置塩城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
logo
置塩城
兵庫県
置塩城(置塩山、城山)
置塩城(置塩山、城山)
別名 藤丸城、小塩城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 不明(と推定される塼列建物が発掘調査で確認されている)
築城主 赤松政則
築城年 文明元年(1469年)
主な城主 赤松氏五代
廃城年 天正9年(1581年
遺構 城郭(本丸、二の丸、三の丸等)
指定文化財 国の史跡
位置 北緯34度55分21.598秒
東経134度40分52.11秒

置塩城(おきしおじょう、おじおじょう)は、兵庫県姫路市にある山城。国の史跡に指定されている。

概要[編集]

兵庫県姫路市夢前町宮置、糸田にある標高370mの置塩山(通称:城山)にある山城姫路市の中心部の北10kmに位置し、北から南に夢前川が流れ、川沿いに播但街道がある要所に築城された。旧夢前町(現在は姫路市に吸収合併されて消滅)が国の史跡指定を目指した調査を実施。1996年3月28日白旗城跡、感状山城跡と共に「赤松氏城跡」の名称で国の史跡に指定された。

歴史[編集]

  • 文明元年(1469年)、標高370mの城山に赤松政則が築城した。以後、赤松氏の居城となる。
  • 天正5年(1577年)、赤松則房の時、播磨国に侵攻してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に降伏。
  • 天正8年(1580年)、秀吉の城割令によって廃城となり、建物や石垣は解体して姫路城に移された。なお、現存する姫路城の「との一門」は、この時移築されたものといわれている。

城主五代[編集]

置塩城は、築城してから城割(破城)までの約100年間に、赤松氏五代にわたって城主が変わった。

一代目 赤松政則
赤松政則の播磨国入国には管領細川勝元の力添えがあり、当初は国衆にも歓迎されたので、播磨国・備前国美作国の三国の守護に返り咲くことができた。しかし、当時の国衆は全国的に力が強く、三国を完全に統一することはできなかったようである。明応5年(1496年)4月25日42歳で逝去する。
二代目 赤松義村
赤松政則に子はあったが、政則自身は赤松氏でも傍流の出身だったので、有力一門の七条家から迎えた養子赤松義村が二代目城主となった。赤松義村の後見には守護代として浦上村宗が就いた。しかし、村宗は守護代の地位を利用して実権を握り、それに反発した義村を戦いの末屈服させ、大永元年(1521年)には幽閉し、暗殺した。
三代目 赤松晴政
反浦上村宗派は、赤松義村の子赤松晴政を密かに三代目城主に据えた。その後、村宗は細川家の内紛に加担し、細川高国方について各地を転戦する。赤松晴政は大物崩れで村宗を背後から襲い、ついに倒した。しかし、その後も村宗の子の浦上政宗を服従させることはできなかった。天文7年(1538年)11月には出雲尼子晴久が大軍を率いて播磨に侵攻し、赤松晴政は摂津国に逃亡する。尼子晴久は2年後に播磨国から撤退し、赤松晴政は帰国したが、その後も政宗との対立は続いた。晩年には子の義祐を擁立した政宗のため置塩から退去し、龍野城赤松政秀の庇護を受けた。永禄8年(1565年)に死去する。
四代目 赤松義祐
この頃になると、備前国では宇喜多氏、美作国では浦上氏が勢力を拡大しており、所領はわずか飾東、飾西、神東の三郡だけとなって、天正4年(1576年)に死去する。
五代目 赤松則房
最後の城主は赤松則房である。羽柴秀吉中国攻めに対して、則房を含めた播磨国の国衆達はほとんど戦うことなく降伏し、軍門に下る。播磨国を統一した秀吉は、権力基盤を整えるために「城割」を実施し、筆頭に「置塩城」をあげて廃城にした。秀吉の命によって、赤松則房は天正13年(1585年)に阿波国加島城に1万石で移封する。

置塩城の曲輪[編集]

本丸跡
三の丸跡
二の丸跡下の石垣

置塩城の曲輪は、小さいものを含めると60以上あり、曲輪壁面下部に土留めとして低い石垣が築かれている。

主だった曲輪

置塩城の支城[編集]

置塩城の周辺には、支城ではないかと思われる次のようなが点在している。

これ以外にも数多くの支城があったと思われている。

赤松政則播磨国守護に任じられ、姫路城(規模は現在のものよりはるかに小さい)を本拠地としていた。但馬国からの侵攻に備えるため、防御に優れた山城が必要になって置塩城を築城し、姫路城には小寺豊職を入れて置塩城の支城とした時期もあった。

城跡へのアクセス[編集]

置塩城登山口
置塩城登山口付近にある駐車場
  • 鉄道・バスでのアクセス
    JR山陽本線 姫路駅神姫バス「塩田・前之庄」行 宮置下車
  • 車でのアクセス
    中国自動車道福崎IC → 県道23号線 前之庄 → 県道67号線 宮置(登山口に駐車場あり)
  • 徒歩でのアクセス
    登山口 → 山頂中心部まで徒歩約40分

参考文献[編集]

  • 朽木史郎・橘川真一『ひょうごの城紀行(上)』神戸新聞総合出版センター、1998年4月。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]