クレメンス・メッテルニヒ
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クレメンス・ヴェンツェル・ロタール・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein、1773年5月15日- 1859年6月11日)は、ドイツ出身のオーストリアの政治家で、ウィーン会議を主宰したほか、オーストリアの宰相を務めた。
[編集] 生涯
1773年にドイツのラインラント=プファルツ州のコブレンツのメッテルニヒ伯爵家の家に生まれた。ナポレオンがラインラント地方を占領すると、メッテルニヒ一家はオーストリアのウィーンに逃れた。十六歳の時にシュトラスブルク大学に入学した。メッテルニヒはオーストリアで侯爵に列せられた。親友の、神聖ローマ皇帝フランツ2世が即位すると、ハーグの全権大使に任命され、特命を帯びてイギリスに派遣される。24歳にしてフランス革命戦争終結のためのラシュタット会議に出席、講和会議を反故にし、反革命戦争を継続させた。28歳の時にはドレスデンやベルリンに派遣された。1806年にはオーストリア大使としてパリに派遣された。
メッテルニヒは初めはマリア・テレジアの宰相ヴェンツェル・アントン・カウニッツ公爵の孫娘のエレオノーレ・カウニッツと結婚した。しかし、すぐに死別し、二十歳年下の下級貴族の娘マリア・アントニア・フォン・ライクハムと結婚したが、また一年で死別し、今度は三十二歳年下のハンガリー貴族の娘のメラーニエ・ジッチー・ファラリスと結婚した。メッテルニヒが保守主義者になったのは、この妻の影響力があったためだという。彼は、家庭では子煩悩で常に子供達の幸せに気を配る良き父親であったという。また、彼は金髪の巻き毛をした美男の伊達男で、フランスの玉璽官サヴィアル侯爵の娘コンスタンス・ド・ラフォルス、ロシアのピョートル・バグラチオン将軍の亡妻カタリーナ・バグラチオン、クールラント公爵夫人、アブランテス公爵夫人など、数多くの女性達と浮名を流した。また、ナポレオンの妹のカロリーヌ・ボナパルトと浮名を流したこともあり、ナポレオンが失脚した後、落ち込む彼女のためにオーストリアに隠居用の別荘を作ってやったという。
フランツ2世の信頼が厚かった彼は、1810年にナポレオン1世と皇女マリア・ルイーゼ・フォン・エスターライヒ(マリー・ルイーズ)との結婚の仲介役となり、1814年にウィーン会議を主宰し、保守・反動の政策でナポレオン後の欧州を指導した。1821年から1848年までオーストリアの宰相を務める。ウィーン体制下で神聖同盟・四国同盟を利用し自由主義・国民主義運動を弾圧したため(オーストリア皇帝フェルディナント1世に至っては彼の傀儡であった)反発を受け、1848年の3月革命で失脚してイギリスのロンドンに亡命した。
1851年にはオーストリアへの帰国を許された。1859年6月11日に死去した。
現在では、タレーラン・ペリゴールと並んで外交の天才と称されることが多い。

