野田城 (三河国)

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野田城
愛知県
別名 根古屋城、三河野田城
城郭構造 不明
天守構造 なし
築城主 菅沼氏
築城年 永正7年(1508年
主な改修者 菅沼定盈
主な城主 菅沼定則菅沼定村、菅沼定盈
廃城年 天正18年(1590年
遺構 空堀、曲輪
指定文化財 市指定史跡[1]

野田城(のだじょう)は、愛知県新城市豊島にある日本の城。別名「根古屋城」、「三河野田城」とも呼ぶ。1505年永正2年)に菅沼氏が築城した支城である。最寄り駅はJR飯田線野田城駅。下車徒歩15分。

城の構造[編集]

愛知県新城市野田城の絵図

本丸二の丸三の丸侍屋敷が直線状に(=連鎖式)位置し、 城の両隣には淵があり天然の堀として使われた。

歴史[編集]

  • 1508年 菅沼定則によって築城され、居城とされた。定則の子・菅沼定村、孫・菅沼定盈らも居城とした。
  • 1561年 桶狭間の戦いの後、今川氏を離反した定盈は、今川勢に攻囲され開城退去。
  • 1562年 定盈が夜襲で奪回するも、損壊の激しい野田城は修築に刻を費やされた。定盈は、仮本拠を大野田城に定めている。
  • 元亀2年(1571年) 武田氏の遠江・三河侵攻において武田家臣山県昌景小笠原信嶺らの襲来により、大野田城は大破炎上。同年12月、定盈は修築中の野田城を再び本拠としたという。(なお近年では元亀2年の遠江・三河侵攻については根拠となる文書群の年代比定が再検討され、一連の経緯は天正3年の長篠の戦いの前提である可能性が指摘されている。)
  • 1573年 野田城の戦い。水の手を断たれて、城主・定盈は開城降伏する。
  • 1590年 徳川家康関東へ移封されると、定盈も付随。その後、吉田城に入った池田輝政の代官が新城を利用し、野田城を破却。廃城となった。

この城で起きた出来事[編集]

武田信玄がこの城を攻めた時、城から聞こえる笛の音に聴き惚れていたら鉄砲で狙撃され、その傷が原因で死亡したとの伝説がある。江戸時代に定盈の後裔が記した『菅沼家譜』で記述が見られるが、武田側での記述は定かではない。もっとも菅沼側でも「夜陰での鉄砲狙撃後に武田陣中が騒々しくなった」ような記述でしかなく、命中したことを明らかにしているわけではない。なお、黒澤明映画影武者』は、この伝説を元に制作された。

現在の野田城[編集]

愛知県新城市野田城
  • 現在は雑木などが生い茂っているが、土塁と空堀は現在も存在している。
  • 野田城跡の北側斜面を含む谷が、建設残土で埋め立てられつつあって問題になっている。
  • 本丸にあった門は近くの寺に移築している。

脚注[編集]

  1. ^ 市指定文化財(史跡)”. 新城市. 2013年3月21日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]