ムザッファル・クトゥズ

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ムザッファル・クトゥズアラビア語 الملك المظفّر سيف الدين قُطُز al-Malik al-Muẓaffar Sayf al-Dīn Quṭuz, 生没年:?-1260年)は、エジプトバフリー・マムルーク朝の第4代スルターン(在位:1259年-1260年)。即位名によりムザッファル・クトゥズ الملك المظفّر قُطُز al-Malik al-Muẓafar Quṭuz とも呼ばれる。

生涯[編集]

第2代スルターンであるムイッズ・アイバクに仕えたマムルークの1人で、アイバクがスルタンとしての権力を確立する過程では一貫して協力し、実力者だったアクターイ(前王朝のアイユーブ朝の王女を妻にしていた)をアイバクが始末する際には自らが剣をふるったといわれている。ただしこのため、アクターイ配下のマムルークだったバイバルスカラーウーンらはシリアに逃亡し、クトゥズを憎んだといわれている。

1257年にアイバクがシャジャル・アッ=ドゥッルに殺され、シャジャル・アッ=ドゥッルもすぐに殺されると、その後を継いだマンスール・アリーに仕えたが、アリーが若年だったためにアイバク時代の最古参であり最有力でもあるマムルークのクトゥズが事実上の執政者となった。

しかし1258年アッバース朝がモンゴルのフレグによって滅ぼされるとその脅威を正面から受けることになり、クトゥズは若年のアリーでは緊急事態に対応できないとして1259年に廃し、自らが第4代のスルタンとして即位した。この強硬なやり口には多くの配下から不満が表れたといわれる。

一方、クトゥズによってシリアに追われたバイバルスやカラーウーンらはモンゴル侵攻という危機に対し、シリアにいるアイユーブ朝の残党を結集して当たろうとしたが、残党らはバイバルスの意に反して弱腰でモンゴルと誼を通じようとする有様だった。このためバイバルスらは失望し、やむなく仇敵であるクトゥズと和解し、未曾有の国難に当たることにした。

この同じ年には東方ではフレグの長兄でモンゴル帝国皇帝(カアン)であったモンケが陣没しており、後継者をめぐってクビライアリクブケが争うようになった。これを知ってフレグは主力部隊を率いてモンゴルに向かうべくシリアを離れ、後はキト・ブカの留守部隊が残されることになった。これでクトゥズは強気になり、モンゴルが派遣してきた降伏勧告を求める使者も斬り捨てるなどした。そして1260年9月3日に行なわれたアイン・ジャールートの戦いでキト・ブカを討ち取ってその軍を壊滅させたのである。

ところがクトゥズは戦後処理で戦功が大きかったバイバルスに報いなかった。バイバルスは恩賞としてアレッポの太守の地位を望んでいたが、クトゥズはバイバルスが自らの権力の弱い地域(アレッポは対モンゴルの最前線)で権力を拡大することを恐れて応じなかった[要出典]。このため、バイバルスらマムルークの怒りを買う。もともとバイバルスらは自らの主君だったアクターイを殺したクトゥズを快く思ってはおらず、その蜜月もモンゴル侵攻という国難あってのことに過ぎなかった[要出典]。このため1260年10月、エジプトに凱旋するときにクトゥズはバイバルス自らの手によって暗殺された。