ロマノス1世レカペノス

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ロマノス1世レカペノス
Ρωμανός Αʹ Λεκαπηνός
東ローマ皇帝
Romanos I with co-emperors, miliaresion, 931-944 AD.jpg
931年-944年のミリアレンセ銀貨(en)。表:十字の中心にロマノス1世。裏:共同皇帝コンスタンティノス7世と、ステファノス、コンスタンティノス(ロマノス1世レカペノスの息子達で共同皇帝)の名が刻まれている。
在位 920年 - 944年
出生 870年
死去 948年6月15日
王朝 マケドニア王朝
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ロマノス1世レカペノスギリシア語Ρωμανός Αʹ Λεκαπηνός, Rōmanos I Lekapēnos, 870年 - 948年6月15日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝皇帝(在位:920年 - 944年)。マケドニア王朝開祖のバシレイオス1世同様、アルメニア人農民の子として生まれ、海軍の士官として出世、帝国海軍の司令長官(ドルンガリオス・トーン・プロイモン)となった。

917年コンスタンティノス7世の母で摂政のゾエ・カルボノプシナがブルガリア帝国と戦って敗れ、その権威が失墜すると、ロマノスは919年の3月にクーデターを起こしてゾエ・カルボノプシナを追放。娘ヘレネをコンスタンティノスに嫁がせてその義父となり、9月には副皇帝、12月には共同皇帝となり、帝国の実権を掌握した。そして920年12月には、自ら正皇帝として即位し、コンスタンティノス7世を共同皇帝へ格下げしたのである。

即位後は、巧みな婚姻策によって貴族との結びつきを強化し、レカペノス家による帝位の世襲化を図った。また、宗教上の政策から教会との関係も深め、その経緯から933年にはロマノス1世の末子・テオフュラクトスが総主教となっている。対外においては、ブルガリア帝国シメオン1世が侵攻して来るが、ロマノス1世はクロアト族と結びあうことでこれを撃退し、927年にシメオンが死去すると、ブルガリアと和睦を結んで帝国西方の国境を安泰なものとした。一方、東方に対しても名将・ヨハネス・クルクアス英語版のもと、イスラム勢力に対して攻勢をかけ、東方に大きく勢力を拡大することに成功したのである。

941年en:Rus'–Byzantine War (941)キエフ大公国コンスタンチノープルが攻撃された。

ロマノス1世と息子クリストフォロスの描かれたソリドゥス金貨

しかし931年、期待していた長男のクリストフォロスが父に先立って早世すると、ロマノス1世は世襲をあきらめて、944年にはコンスタンティノス7世を帝位継承者として指名した。ロマノス1世には、クリストフォロスのほかにもステファノス、コンスタンティノスといった実子がいたが、ロマノス1世は彼らを無能と評していたため、継承者から除外したのである。ところが、この継承に対して二人の実子は不満を持ち、944年にロマノス1世は帝位を追われてマルマラ海のプリンキポス諸島(現在のプリンスィズ諸島)へ追放され、修道士にされてしまったのである。

さらに二人は、コンスタンティノス7世をも排除して帝位を我が物にしようとしたが、民衆の支持を得ていたコンスタンティノス7世の排除には失敗し、逆に捕縛されて追放されてしまった。こうして、コンスタンティノス7世が正皇帝として復位することとなった。

ロマノス1世は948年6月15日、孤独な修道士として死去した。レカペノス家の名はその後東ローマ帝国の歴史には登場しなくなるが、ロマノスの庶子で宦官となったバシレイオス・ノソスはコンスタンティノス7世の息子ロマノス2世の治世から、バシレイオス2世によって追放されるまで、事実上の宰相として行政を司り、権勢を誇った。

脚注[編集]

参考文献[編集]

先代:
コンスタンティノス7世
東ローマ皇帝
920年 - 944年
次代:
コンスタンティノス7世