ガイウス・プリニウス・セクンドゥス
ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus、22 / 23年 – 79年8月24日)は古代ローマの博物学者、政治家、軍人。ローマ帝国の海外領土総督を歴任する傍ら『博物誌』を著した。一般には大プリニウスと呼ばれる。
甥に、文人で政治家のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)がおり、養子としている。
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概要[編集]
北イタリアのコムム(現在のコモ)生まれ。23歳のころ軍隊にはいり、ゲルマニア遠征に従軍した。50年代にローマにもどり法学を学んだが、弁論家としては成功せず、学問研究と著作に専念した。70年ごろから72年にかけて、管理官または収税官としてスペインに赴任した。このときに現在では世界遺産にもなっているラス・メドゥラスの採鉱作業にも接している。
79年にウェスウィウス山(ヴェスヴィオ山)の大噴火でヘルクラネウムとポンペイの町が壊滅したとき、プリニウスはナポリの近くのミセヌムでローマ西部艦隊の司令長官の任についていた。火山現象をくわしく調査したいとの熱意から、彼はナポリ湾をわたってスタビアエに上陸し死亡した。
小プリニウスの伝えるところによれば、プリニウスはスタビアエの町で休息していたが、火山性地震が激しくなったため、建物の倒壊を恐れて海岸へ避難した。避難者たちが海岸にいると、濃い煙と硫黄の臭いが立ち込めたため、人々は算を乱して逃げ出したが、プリニウスは動けずその場で倒れた。噴火が収まった三日後に収容された彼の遺体は眠るがごとくであったという。プリニウスの死因について小プリニウスは、喘息持ちであったため、煙で気管支がふさがれ窒息死したのだと記述する。しかし、硫黄臭や気管支の損傷についての記述は、硫化水素や二酸化硫黄などの火山ガスによる中毒死を強く示唆しており、現代の伝記ではプリニウスが有毒ガスで死んだと記述されることも極めて多いが、実際には史料からの憶測の域を出ない。
プリニウスは、歴史や科学に関する多数の著作をあらわした。騎兵による投げ槍の使用についての論著、甥である小プリニウスのために書いたと思われる、弁論家養成の3巻本、語形変化と活用について論じた8巻本、ゲルマニアでの戦争を記述した20巻の歴史書、そして41~71年のローマ史31巻などがあるが、いずれも現在では失われている。プリニウスの著作で唯一現存しているのが、自然と芸術についての百科全書的な37巻の大著「博物誌」である。ローマ皇帝ティトゥスへの献辞の中で彼自身がのべているように、この書物には、100人の著者によるおよそ2000巻の本からえらびだした2万の重要な事項が収録されている。最初の10巻は77年に発表され、残りは彼の死後おそらく小プリニウスによって公刊された。この百科全書がとりあげている分野は、天文学、地理学、民族学、人類学、人体生理学、動物学、植物学、園芸、医学と医薬、鉱物学と冶金、美術にまでおよび、余談にも美術史上、貴重な話がふくまれている。
著作[編集]
- 『馬上からの投げ槍について』(De iaculatione equestri)
- 『ポンポニウス・セクンドゥスの生涯』(De vita Pomponi Secundi)
- 『博物誌』(Naturalis historia)、77年。
プリニウスの著作は全部で102にもおよぶが、現存するのは77年に完成した『博物誌』のみである。
日本語文献[編集]
- 小プリニウス『プリニウス書簡集 ローマ帝国一貴紳の生活と信条』
- 中野里美 『ローマのプリニウス』 光陽出版社、2008年
- 澁澤龍彦 『私のプリニウス』 青土社、1986年
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- LacusCurtius, Pliny the Elder's Natural History
- Pliny the Elder, The Natural History (eds. John Bostock, M.D., F.R.S., H.T. Riley, Esq., B.A.)
