家相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

家相かそう)とは、風水などと同じく中国から伝来し陰陽道として日本の文化に深く関わりをもつ、陰陽道の1つ。

奈良時代、中国から仏教とともに伝来した風水思想の中の、居宅を陽宅風水、墓地を陰宅風水とする思想があり、その陽宅風水が日本で独自に発展したものが家相であり、中国に家相はない。また日本においては、「地相」と「家相」の個別の定義があるが、総合して「家相」として用いられてきた。

また、建築史学を専門とする東工大教授、名古屋工業大学名誉教授 内藤昌は、伝統的な建物を建てる大工(番匠)の木割書と家相との関係を深く研究しており、朝廷や幾内を中心とする社寺に属した技術者が陰陽道の知識を深く保持し、特に法隆寺や四天王寺などに属した大工は、流派を形成し、その技術と知識は秘伝として口伝にて継承していたと文献に記載している。家相書は、その高貴な建築に携わる位の高い技術者(番匠)が口伝により伝えていたものを書物化した木割書の影響を受けて出版されたと論じている。

また「家相の民俗学」という書籍で、著者の宮内貴久は、内藤昌の研究に対し異論を唱えているが、家相は建築行為に関わるものであり、高度な建築知識(名古屋工業大学名誉教授、東工大教授)を持つ内藤昌が、当時の番匠が実践的に家相を伝承していたという建築学、歴史学上の研究内容の方が、はるかに整合性が高い。事実、昭和56年に番匠保存会が設立され、現在も京都、奈良において番匠による秘儀、秘伝の伝承、継承は続いており、現在でも春日大社興福寺などの造営では、番匠棟上槌打という祭祀、儀式が行われている事実が物語っている。

家相は、一般的に言われる方位の吉凶判断が主体ではなく、陰陽道として、神道仏道道教と深く関わっており、建築儀礼、及び祭祀において、建物やその住まい手の繁栄を祈願する儀式、祭祀を含んだものである。

概要[編集]

宮内貴久(お茶の水女子大准教授)の著物によれば、住居とは生存の拠り所として、最も根本的な施設であり古来より生命や財産を守るための工夫を重ねてきたが天災によって、当時としては不可解な被害(例えば地震やコレラ、火災)に見舞われていたことから災いの要因を含めた「世界を支配し統括する原理を知りたい」という欲求に晒された結果、住宅に対して、人々が居住生活に求める概念を実体化させて、長い年月を経て培われた知見が規範化され影響力を持ち家相の世界観が生み出されたと述べられている。特に江戸時代は、コレラによって庶民の多くの命が失われ、地震や大火によって二晩で江戸や江戸城が消失する明暦の大火など、神の祟りに対する拠り所を大きく求めていたと思われると、記述している。

日本での歴史[編集]

陰陽道の最盛期といわれる平安中期頃から、安倍氏、賀茂氏などの国家陰陽寮の陰陽師により方位や月日の吉凶が記された陰陽雑書などが記される。陰陽道の代表的な書籍とされ、地相と家相の記述がなされるようになる。現代では、建造物の向きや室内設備の方位の吉凶をさまざま論じているが、当時は、室内設備の吉凶はなく、「井戸」、「竈」、「厠」の吉凶の記載に限られていたと、「家相の民俗学」という書籍で、(お茶の水女子大学准教授)宮内貴久は述べている。つまり現代の家相は、派生をしすぎた物でもある。

鬼門の言い伝え[編集]

現代でも、人々は、縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、ひいらぎ南天を植えたり、鬼門や裏鬼門(南西)から水回りや玄関を避けて家作りをし、家相を気にする思想があり、根強い鬼門を恐れる社会現象がある。十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が未申であることから、の像を鬼門避けとして祀ったりしたと、京都御所の北東角の軒下に木彫りの猿が鎮座し、鬼門に対抗し(猿ヶ辻)といわれ、築地塀がそこだけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されてきたが、正式な御所の、猿ヶ辻の名称由来は、上記のような理由ではなく、魔除けのために鬼門方位の日吉山王社の神の使いとされる猿を祀ることによるものである。

NHKブックス発行の建築歴史学者、(東京工業大学教授、名古屋工業大学名誉教授)内藤昌の著書「城の日本史」によると、安土城丹波福知山城安土城を真似たといわれる岡山城にも、地階、もしくは一階の東北部、すなわち鬼門方位に厠(トイレ)を設けることが当時の常道であったと書かれており、姫路城などでは、鬼門だけでなく裏鬼門である、南西隅にも厠が配置されていたと記述されており、当時は建物の対角線からみた中心点を基準とした鬼門方位に厠を設けることを単純に嫌っていたわけでないことが記載されており、一般的に伝えられている家相とは違い、あえて鬼門方位に厠を作ることを常道として築城は行われていたこと、また建物四隅の鬼門は恐れていないことが興味深いと研究されている。

時代変遷[編集]

平安、室町時代[編集]

陰陽道は、平安時代が最盛期であり、そして室町時代はその繁栄期であったと、吉川弘文館発行「近世陰陽道の研究」(愛知学院教授)林淳の著書で述べている。陰陽道は平安貴族社会を基盤にして、展開した呪術的な宗教であったと、林淳氏は述べ、そして貴族の間に深く広がった理由を、律令制(形法に基づく社会)の神祇祭祀の中に陰陽要素を含む祭祀がすでに数多くあったことが大きいと述べている。

それは、鎮花祭風神祭大祓宮城四隅疫神祭、などの祭祀であると述べている。陰陽道に大きな影響を与えた神道は、創始者や教祖がおらず、そのため世界的にみても珍しい宗教で、仏教のような経典やキリスト教のような聖典がない。教えや内実はすべて神社と祭り、祭祀の中に盛り込まれていると、茂木貞純、神社庁広報誌刊「神道と祭りの伝統」で述べている。祭り、つまり祭祀により平安貴族は陰陽道と向き合っていたものと思われる。

同じく、吉川弘文館、「陰陽師と貴族社会」神奈川大学講師、繁田信一氏の著書の中で、新宅移徒と陰陽師、陰陽師と病気などの研究がなされ、当時の陰陽師は、医師の役目、病気の回復のためのひとつの治療方法や治療方法のト占(医師の治療が正しいのか判断)が、陰陽道の役目であったと報告されている。宅神の祭祀の調査研究も合わせてなされており、安倍清明流の何者かが、鎌倉時代前期の著した「陰陽道旧記抄」に「竈、門、井、厠、者家神也云々」との諸説が見えることから、当時の母屋、寝殿を中心にした、家宅の主要な場所をすでに神格化させていたと考えられていたと、著者の篠田信一氏は論じている。そして、新宅移徒(現在の新築移転)の際には、災い、病気から逃れるために、諸神の祭祀が広く貴族社会で行われていたと述べている。陰陽道が呪術的な宗教要素が非常に強いことから、家の諸々の神、宅神の祟りから逃れるためのさまざまな祭祀(防解火災祭、螢惑星祭など)が行われていたことが報告されている。

戦国時代[編集]

戦国期において陰陽道は、力を持った土御門家(安倍氏嫡流)であっても、京都を追われ多くは若狭に居住するようになり、それに伴って陰陽道は大きく衰微していったと、 篠田信一著 「陰陽師と貴族社会」  林淳著「近世陰陽道の研究」 同じく吉川弘文館の書籍で述べられている。 

安土桃山時代[編集]

豊臣秀吉による陰陽師弾圧が始まり、祈祷や占いを生業とする陰陽師を地方、特に尾張地区に追いやり、そして開墾をさせ、陰陽師に大地の神々を鎮めさせ、陰陽師の農民化もあわせてはかることをおこない、情報収集能力があるとみられた陰陽師を地方や敵地の近くに置くことで、敵陣の動向を監視する目的も持たせたととも思われていたと、篠田信一著 「陰陽師と貴族社会」  林淳著「近世陰陽道の研究」 同じく吉川弘文館の書籍で述べられている。 


江戸時代[編集]

吉川弘文館、林淳氏著「近世陰陽道研究」において、徳川政権と陰陽道の関わりは、京都の陰陽家として土御門家(つちみかどけ)だけが唯一残ったことから、勘解由小路家が担当していた暦道も土御門家に引き継いだとされている。土御門家は徳川将軍に奉仕していたが、日常的には天皇に仕えていたとされており、江戸幕府に陰陽師支配の絶大的な権力、許可を与えられた土御門家であったが、陰陽道のもっとも重大な「大法」であるはずの泰山府君祭の祭壇があまりにもお粗末であったことから、後の天皇の御所で地鎮祭を行うにあたり、吉田神道に法具の借用を願いでて地鎮祭をしたとされ、中世以来の陰陽道の相伝や法具の多くを喪失し、その空白を埋めるため、吉田神道(京都吉田神社)を取り込み、その結果、陰陽道の神道化がおきたと、同書、吉川弘文館、林淳氏の「近世陰陽道の研究」で述べている。そして、なおその後、垂加神道を受容し、陰陽道は神道色を著しく濃くしていったと記されている。

江戸時代、天明から寛政の時代にかけて、「庶民に向けた」家相書が急増し、享和から化政にかけてその書籍の再盛期を迎えたと考えられている。それには、刊行年月の特定が出来るものと出来ないものが100冊あったとする(名古屋工業大学名誉教授、東工大教授)内藤昌の集計(ref.内藤昌,1961)。176冊の中から文化、文政、天保の年に多く出版されているという村田あがの分析結果があり、当時の「一般庶民に向けた家相書」が刊行年月が特定できない書籍が多く、いいかげんなものが多いことが立証されている。

また、村田あが、宮内貴久両者の特に「江戸期の家相研究」は、民俗学の研究から脱しておらず、建築知識が極端に乏しいため、その研究内容も凹凸の建物形状の吉凶図だけを家相として研究しており、また山形、岩手など、極端な遠隔地での地域での家相研究や残存書籍の統計、研究に偏っており、京都、江戸から発祥、発展した学問の研究に、地方での研究に、その信頼性には大きな疑問が残る。

奇しくも、宮内貴久 著「家相の民俗学」と同じ出版社である吉川弘文館の書籍、篠田信一著「陰陽師と貴族社会」、林淳著「近世陰陽道の研究」で述べられているが、戦国時代に地方に追いやられ士農工商にも該当しない身分の低い賤民、遊芸民である声聞師がその後に民間の陰陽師と活動していたことの記述が、村田、宮内両者の家相研究、江戸時代の家相研究には少なく、当時、特に江戸期は、これら声聞師は、現代で言う詐欺師、だましものとして扱われており、それら声聞師の活動を学術的な家相研究としての取り扱いを注意しなければならないが、その選別がないに等しい。

江戸時代は、声聞師のだましものの言い伝えが広まっただけではなく、出版の規制も松平英明、本間五郎の著物で、以下の事例について述べている。

  1. 1696年(元禄9年)年、風水について触れた著物の1つ、陳畊山「三才発秘」は、1699年(元禄12年)年に、卯川四番船で中国から輸入されたものであるが一部墨消しと差返しの処分を受けるだけに止まらず1685年(貞享2年)年以降は禁書の指定を受けた(ref.大庭脩,1967)。
  2. 1801年(享和元年)年9月、大阪南宝寺の板元 河内屋八兵衛が出願した松倉東鶏の著書「方鑑精義大成」が風儀を乱すとの理由で不許可となる。 ただし翌年5月に再出願を行った結果7月に許可が下りた。
  3. 1802年(享和2年)年9月、大阪長堀心斎町の板元 播磨屋五兵衛が出願した「弁惑書口訣」「天分捷径平天儀図解」の2冊に対して、暦に差支えないか問題となる。 これらの本は、当時著名な暦学者であった麻田立達の鑑別と証言により許可が下りた。

江戸時代、庶民にいっきに広まったとされる家相ではあるが、現実の江戸時代の建築物の多くは共同長屋であり、庶民のほとんどはその長屋、裏長屋で生活をし、厠は共同で使用した歴史があり、下級武士においてもその多くが長屋生活であった。つまり、現実においては書物だけが一人歩きし、厠の方位は高貴な建物に限られていたと推測される。内藤昌氏の「江戸と江戸城」においては、江戸城の内部にはさまざまな場所に数多くの厠がつくられていたと報告され、特に大奥においては、局は専用の厠として井戸が掘られ、死後はそれを埋め、一代限りの厠として利用していたことが研究されており、陰陽道の取入を最も行なった築城には、戦国時代、江戸時代とも、単純に鬼門方位を嫌っていたのではないことが、厠の数だけで推察される。

当時、神道と深い関係を持った陰陽道であったが、徳川幕府が、社1に対し、寺9という、割合で寺を重用する傾向になり、その陰陽道、家相も仏道の影響も大きく受けていったことが想像される。

明治・大正・昭和[編集]

宮内貴久の著物によれば、政府から各府県に対して、民族調査を命じ生活細部に影響を及ぼす禁令を敷いた。特に、1872年(明治5年) には、教部省により淫祠邪教の類として家相も直接的に禁止されることとなった。と述べられている。そして、この流れを受け継いだ大正時代には、学会誌「建築雑誌」や各種新聞雑誌の類などを行い、この運動は昭和初期まで続くこととなり民俗学において、民家研究や民族宗教研究といった研究分野での進展がなかったと分析している。明治から戦後まで、家相は隠秘、停止されており、書物なども戦時下、空襲などで紛失、消失した家相書は多く、神田神保町などでも古書街においても、明治大正に発行された裏書の所有者は、東北地方の所有者が多く、残った研究資料も、声聞師(身分の低い、現在で言う詐欺師)が残したものも多く正式な陰陽道と区別して研究する必要がある。


その結果、現在の日本は鬼門を単純に避けることを家相としてしまい1946年(昭和21年)年、文部省迷信調査協議会によれば「鬼門を避けるか」という問いに関して、信じるかどうかを別として「避ける」という回答が2/3に及んでいると報告されている。

1960年代末、清家清によって、建築計画学、建築史学、地理学の3分野から研究が進められることとなる。清家清は、建築学の観点からある一定の科学性が認められると論じたとされているが、陰陽道、神道、仏道からの観点からの研究はなされておらず、祭祀を含んだ家相研究にはいっさい踏み込んではいない。あくまでも著書のタイトルにあるように、「家相の科学」科学的に家相をみたもの、分析しただけにとどまるものである。科学的に家相を分析した書籍が、「占い師の都合のよい家相の肯定化」にもつながっており皮肉なものである。


村田あがの著物によれば、江戸時代の家相学では、畳数に陰陽五行での「木」「火」「土」「金」「水」を割り当て、相生相剋を判断していた。 村田あがによれば江戸時代の家相説では、その一例として「九畳八畳の続き間の如きは、土生金の吉相なり」(かぎ括弧部は村田あがの著物より引用。)といったように使われていたとされている。これは、茶道の畳をあるく歩数の善し悪し、流派によるそれらの違いも、ともに陰陽道の影響を大きく受ける関係性から、家相の流派ごとにも和室の畳数にこだわったものと推察される。また、畳は悔み事があると流れ敷きといい、畳の敷き換えをする習わしが地方にあり、流れ敷きが行ないやすい畳数も好んでいたものであると推察される。

家相の基準点、中心点の設定法[編集]

家の中心を設定する説は、15以上の中心流派が存在した。大まかには13の考え方がある

参考文献 宮内貴久 著  家相の民俗学 (日本歴史民俗叢書) (2006/3)

  1. 屋敷地を中心とする
  2. 1階の家屋の形から対角線をとり、中心とする
  3. 2階の家屋の形から対角線をとり、中心とする
  4. 1階、2階の家屋の形から対角線をとりその平均を中心とする
  5. 大黒柱を中心とする 太極柱を中心とする
  6. 囲炉裏を中心とする
  7. 神棚を中心とする
  8. 床柱を中心とする
  9. 母屋と屋敷地の中心を中心とする
  10. 大棟を中心とする
  11. 住宅は主人の正寝 商店は店の間 武家は玄関 を中心とする
  12. 惣構の中心とする
  13. 大門は庁事 傍屋は大楼を中心とする (宮廷の建築)

宮内貴久は著書の中、中心点の統計をとっており(276の統計の内)建物の対角線を中心とする説にも多くの流派があるとしている。ちなみに対角線から中心を探す流派は 170/276 あるが、1階の対角線の説、2階の対角線の説、1.2階の平均の対角線の説、同じ建物の対角線を中心とする説においても、数多くの流派があることが報告されている。屋敷地を中心とする説は、17/276、大黒柱を中心とする説は、11/276、囲炉裏を中心とする説は、7/276 その他不明なものが、85存在するという、統計をとっており、家相の基準点は多種多様な中心点が存在したことを記述している。統計からすれば、どの中心流派も特出していない。

論争[編集]

家相が迷信であるとする主張には、文献間の中心点の統一性の欠如、吉凶の統一性の欠如、災いが鬼門の水まわりが影響するかの科学的根拠の希薄性があげられる。これに対して、宮内貴久は、合理性が明らかにしたところで無意味であり、住宅観を明らかにすることが重要であると述べている 現在、家相や民俗学として、学者による研究書物も多いが、偏った残存書物の研究、岩手や山形など極端な遠隔地方の家相研究、資料などに基づくものが多く、その信憑性には疑問が残る書籍が多い。また、平安時代に繁栄を極めた、陰陽道が、戦国時代で途絶え、また神道化に流れた陰陽道、家相も、江戸時代の強い仏道の影響を受けたと想定され、口述、継承が非常に難しいものだったと想定される。

本来の家相は、「井戸」、「竈」、「厠」など、神格化した場所の神々への祟りがなきよう、、太極中心からその神格化した設備への方位の相性をみるもの、そして神格化した場所に祭祀や祈りを行なうものであるが、江戸後期から派生した民俗学をどこまで家相として見るかが、課題でもある。

わかりやすく、現代の家相としてたとえれば、「ペットと家相」などと題して、ペットを飼うことがその家の幸せか否か、どこで飼えばよいかと「えせ家相研究家」が題すれば、それはそれでひとつの家の吉凶となり現代においての家相ではあるが、それが家相なのかということである。昨今のテレビや多くの現代家相書は、こういった論法のほうが主体になっており、江戸後期から始まった、都合のよい家作りの教えも古来の家相に混在させた声聞師が広めた「だましの理論」を家相としてみるものなのかと同様の事象である。家でペットを飼うことを家相ではどうでしょうか? などといった現代の住まいにおいての吉凶が書物に表現されれば、100年後、それが古来の家相学となってしまうことが、今後の課題であるし、江戸後期の家相学は現実にそのようなものだと考えられる。事実風水などは、結婚占いなど派生を極めており混乱している。家相も高層マンションの家相、タワーマンションの家相など、古来にないものの吉凶を語られ派生はどうしても今後もおき、江戸後期に、庶民の家作りの都合のよい(占い師や建築業者にとって)諸々の教えを家相と組み込んだ考えをどこまで家相とするのか議論の余地はないが課題である。

主たる参考文献[編集]

  • 江戸と江戸城 内藤昌 SD選書 1966年1月
  • 篠田信一 著 「陰陽師と貴族社会」 吉川弘文館
  • 林 淳 著 「近世陰陽道の研究」 吉川弘文館 
  • 内藤 昌 著 「城の日本史」 (日本放送出版協会 刊 1979) 
  • 松平英明,本間五郎 著、「知らねばならぬ科学的家相の話」(欧亜社,1932.--)、p.51, 56 など
  • 宮内貴久 著、「家相の民俗学」(吉川弘文館,2006.4 ISBN 4-642-07367-1)、p.9, 10,72 など
  • 村田あが 著、「江戸時代の家相説」(雄山閣出版,1999)、p.220 など
  • 宮内貴久 著 「風水と家相の歴史」 吉川弘文館 2009.5
  • 宮内貴久 著  家相の民俗学 (日本歴史民俗叢書) (2006/3)
  • 毎日新聞 発刊 京都御所  昭和59年発行
  • 茂木貞純 著 「神道と祭りの伝統」 神社庁広報誌刊
  • 毎日新聞社 刊 『毎日グラフ別冊 京都御所』、1984

脚注[編集]

[ヘルプ]

関連項目[編集]