家相

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家相かそう)とは、土地や家の間取りなどの相(見た目、ありさま)、またはそれによって住人の運勢をみる占術。風水などと同じく中国から伝来し陰陽道として日本の文化に深く関わりをもつ、陰陽道の1つ。

概要[編集]

宮内貴久(お茶の水女子大准教授)の著物によれば、住居とは生存の拠り所として、最も根本的な施設であり古来より生命や財産を守るための工夫を重ねてきたが天災によって、当時としては不可解な被害(例えば地震やコレラ、火災)に見舞われていたことから災いの要因を含めた「世界を支配し統括する原理を知りたい」という欲求に晒された結果、住宅に対して、人々が居住生活に求める概念を実体化させて、長い年月を経て培われた知見が規範化され影響力を持ち家相の世界観が生み出されたと述べられている。

家相と陰陽道の関連[編集]

奈良時代、中国から仏教とともに伝来した風水思想の中の、居宅を陽宅風水、墓地を陰宅風水とする思想があり、その陽宅風水が日本で独自に発展したものが家相であり、中国に家相はない。また日本においては、「地相」と「家相」の個別の定義があるが、総合して「家相」として用いられてきた。

日本での歴史[編集]

陰陽道の最盛期といわれる平安中期頃から、安倍氏、賀茂氏などの国家陰陽寮の陰陽師により方位や月日の吉凶が記された陰陽雑書などが記される。陰陽道の代表的な書籍とされ、地相と家相の記述がなされるようになる。現代では、建造物の向きや室内設備の方位の吉凶をさまざま論じているが、当時は、室内設備の吉凶はなく、「井戸」、「竈」、「厠」の吉凶の記載に限られていたと、「家相の民俗学」という書籍で、(お茶の水女子大学准教授)宮内貴久は述べている。

鬼門の言い伝え [編集]

現代でも、人々は、縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、ひいらぎ南天を植えたり、鬼門や裏鬼門(南西)から水回りや玄関を避けて家作りをし、家相を気にする思想があり、根強い鬼門を恐れる社会現象がある。十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が未申であることから、の像を鬼門避けとして祀ったりしたと、京都御所の北東角の軒下に木彫りの猿が鎮座し、鬼門に対抗し(猿ヶ辻)といわれ、築地塀がそこだけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されてきた。

また、京都御所の築地塀が鬼門、北東方位が凹ませてあることから、御所が鬼門を避けている、除けていると考えられ、それから鬼門を除ける手法とされてきたことにある。建築家清家清著 現代の家相には、家相の教え通りに凹ませていると書かれている。

時代変遷[編集]

平安、室町時代[編集]

陰陽道は、平安時代が最盛期であり、そして室町時代はその繁栄期であったと、吉川弘文館発行「近世陰陽道の研究」(愛知学院教授)林淳の著書で述べている。陰陽道は平安貴族社会を基盤にして、展開した呪術的な宗教であったと、林淳氏は述べ、そして貴族の間に深く広がった理由を、律令制(形法に基づく社会)の神祇祭祀の中に陰陽要素を含む祭祀がすでに数多くあったことが大きいと述べている。

安土桃山時代[編集]

豊臣秀吉による陰陽師弾圧が始まり、祈祷や占いを生業とする陰陽師を地方に追いやり、そして開墾をさせ、陰陽師に大地の神々を鎮めさせ、陰陽師の農民化もあわせてはかることをおこない、情報収集能力があるとみられた陰陽師を地方や敵地の近くに置くことで、敵陣の動向を監視する目的も持たせたととも思われていたと、篠田信一著 「陰陽師と貴族社会」  林淳著「近世陰陽道の研究」 同じく吉川弘文館の書籍で述べられている。 

江戸時代[編集]

江戸時代、天明から寛政の時代にかけて、「庶民に向けた」家相書が急増し、享和から化政にかけてその書籍の再盛期を迎えたと考えられている。それには、刊行年月の特定が出来るものと出来ないものが100冊あったとする(名古屋工業大学名誉教授、東工大教授)内藤昌の集計(ref.内藤昌,1961)。176冊の中から文化、文政、天保の年に多く出版されているという村田あがの分析結果があり、当時の「一般庶民に向けた家相書」が刊行年月が特定できない書籍が多く、いいかげんなものが多いことが立証されている。


江戸時代は、出版の規制も松平英明、本間五郎の著物で、以下の事例について述べている。

  1. 1696年(元禄9年)年、風水について触れた著物の1つ、陳畊山「三才発秘」は、1699年(元禄12年)年に、卯川四番船で中国から輸入されたものであるが一部墨消しと差返しの処分を受けるだけに止まらず1685年(貞享2年)年以降は禁書の指定を受けた(ref.大庭脩,1967)。
  2. 1801年(享和元年)年9月、大阪南宝寺の板元 河内屋八兵衛が出願した松倉東鶏の著書「方鑑精義大成」が風儀を乱すとの理由で不許可となる。 ただし翌年5月に再出願を行った結果7月に許可が下りた。
  3. 1802年(享和2年)年9月、大阪長堀心斎町の板元 播磨屋五兵衛が出願した「弁惑書口訣」「天分捷径平天儀図解」の2冊に対して、暦に差支えないか問題となる。 これらの本は、当時著名な暦学者であった麻田立達の鑑別と証言により許可が下りた。

明治・大正・昭和[編集]

宮内貴久の著物によれば、政府から各府県に対して、民族調査を命じ生活細部に影響を及ぼす禁令を敷いた。特に、1872年(明治5年) には、教部省により淫祠邪教の類として家相も直接的に禁止されることとなった。と述べられている。そして、この流れを受け継いだ大正時代には、学会誌「建築雑誌」や各種新聞雑誌の類などを行い、この運動は昭和初期まで続くこととなり民俗学において、民家研究や民族宗教研究といった研究分野での進展がなかったと分析している。明治から戦後まで、家相は隠秘、停止されている。

1946年(昭和21年)年、文部省迷信調査協議会によれば「鬼門を避けるか」という問いに関して、信じるかどうかを別として「避ける」という回答が2/3に及んでいると報告されている。

1960年代末、清家清によって、建築計画学、建築史学、地理学の3分野から研究が進められることとなる。清家清は、建築学の観点からある一定の科学性が認められると論じたとされている。


村田あがの著物によれば、江戸時代の家相学では、畳数に陰陽五行での「木」「火」「土」「金」「水」を割り当て、相生相剋を判断していた。 村田あがによれば江戸時代の家相説では、その一例として「九畳八畳の続き間の如きは、土生金の吉相なり」(かぎ括弧部は村田あがの著物より引用。)といったように使われていたとされている。

論争[編集]

家相が迷信であるとする主張には、文献間の中心点の統一性の欠如、吉凶の統一性の欠如、災いが鬼門の水まわりが影響するかの科学的根拠の希薄性があげられる。これに対して、宮内貴久は、合理性が明らかにしたところで無意味であり、住宅観を明らかにすることが重要であると述べている 


主たる参考文献[編集]

  • 松平英明,本間五郎 著、「知らねばならぬ科学的家相の話」(欧亜社,1932.--)、p.51, 56 など
  • 宮内貴久 著、「家相の民俗学」(吉川弘文館,2006.4 ISBN 4-642-07367-1)、p.9, 10,72 など
  • 村田あが 著、「江戸時代の家相説」(雄山閣出版,1999)、p.220 など
  • 宮内貴久 著 「風水と家相の歴史」 吉川弘文館 2009.5
  • 宮内貴久 著  家相の民俗学 (日本歴史民俗叢書) (2006/3)
  • 現代の家相 新潮社 (1989/01) 清家清

脚注[編集]

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関連項目[編集]