ニカの乱

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ニカの乱(ニカのらん、古代ギリシア語: Στάση του Νίκα)は、532年東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルで起きた、皇帝ユスティニアヌス1世に対する反乱である。「ニカ」とはギリシャ語で「勝利」を意味する言葉で、反乱を起こした市民の掛け声である。

背景[編集]

古代ローマの帝政期から行われていた「パンとサーカス」は、ビザンティン時代になっても継続して市民に提供されていた。これは皇帝にとっては、人気取りと市民の不満をそらすことに有効であり、その場では市民は皇帝に対して直接に物を言うことができた。

特にチャリオットを使った戦車レースでは、競技者を応援する集団が形成された。古代ローマ時代には、「青」、「赤」、「緑」、「白」の4つがあり、構成員はそれぞれの党派を表す色を身に着けていた。ビザンティン時代に入って影響力を持っていた党派は、元老院階級や有力貴族を支持母体とし、皇帝ユスティニアヌス1世自身も応援者であった「青」(青党)と、主に自由市民が支持する「緑」(緑党)であった。

社会的に位置する階級や地域によってまとまっていたこれらの党派は、政治党派や私兵団という側面ももっており、戦車レースの間に政治的な要求を連呼することでしばしば皇帝の政策を左右しようとした。ユスティニアヌスの治世には、主に重税による不満から戦車レースの終了後にはほとんどかならず暴動が発生したが、首都の正規軍と近衛兵だけでは秩序を保つことができず、鎮圧にはこれらの党派の協力を必要とするまでになっていた。このことから、一部の有力貴族は帝位の簒奪を謀り始めていた。ユスティニアヌスの始めた征服事業やサーサーン朝ペルシアとの東方における長期の戦役、大規模な建築事業は、市民だけでなく貴族にも重税を強いることとなり、それに対する怒りは広く鬱積していた。

経過[編集]

531年、「青」と「緑」の構成員が、レース後の暴動の最中に行った殺人によって逮捕された。彼らは絞首刑を宣告されほとんどが処刑されたが、532年1月10日、「青」の1人と「緑」の1人が監獄から脱走し、彼らに味方する群集が占拠した教会の聖域に逃げ込んだ。事を荒立てたくなかったユスティニアヌスは死刑を懲役刑に減刑し(「青」と「緑」は完全な赦免を要求していた)、1月13日に戦車レースを開催することを宣言した。

競技場は皇帝の宮殿に隣接しており、宮殿から突き出した観覧席から安全にレースを主催し、観戦することができるようになっていた。レース開始後から群集は終始ユスティニアヌスに罵詈雑言を浴びせかけ、不穏な状況にあった。ついにその日の最終22レース目になると、「青」や「緑」という連呼が一つの「ニカ」(勝利または征服)という連呼に変わり、群集は暴徒と化して宮殿を襲撃し始めた。

皇帝の政策に反対であった一部の元老院議員は皇帝打倒の好機ととらえ暴徒と結託した。彼らは、徴税権を持つクァエストル(財務長官)であったカッパドキアのヨハネスと法務長官のトリボニアヌスの更迭を要求し、さらにその後アナスタシウス1世の甥のヒパティウスを新皇帝として擁立した。

暴動の発生から続く5日間、皇帝の宮殿は事実上封鎖状態にあった。ユスティニアヌスは退位し帝都から脱出することを考えたが、妻のテオドラから踏みとどまるように説得された。歴史家プロコピオスは、この時テオドラが「帝衣は最高の死装束である」という言葉で説得したと伝えている。1月18日、ユスティニアヌスはベリサリウスとムンダスの2人の将軍に反乱の鎮圧を命令した。ベリサリウスは3000名程の兵士を伴い、計略により暴徒を競技場に追い込んだ上、およそ3万人を殺害して反乱を鎮圧した。その後、ユスティニアヌスは捕らえたヒパティウスを処刑し、反乱を支援した元老院議員を国外追放した。

一週間に渡る反乱によって首都の半分近くが焼失もしくは破壊された。アヤ・ソフィア大聖堂(ハギア・ソフィア大聖堂)も破壊されたが、ユスティニアヌスによって後に再建された。

この反乱を乗り切ったユスティニアヌスは、ローマ帝国の復興を目的とした対外征服戦争を本格的に開始することになった。また、ディオクレティアヌス以降進められてきたローマ皇帝の専制君主化が一層進められ、元老院議員でも皇帝に平伏するよう宮廷儀礼が改められた。

関連項目[編集]