イェニチェリ

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鉄砲で武装したイェニチェリ。軽装で甲冑などは身につけず、腰にはヤタガンと呼ばれる刀を帯びている。

イェニチェリトルコ語: Yeniçeriオスマン語: يڭيچرى、ギリシア語: Γενίτσαροιイタリア語: Giannizzeri)は、14世紀から19世紀の初頭まで存在したオスマン帝国の常備歩兵軍団で、スプーンをシンボルにしていたことが知られている。常備軍団カプクルの中核をなし、火器で武装した最精鋭であった。トルコ語でイェニは「新しい」、チェリは「兵隊」を意味する。

歴史[編集]

創設[編集]

イェニチェリ

オスマン帝国が拡大する過程で、従来の騎射を主戦術とするトルコ系軽騎兵の軍事力に頼らない君主の直属兵力として創設された。創設時期については諸説あるが、14世紀後半のムラト1世の治世とするのがもっとも知られる説である。

当初はキリスト教徒の戦争捕虜からなる奴隷軍であったが、15世紀にキリスト教徒の子弟から優秀な青少年を徴集し、イスラーム教に改宗させてイェニチェリなどに採用するデヴシルメ制度が考案され、定期的な人材供給が行われるようになる。

イェニチェリは長官であるイェニチェリ・アアス(Yeniçeri Ağası)以下部隊ごとに分かれて強い規律を持ち、16世紀までのオスマン帝国の軍事的拡大に大いに貢献した。同じ頃にヨーロッパでが普及し始めるといち早くこれを取り入れ、組織的に運用したことも大きい。

養成と拡大[編集]

スレイマン1世とイェニチェリ(スレイマン・ナーメより)

デヴシルメで徴集され、イェニチェリに配属されることが決まった者は、まず改宗の手続きがとられた後、ムスリム(イスラーム教徒)の農民家庭に配置され、農業労働に従事するとともにトルコ語を習得させられた。

次にアジェミー・オウランと呼ばれる身分に取り立てられ、首都などに兵営を持つ新兵軍団に配属され、次いでイェニチェリの増員・欠員補充の必要性に応じてイェニチェリ軍団に編入された。

イェニチェリは君主直属の主力軍団として原則的に首都イスタンブルにある兵営に住まわされ、また妻帯することを禁じられるが、同時に高い俸給を与えられ、免税など様々な特権を享受した[1]

16世紀後半以後、スレイマン1世の治世には軍事技術の革新のため各国で火器を装備した常備歩兵が重要視されるようになり、オスマン帝国では必然的にイェニチェリが拡充される方向に向かい、人員が膨張すると同時に、首都のみならず帝国領内各地の都市に駐留させられるようになった。

世襲化と専横[編集]

18世紀のイェニチェリ(1720年

だが、スレイマン1世の治世に行われたイェニチェリの急速な拡大は、軍事組織の構造に変化をもたらし、しばしばオスマン帝国の軍事的衰退の原因とされている。

同世紀以降からは、デヴシルメによらないで入隊した、つまり生まれながらにムスリムであるトルコ系の者が増えた。また禁じられていた妻帯も普通に行われるようになって、その子供を入隊させるようになったため、事実上の世襲となり、軍紀が乱れるもととなった[1]

イェニチェリは各都市においてギルドと結びついて顔役・無頼のような行動をとり、政治にも介入した。特に首都ではしばしば反乱を起こし、ときには宰相を更迭させたり、君主を廃位したりした。

オーストリア国境での戦争時には、国境地帯のセルビア人居住地域から略奪を行い、また勝手に住み着いて支配階級として振舞ったりしている(ちなみに鎮圧活動は同時期のナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征に対抗するための兵力としてイェニチェリが必要とされたため、中止された)。

18世紀後半に入ると、イェニチェリはヨーロッパ各国の歩兵と比較すると完全に時代遅れとなり、改革が急務とされるようになると、その必要性も揺らぐこととなった。

1793年セリム3世はイェニチェリとは別に新式歩兵軍「ニザーム・ジェディード」をつくり軍事改革を試みるが、1807年にイェニチェリの反対により廃位、幽閉され、のちに殺害されてしまった。

1808年、その従兄弟マフムト2世が即位した際、彼を擁立した改革派のアレムダル・ムスタファ・パシャが権力を握ったが、まもなくイェニチェリによって殺害された。

このように、旧式軍であるイェニチェリはオスマン帝国の反改革・保守派勢力の牙城と化しており、その専横は目に余るものが多く、すっかり帝国内における改革の妨げとなっていた。

廃止[編集]

マフムト2世

マフムト2世はセリム3世、アレムダル・ムスタファ・パシャの殺害を見て、イェニチェリに一定の配慮を示しながらも、漸進的な軍事改革を進め、1826年には西洋式新軍団の創立を宣言し、イェニチェリを挑発した。

6月14日、イェニチェリはマフムト2世に対して反乱を起こすが、今回の反乱においてはマフムト2世の側がウラマーから反乱の正当性を否定する意見を取り付けていたため、彼はこれを撃滅する意を決した。また、イェニチェリは都市の顔役として横暴に振舞うようになっていたため、首都の住民たちの支持を完全に失っていた。

このため、反乱軍は新式の装備を整えられた砲兵隊に猛攻を加えられ、反乱軍は瞬く間に壊滅させられることとなり、翌15日までに鎮圧された。

6月16日、マフムト2世はイェニチェリを廃止することを布告し、かねてから設立を宣言していた新式軍である「ムハンマド常勝軍」を設立した。これにより、イェニチェリのじつに4世紀以上にわたる歴史は幕を閉じた。

廃止による影響とその後[編集]

イェニチェリの廃止は、西洋化に反対する勢力が完全に払拭されたと見ることは難しいが、長らく漸進的な改革に甘んじつつ皇帝の力を蓄えてきたマフムト2世が、改革を強硬に推進する専制君主へと進む象徴的な事件となった。

一方、イェニチェリによって支配されていたセルビア人居住地域では、オスマン帝国からの独立を志すミロシュ・オブレノヴィッチ1世のもとでセルビア公国1817年 - 1882年)が誕生した。これは露土戦争後にはセルビア王国1882年 - 1918年)としてトルコから独立した。

1912年、バルカン諸国にバルカン同盟が結成されたものの、オスマン帝国が衰退してオーストリア=ハンガリー帝国が強盛となったことからロシア帝国からの後押しも加わりバルカン半島が混乱すると、セルビア人居住地域で第一次世界大戦を誘発した。

文化[編集]

現在のメフテルにもイェニチェリが再現されている。

オスマン帝国軍の軍楽、メフテルは西欧ではイェニチェリ音楽(Janissary Music)として知られている。イェニチェリは親衛隊として、君主と食事を共にする特権を持ち、野戦で使用される大きな鍋とスプーンをシンボルとしていた。

イェニチェリの営舎には大きな鍋が置かれ、反乱をおこすときは鍋をひっくり返した[1]。「なべをひっくりかえす」と言う言葉はトルコでは大騒ぎや反乱という意味とされる。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 林佳世子『オスマン帝国の時代』(世界史リブレット, 山川出版社, 1997年11月)、40-43頁

関連項目[編集]