゴスラビアに支援された共産勢力が「ギリシャ民主軍英語版(共産主義者民主主義軍)」というゲリラ部隊を組織するが、戦後の財政難に苦しむイギリスに替わってアメリカ合衆国が王党派右派政府の全面的な支援に乗り出したことと(マーシャル・プラン)、1948年以降ユーゴスラビアとソ連が対立し、ギリシャの共産勢力はソ連を支持したので、ユーゴスラビアからの援助が失われ、内戦は1949年共産主義勢力の敗北によって終結した。

戦後[編集]

1950年に行われた総選挙の結果保守連立政権が発足するが政局は安定せず、翌年1951年に選挙制度を最大与党に有利に改正して行われた選挙によってようやく政局は安定し、1952年北大西洋条約機構 (NATO) へ加盟、1953年に隣国のユーゴスラビアおよびトルコとの間に三国親善条約と同盟条約が結ばれ、外交的にもようやくの安定をみた。

1950年代の後半になると、キプロスを巡ってトルコとの対立が激化するが、ギリシャ自体は順調な経済成長を続け、1951年から1964年の間に国民平均所得はほぼ4倍になった。

国王と対立した首相コンスタンディノス・カラマンリスの辞任をきっかけに総選挙が行われ、中道勢力と左派勢力が躍進、一旦は中道連合(EK)を率いるゲオルギオス・パパンドレウが首相に任命されるが、他党との連立を拒んだパパンドレウは再び総選挙を行い、1964年、中道連合 (EK) は過半数を獲得した。パパンドレウ政権は教育制度改革等の内政面で功績を挙げるが、軍の制度改革に失敗してパパンドレウは国王コンスタンティノス2世によって首相辞任を要求された。

軍事独裁政権時代[編集]

アテネ市内を制圧したクーデター部隊のM48戦車
1967年4月21日の撮影

国王アメリカ合衆国の支援の元に中道諸派の連合による新政権を確立させるべく、1967年、総選挙を準備した。しかし、選挙の結果中道派政権が確立されることによる発言権の低下を恐れた軍部が陸軍将校、スティリアノス・パッタコス英語版准将、ゲオルギオス・パパドプロス大佐、ニコラオス・マカレゾス英語版大佐を中心としてクーデターを起こし、結局アメリカが軍部の独裁体制を容認した。結局、反クーデターに失敗したコンスタンティノスは国外へ亡命した。

1968年には憲法が改正され軍事独裁政権が確立する。軍部は国内の批判勢力に対して激しい弾圧を行い、前首相パパンドレウを始めとして多数の著名人を国外に追放した。欧州各国からは軍部独裁政権に対して厳しい批判が向けられたが、ギリシャは地勢的に NATO の要であるとしてアメリカが軍事独裁政権を擁護・支援したため、ギリシャに対して実効性のある圧力が加えられることはなかった。

1970年代に入ってギリシャの国内経済が悪化すると、軍部の独裁政権に対する国民の不満が増大し、学生により大規模なデモなどの抗議行動が活発化する。軍事独裁政権の首班であったゲオルギオス・パパドプロスは大統領制を導入するなどの政策を行うが、国内経済が回復しないこともあって国民の抗議行動は収まらず、1973年、学生デモ隊による大学占拠に対して実力鎮圧を行った結果多数の死傷者を出したことで独裁政権の基盤が揺らぎ、パパドプロスの腹心で秘密警察長官であるディミトリオス・イオアニディス英語版がクーデターを起こし、パパドプロスは失脚した。

その後、パパドプロス政権の閣僚であったフェドン・キジキスが名目上の大統領に選ばれて軍部の独裁体制は続くが、1974年にギリシャが支援したキプロスでのクーデターが失敗に終わり、海軍と空軍が陸軍と秘密警察に対して態度を硬化させる。結果、軍事政権の中核を占めていた陸軍と秘密警察は孤立し軍部の独裁体制は崩壊。

また戦後から軍事独裁政権の崩壊まで、非常に高い経済成長率を誇った。詳しくはギリシャの奇跡を参照。

共和政治の確立[編集]

大統領フェドン・キジキスは国内の諸政治勢力と協議してフランスへ亡命していた元首相コンスタンディノス・カラマンリスに帰国を要請、帰国したカラマンリスを首相に指名した。

1974年11月11日に行われた軍事政権崩壊後初の選挙の結果カラマンリス率いる新民主主義党が多数の議席を獲得して与党となり、次いで行われた国民投票により君主制は廃止され共和制への移行が決定した(ギリシャにおける民主主義の回復については、活動的な役割を担ったアレクサンドロス・パナグリスも参照)。

1975年には憲法が再改正され、1977年の選挙の結果左派勢力の伸長があったものの政局の混乱は発生せず、ギリシャの政局は以後安定化する。1981年欧州共同体 (EC) の10番目の加盟国となった。

1980年代には全ギリシャ社会主義運動 (PASOK) が選挙の結果過半数を確保して与党となり、社会主義政権が誕生、アンドレアス・パパンドレウ英語版は NATO と欧州共同体 (EC) への加盟に懐疑的で西側諸国を「帝国主義国家」と呼ぶほど親ソ派であったが、大きな外交政策の変更は行われず、NATO と EC への加盟は続行されたままギリシャは引き続き西側諸国の一員として冷戦の終結を迎える。

2004年には1896年以来108年ぶりに首都アテネにおいて2回目の夏季オリンピック第28回アテネ大会)が開催された。それに先立つ2001年にはユーロ導入も実現したが、工業生産力が西欧諸国と比較して小さいギリシャの経済は脆弱で、2010年には統計操作による巨額の財政赤字隠蔽が発覚したことから、ユーロ圏全体や世界中を巻き込む金融危機へと発展した(2010年欧州ソブリン危機)。

政治[編集]

国家体制として共和制を採用しており、大統領国家元首として儀礼的な責務にあたる。大統領は任期5年で議会により選出される。現大統領は2005年3月12日に就任したカロロス・パプーリアス行政府の長である首相は議会によって選出され大統領により任命される。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。

立法府たるギリシャ議会 (Vouli ton Ellinon) は一院制で、300議席、任期4年、比例代表制による直接選挙で選出される。政党は中道右派の新民主主義党 (ND) と左派の急進左派連合 (SYRIZA) の二大政党が中心。この他少数野党として、中道左派の全ギリシャ社会主義運動 (PASOK)、中道右派の独立ギリシャ人 (ANEL)、左翼政党のギリシャ共産党 (KKE) などがある。

1996年以来 PASOK のコンスタンティノス・シミティス政権が続いていたが、2004年3月7日の総選挙でコスタス・カラマンリス率いる新民主主義党が議席の過半数を獲得し、政権が交代した。その後新民主主義党は2007年の総選挙でも辛勝し、政権を維持したが繰り上げ解散を行った2009年の総選挙ではゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウ率いる全ギリシャ社会主義運動に敗北、5年ぶりに全ギリシャ社会主義運動が政権与党の座を奪回した[4]

2011年10月31日、パパンドレウ首相は、財務問題を巡る欧州による支援策の受け入れの是非を問う国民投票の実施を表明した。しかし、ユーロ圏諸国(ドイツやフランスなど)は国民投票で支援策が否決されれば、国際的な金融危機を誘発しかねない状況で、危機が欧州全体に広がるのを防ぐため、国民投票の実施を断念するように同首相を説得し、11月4日ベニゼロス財務相が国民投票の実施を断念したことを明らかにした。

2011年11月5日、ギリシャ国会(一院政、定数300)は、パパンドレウ内閣の信任投票を行い、賛成多数で信任した。与党の全ギリシャ社会主義運動 (PASOK) は過半数をわずかに上回る152議席を占めている。信任投票では賛成が153票であった。

2011年11月10日、ギリシャ次期首相にルーカス・パパデモスが就任し、全ギリシャ社会主義運動(PASOK)と新民主主義党(ND)が合意し11日に組閣、二大政党による大連立内閣が発足した。大連立内閣は、緊縮策を前提とする支援策を受け入れる。来年2月19日に総選挙を実施する。

2011年12月1日、政府の財政緊縮策に抗議する24時間ストが行われた。今年7度目のスト。[5][6]

若年齢での失業率が世界的に見ても高く50%台である。

国際関係[編集]

周辺国との関係では、キプロスの帰属問題でトルコとは対立関係にある。ギリシャ民族の国家であったマケドニア王国やギリシャ国内のマケドニア地方と同じ名を名乗るスラヴ系のマケドニア共和国とも対立状態にある。

軍事[編集]

地方行政区分[編集]

ギリシャのペリフェリア。3の中央マケドニアの南東部の半島にある色違いの部分がアトス自治修道士共和国。

全土は、13のペリフェリア(地方)、74のペリフェリアキ・エノティタ(県)、325のディモス(市)に区画されている。ギリシャ共和国の主権の下に属する特殊な地域として、修道士による自治が行われているアトス自治修道士共和国アトス山)がある。

  1. アッティカ
  2. 中央ギリシャ
  3. 中央マケドニア
  4. クレタ
  5. 東マケドニア・トラキア
  6. イピロス
  7. イオニア諸島
  8. 北エーゲ
  9. ペロポネソス
  10. 南エーゲ
  11. テッサリア
  12. 西ギリシャ
  13. 西マケドニア

主要都市[編集]

ギリシャの10万人以上の都市(2001年)
都市 地方 人口
1 アテネ アッティカ 745,514
2 テッサロニキ 中央マケドニア 363,987
3 ピレウス アッティカ 175,697
4 パトラ 西ギリシャ 171,616
5 イラクリオン クレタ 137,711
6 ラリサ テッサリア 126,076

地理[編集]

ギリシャの地図
ギリシャ最高峰、オリンポス山

ギリシャの国土は4つの地方に分かれる。

ギリシャの国土は山がちである。ピンドス山脈には2000mを超える峰がいくつもあり、北東のブルガリア国境にはロドピ山脈が東西に伸びる。ギリシャの最高峰オリンポス山 (2917m) はどちらの山脈にも属さず、東西、南北とも15kmにわたって広がる独立した山塊となっている。平原から立ち上り山頂に雪を帯びたオリンポス山の姿は古代から神聖視されてきた。

気候[編集]

ほぼ全土がケッペンの気候区分でいう地中海性気候 (Cs) に区分される。従って、温暖で湿潤な冬季と乾燥し高温の夏季にはっきり分かれる。首都アテネの平均気温は、冬季の1月が10.1°C、夏季の7月では28.0°Cである。年平均降水量は383.8mm。これは同じ地中海性気候に分類されるローマの約1/2と少ない。なお、最北部は山岳地帯であり、冬季に気温が下がる温暖湿潤気候 (Cfa) に分類される。

経済[編集]

産業[編集]

最大の都市である首都アテネ

IMFの統計によると、2013年国内総生産 (GDP) は2,418億ドルであり[1]神奈川県よりやや小さい経済規模である[7]。同年の一人当たりの GDP は21,857ドルである[1]。主力産業は農業、鉱業、工業、輸送業、観光。農業では世界第3位の生産量であるオリーブ(200万トン)や世界8位の綿、同10位の葉タバコが際立つ。いずれも地中海性気候に合った作物である。しかしながら小麦やとうもろこしなど主食となる穀物の生産は振るわず、農業国でありながら食料を自給できていない[8]

鉱業では石炭が有力。石炭の統計は品位別に分かれており、低品位で主に燃料に用いる亜炭褐炭では世界第4位(6,600万トン)である。マグネシウム鉱にも富み、生産量は世界第6位である。ニッケルボーキサイト、原油、天然ガスなど、生産量は少ないながら10種類以上の主要鉱物が見られる。

工業は食品加工業や繊維業などが盛んだったが、造船業、製鉄、石油化学工業も発達している。世界第3位のオリーブ油生産が突出している。

古代から地中海一帯で貿易を展開してきた歴史があるせいか、オナシス家、ニアルコス家ラティス家マルチノス家ロス家クルクンディス家リバノス家海運王が多く、輸送業の中心は船舶であり、船舶保有量は世界第4位の2,870万総トンに及ぶ。一般貨物船は船舶保有量(総トン)の3%と少なく、オイルタンカー、鉱石や穀物用のばら積み船が80%以上を占める。このような比率は船舶保有量上位10カ国には見られない特異な傾向である。ギリシャ人船主はパナマ(世界第1位)やキプロス(世界第6位)など税制優遇措置を利用できる国に自らの船を登録することも多く、実態を反映していない可能性がある。 ギリシャには技術力、科学力がある企業や研究機関がないため、工業製品、加工品、医薬品といった製造に高度な技術を要する製品の大半を輸入に頼っている。 また多くの雇用を生み出す大企業もないため、伝統的に失業率と公務員就任数が多く、経済基盤が弱い。

観光業[編集]

数多くの古代ギリシャや東ローマ時代の遺跡・遺構、エーゲ海の風光明媚な島々などの観光資源も多く、観光も重要な産業となっており、海運業、移民からの送金と観光業でギリシャの三大収入源となっている。オリンピックの開催地アテネでアテネオリンピックが開催された2004年の時点でギリシャ総労働者数の16,5%、約66万件が何らかの形で観光業に携わっており、さらにそれまでギリシャ観光を統括していたギリシャ政府観光局の上の組織として観光省が新設された。

ギリシャを訪れる外国人観光者数
年度 1957年 1958年 1959年 1960年 1961年 1990年 1995年 2000年 2004年
人数 260,280 276,593 339,970 399,438 440,243 8,873,000 10,130,000 13,096,000 16,251,000

貿易[編集]

色と面積で示したギリシャの輸出品目

100億ドルの輸出に対し、輸入は300億ドルであり、慢性的な貿易赤字が続いている。しかしながら、輸送業、観光業、移民の送金などによって貿易赤字をほぼ充当できている。主要輸出品目は、衣料、果実、石油製品である。これらに次ぎ、アルミニウムの輸出が多いことが特徴である。主要輸出相手国は、ドイツ、イタリア、イギリス。主要輸入品目は、原油、機械類、電気機械である。主要輸入相手国はドイツ、イタリア、フランス。

日本との貿易関係は、日本に対してナフサ、葉タバコ、貴金属製品を輸出し、乗用車、タンカー、貨物船を輸入するというものである。このことから、ギリシャの石油化学工業や軽工業が機能しており、輸送業に必要な船舶を自前で調達していることが分かる。なお大理石の輸出も日本への輸出額の4.2%を占めている。

交通[編集]

パトラ近郊のリオン・アンティリオン橋、斜張橋としてはヨーロッパ1位、世界では2位の規模になる。

1980年代に入ると、ギリシャの道路、鉄道はかなりの部分が近代化された。この中での重要な箇所にはギリシャ北西部(イグメニツァ)とギリシャ北東部を結ぶギリシャのエグナシア・ハイウェイ (enが含まれている。リオン・アンティリオン橋(ヨーロッパで最も長い斜張橋、総距離は2,252m(7382フィート)は中央ギリシャのアンティリオン (enペロポネソス半島リオン (enパトラから7km、もしくは4マイル)を結んでいる。ペロポネソス半島西部のピルゴス (enへ続く、パトラ・アテネ高速道路の延長は2014年までに完成される予定となっている。

首都であるアテネの都市圏では2001年に新たにアテネ国際空港が開港し、さらに郊外を走る新たな民間の高速道路であるアッティキ・ハイウェイ (enが2001年に開通、そして2000年以降、アテネ地下鉄が拡張された。

ギリシャの島嶼部と主要都市の多くはギリシャの二大航空会社、オリンピック航空エーゲ航空によって結ばれている。航路は水中翼船カタマラン(双胴船)を含む最新の高速船で運航されている。他のヨーロッパ諸国では重要な位置を占めている鉄道はギリシャでは主要地位ではない。しかし、アテネオリンピックを契機に近郊鉄道プロアスティアコスがアテネ都市圏に新たに開設されたり、ギリシャ国鉄アテネ駅テッサロニキ新駅間の幹線路線も複線電化されるなど、鉄道インフラのスクラップアンドビルドが斬新的に進められている。

かつてはアテネやテッサロニキから他のヨーロッパ諸国、バルカン諸国、トルコへ直通する列車が運行されていたが、2010年欧州ソブリン危機により国鉄の経営が圧迫されたため、国際列車が全面運休となったこともある[9]。その後、限定的な運行が再開され、2014年夏ダイヤではテッサロニキ新駅よりブルガリアマケドニア/セルビア方面の一部列車が運行している。また、ペロポネソス半島内の鉄道路線(ペロポネソス狭軌鉄道)は、改軌されたプロアスティアコスの路線など一部を除き、(2014年現在)全面運休が続いている。

国民[編集]

ギリシャの人口推移(1961年-)

ギリシャの公式統計機関であるギリシャ国立統計局 (NSSG) の発表によれば、2001年のギリシャの全人口は、10,964,020人[10]。その内訳は男性5,427,682人、女性5,536,338人であった[10]。1971年、1981年そして2001年とギリシャの人口統計は過去数十年行われることがなかった[10]

2003年の出生率は1000人に対して9.5人(1981年は1000人に対して14.5人)であった。同時に死亡率は1981年の1,000人に対して8.9%であったのが2003年には1,000人に対して9.6%と増加している。2001年の時点で65歳以上の高齢者は16.71%、15歳から64歳までが68.12%、14歳以下が15.18%であった[10]

ギリシャ社会は時を経ると共に急激に変化した。婚姻率は1981年の1,000人に対して71%から2002年まで低下し続けていたが、2003年には僅かに増加して61%となったが、2004年、再び低下して51%となった[10]。一方で離婚率は増加しており、1991年の時点で1,000組に対して191.12件であったが、2004年には1,000組に対して239.5組となっている[10]。ギリシャ人のほぼ3分の2が市街地に居住しており、2001年のギリシャ最大自治体は以下の通りであった。アテネテッサロニキピレウスパトライラクリオンラリサヴォロス[11]

国外への移民[編集]

20世紀を通じて、何百万人ものギリシャ人がアメリカオーストラリアカナダイギリスドイツへ移住、各地でギリシャ移民らは成功を収めた。特にオーストラリアのメルボルンには、ギリシャ人移民が多く、その数はギリシャ国内のアテネ(75万人)、テッサロニキ(32万人)に次ぐ[12]

この海外移住傾向は1980年代以降、ギリシャ経済の重要な改善の後、収まりつつあったが、2010年からのギリシャの経済危機により、再び海外への移民が増えている。

国内への移民[編集]

ギリシャ国内には外国人の移民もいるが、彼らは正式な書類を持たない不法移民が多い。ギリシャでは人種差別的な攻撃に関して有罪判決が下ることはほとんどなく、人種差別が横行している。ギリシャの経済危機があってから、彼ら移民はギリシャ人の不満のはけ口にされており、特に攻撃にさらされている[13]。ギリシャ当局も不法移民には厳しい態度で当たっており、国連難民高等弁務官事務所によれば、ギリシャの警察は海上で難民を乗せた船を見かけた場合、移民を乗せた船を引っ張ってトルコなどに「押し戻す」行為が行われているという。これにより船が転覆、死亡する者も出ているが、ギリシャはこれを否定している。また、不法移民を収容する施設は過密状態で不衛生であり、さらに勾留期限は無期限となっている[14]

民族[編集]

ギリシャの民族構成
ギリシャ人
  
98%
トルコ人
  
1%
その他
  
1%

ギリシャ人が98%、他にアルーマニア人トルコ系ユダヤ系アルバニア人

言語[編集]

主たる言語は、ギリシャ語

人名[編集]

ギリシャ人は長男に父方の祖父の名を付ける、などの習慣があるが、姓が普及したのは、有力貴族が成長してきた9世紀の東ローマ帝国時代以降のことである。婚姻の際に姓が変わることはない(夫婦別姓)が、社会的な関係においては、配偶者が同意し場合のみ配偶者の姓を用いる、あるいはその姓に自己の姓を付加して使用することが認められている。

宗教[編集]

ギリシャの宗教(2001年)[15][16]
ギリシャ正教会
  
98%
イスラム教
  
1.3%
その他
  
0.7%

主たる宗教は、正教会に属するアテネ大主教の管掌下にあるギリシャ正教会。ただし、クレタ島アトス山だけはコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にある。少数派としてはイスラム教カトリックの他に、ネオペイガニズム運動の1つとして古代ギリシア神話の神々を信仰する「ギリシア多神教復興運動英語版」が存在する。

文化[編集]

古代ギリシアの代表的哲学者ソクラテス

紀元前からギリシャは哲学や文化、芸術に様々な影響を与えてきた。その影響力の大きさから、ギリシャは「ヨーロッパ文化のゆりかご」と称されることもある。

食文化[編集]

建築[編集]

文学[編集]

哲学[編集]

美術[編集]

世界遺産[編集]

ギリシャ国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が15件、複合遺産が2件存在する。

祝祭日[編集]

祝祭日
日付 日本語表記 ギリシャ語表記 備考
1月1日 元日 Πρωτοχρονιά
1月6日 神現祭 Αγια Θεοφάνεια
移動祝日 聖灰月曜日 Καθαρά Δευτέρα 復活祭41日前
3月25日 独立記念日 Ευαγγελισμός / Εθνική εορτή
移動祝日 聖大金曜日 Μεγάλη Παρασκευή 復活祭前金曜日
移動祝日 聖大土曜日 Μεγάλο Σάββατο 復活祭前土曜日
移動祝日 復活大祭 Πάσχα 春分後の満月の次の日曜日
移動祝日 復活祭翌月曜日 Δευτέρα του Πάσχα
5月1日 メーデー Εργατική Πρωτομαγιά
移動祝日 聖神降臨祭翌月曜日 Δευτέρα του Αγίου Πνεύματος
8月15日 生神女就寝祭 Κοίμησις Θεοτόκου
10月28日 参戦記念日 To "΄Οχι" 対伊国土通過拒否の日 (Επέτειος του Όχι)
12月25日 主の降誕祭 Χριστούγεννα
12月26日 生神女のシナクシス Σύναξις Θεοτόκου

スポーツ[編集]

オリンピック発祥の地。このため近代オリンピックの開会式では常に第1番目の入場国となっている。

国民に人気があるスポーツはサッカーギリシャ代表UEFA欧州選手権に3度出場して2004年大会で初優勝。FIFAワールドカップは3度(1994年大会2010年大会2014年大会)出場した。ドイツ・ブンデスリーガテオファニス・ゲカスが2006-07シーズンの得点王となった。

また、バスケットボールも盛んであり、2006年に日本で開催された世界選手権では NBA でプレーする選手が不在の中、ドリームチームを下し準優勝となった。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年10月18日閲覧。
  2. ^ 精選版 日本国語大辞典
  3. ^ 『ギリシア史』第4章 ビザンツ時代(桜井万里子編 山川出版社 2005年 P196 同部分は井上浩一執筆)
  4. ^ 下院300議席のうち152議席、2011年11月4日現在
  5. ^ 新政権下で初のゼネスト ギリシャ官民2大労組 産経ニュース 2011年12月1日
  6. ^ ギリシャで今年6回目のゼネスト、新首相推進の緊縮策に抗議 AFPBB News 2011年12月2日
  7. ^ 平成 22 年度県民経済計算について内閣府。2013年12月7日閲覧。
  8. ^ 以下、統計資料はFAO Production Yearbook 2002、United Nations International Trade Statictics Yearbook 2002、United Nations Mineral Yearbook 2002。統計データはいずれも2002年時点の数値である
  9. ^ Αναστέλλονται όλα τα διεθνή δρομολόγια του ΟΣΕ [All international routes of OSE have been suspended]”. Ta Nea (2011年2月13日). ... (ギリシャ語)
  10. ^ a b c d e f Greece in Numbers (PDF)”. National Statistical Service of Greece. www.statistis.gr (2006年). 2007年12月14日閲覧。
  11. ^ Athena 2001 Census”. National Statistical Service of Greece. www.statistics.gr. 2007年12月14日閲覧。
  12. ^ “ギリシャから国民続々脱出で今や豪州に“第3の都市”が誕生”. ガジェット通信. http://getnews.jp/archives/269202 2012年10月30日閲覧。 
  13. ^ “アングル:緊縮策のギリシャで「移民危機」、社会不満のはけ口に”. ロイター. http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYE8B800420121209 2012年12月9日閲覧。 
  14. ^ “欧州への不法移民:海から押し寄せる大波”. 日本ビジネスプレス. (2014年8月21日). http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41532 2014年8月23日閲覧。 
  15. ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/gr.html
  16. ^ The newest polls show about 20% Greek citizens being irreligious which is much more than 1%. Ultimately, the statistics are disputed until the results of the new census.

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

政府
日本政府
観光
その他