ノート:イルハン朝

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地図でタブリーズにあたる場所が「ダマスクス」になっていますので、その内修正しないといけません。Haydar 2007年3月2日 (金) 21:27 (UTC)[返信]

タイトルに関して[編集]

現在、イルハン朝というよりも、フレグ・ウルスのほうが呼ばれることが多くなってきているので、タイトルをフレグ・ウルスにしてはいかがでしょうか?

Kan-keri07 2007年10月16日 (火) 15:00 (UTC)[返信]

個人的にはあまり賛成できません。というのも、例えばチャガタイ・ウルスジョチ・ウルスという場合、こういった表現が実際にイルハン朝で書かれた『集史』で使われており、昨今のこのような表記が見られるようになったのもその事実に基づいたものです。しかし、「フレグ・ウルス」については杉山正明先生やそれに近い研究者の方たちが盛んに使っておられるものの、残念ながらそのような表現は現存する資料中には発見されていない様です。(よく調べればあるのかも知れませんが、少なくともイラン・中央アジアでの歴史叙述では主要な表現ではありませんでした)。チャガタイ・ウルスジョチ・ウルスという言い方から「フレグ・ウルス」とモンゴル語で呼ばれていたのではないかという予想のもと学問上の呼称として使われている、というのが現状です。そのため、この時代前後のイランや中央アジア方面の歴史を研究する先生方は「フレグ・ウルス」という表現は、呼ばれていた可能性は十分あるだろうとは考えているものの、あまり積極的には使っていないようです。
では実際にどう呼ばれていたかと言いますと、後のティムール朝時代の歴史家たちなどは「イランにおけるモンゴルの王朝」とか「モンゴルによるイランにおけるイルハンたち(の王朝)」などという呼び方をしていたようです。また、イブン・バットゥータはアブー・サイード時代のイルハン朝を訪れていますが、「チンギス・ハンの子孫」とか「イラクとホラーサーンのスルタン」のような言い方をしているようです。現在の「イルハン朝」とか「イルハン国」という呼び方は、直接的には欧米で使われていた Ilkhanate の訳語にあたりますが、フレグ家の歴代君主たちがみな「イルハン」と呼ばれていたかは疑問視されているものの、初代フレグのあだ名が「イルハン」だったことからその後裔たちを「『イルハン(フレグ)の一族』の王朝」という意味で Dawlat-i Īlkhānī といった表現も『集史』などでわずかながら確認されているとも聞かれますので少なくとも「イルハン朝」という言い方が(この場合はペルシア語の表現ではありますが)学問上の呼称として不適合とは言えないと思います。Haydar 2007年10月17日 (水) 16:07 (UTC)[返信]