ブルーインパルス

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Blue Impulse(Japan Air Self-Defense Force).jpg

ブルーインパルス(Blue Impulse)は航空自衛隊松島基地第4航空団第11飛行隊所属の曲技飛行隊愛称である。愛称は初期のコールサイン「インパルス・ブルー」[1][2]が由来である。

目次

[編集] 概要

1958年、航空自衛隊の戦闘機教官が独断で行った編隊飛行が上官の目に留まったこと、また1959年に行われた米空軍サンダーバーズの日本公演を見た当時の航空幕僚長・源田実が打ち出した構想をきっかけに1960年浜松・第1航空団第2飛行隊内に空中機動研究班として発足した。その後公募したニックネーム「天竜」を用いたが、この「Tenryu」の「r」の発音に管制上支障が出たため「チェッカー・ブルー」後に「ブルーインパルス」[3]に変更。第4航空団第21飛行隊戦技研究班になるなど何度かの改編が行われた後、現在の正式名は宮城県松島基地に所属する第4航空団第11飛行隊となった。

ブルーインパルスは日本各地で行われる航空祭や民間イベント等に出演し、毎年平均20回程の展示飛行を実施している。

なお、同基地にはパイロット以外のスタッフで結成されたブルーインパルスジュニアも部活動として所属しており、各地の航空祭で展示走行を行っている。

[編集] 第11飛行隊

第11飛行隊(だい11ひこうたい、JASDF 11th Squadron)は、航空自衛隊航空教育集団第4航空団飛行群に所属する航空自衛隊の飛行隊である。

コールサインは「ブルーインパルス」(Blue Impulse―蒼い衝撃)。航空自衛隊の飛行隊の中で実質上、唯一飛行隊の愛称が公式に発表されている部隊でもある[4]。 1994年10月1日、第4航空団に、当時の次期T-4ブルーインパルスとして臨時第11飛行隊を新編。翌年1995年の12月22日に「臨時」が取れ、第11飛行隊として編成された。

ブルーインパルスはこの第11飛行隊としての独立・展示飛行専任部隊化とともに、部隊の1セクションという足かせが外されることとなった。他の部隊並みの人事権が与えられたほか、非常に制限された訓練空域[5]を除けば諸外国の曲技飛行チーム並みの設備が整備されることとなり、松島基地内のアラートハンガー跡地に隊舎、ハンガーエプロンが設置された。

[編集] 創造への挑戦

部隊の標語は「創造への挑戦(Challenge for the Creation.)」。これはブルーインパルス史上最長のメンバー歴を誇る塩澤信行2等空佐(2005年現在)が、T-4準備班長の時代に掲げた言葉であり、今も連綿と受け継がれている。 またT-4ブルーインパルスの歴代飛行隊長は隊を去る際、言葉を残していく慣例がある。初代田中光信隊長「魅」、第2代阿部英彦隊長「爽」、第3代塩澤信行隊長「夢・感動」、第4代渡邉弘隊長は「風」、第5代西村弘文隊長は「墨」、第6代倉田裕隊長は「道」、そして第7代山口英章隊長は「心」である。

[編集] 歴代運用機

臨時第11飛行隊編成前の歴代運用機は歴代使用機体の節を参照のこと。

  • T-4(1994年- )戦技研究仕様機のほかに支援用として通常型のT-4を運用している。

[編集] 歴代使用機体

[編集] F-86F 1960年 - 1981年

横田基地でのブルーインパルス(1981年)
浜松広報館のブルーインパルスF-86F(02-7966)

初代機体F-86Fは、航空自衛隊創設に当たり、アメリカから供与された当時の主力戦闘機である。東京オリンピックの開会式で五輪の輪、大阪万博開会式で EXPO70 の文字を空に描いたことなどで知られる。22年間に545回の公式展示飛行を行った。

当時は訓練空域が今ほど飛行場から遠くはなく、錬度の確保が行いやすかった。そのため演技の精度は高く、さらに規制も緩やかだったために「草をぶっちぎる」といわれるほど高度が低かった。

あまりの低空で後方の観客は演技が見られないうえ、エンジンの爆音が機体の後ろから必死に追いかけてくるほど速い亜音速での全力単独超低空飛行や、上方空中開花の直後、急降下した4機が前後左右から超低空で会場に侵入し同時に至近距離で上下左右に交差する演技、パイロットの度胸を見せ付ける超低空での背面単独飛行など、今ではありえない連続技や度肝を抜く演技が多く、旧軍戦闘機パイロットの伝統を受け継ぐ凄まじい高錬度を観客に見せ付けた。観客から、自然に「最強(パイロット)!」との歓声が上がったのが、この時代のブルーインパルスの特徴であり、「これ以上はありえない」と多くの観客が思ったことが、F86ブルーインパルスが今や伝説の部隊となっている理由であろう。

主な改修点は機内燃料タンクの発煙油タンクへの転用、スモーク発生装置のエンジンノズル後方への設置。また一部の計器の配置変更や置き換えも行われている。使用しない機関銃の銃口はプラグで封鎖したが、機関銃自体は重心を取るためのバラストとしてそのまま残された。

当初はG制限が緩やかになることから展示飛行やその訓練ではドロップタンクをはずしていたが、燃料タンクの容量不足が問題化し、後に展示飛行でもドロップタンクを装着することとなった。

機体の塗装は、東宝映画『今日もわれ大空にあり』への撮影協力をきっかけに東宝デザイナーが担当することとなったものが良く知られる。それ以前には、一般機とほぼ同じ「無塗装」、部内公募された金属の地肌に青とピンクと白の斜ストライプ・編隊長機のみ金とピンクと白の「旧塗装」、新塗装の原案にあたる「試験塗装」があった。

F-86F時代の使用機体は全機改修にて取得されており、ブルーインパルス向けとして新造された機体は存在しない。 原則として浜松基地に配備されていた機体の中から機銃の命中精度が悪い、オーバーGを経験しておらずアライメントの変化による変な癖を持っていない、などの条件がそろった機体を選び出し改修していた。 使用された計34機のうち、ブルーインパルス所属のまま事故で失われたのは4機。そのうちの一機はブルーインパルスとは関係のない学生訓練中に発生した空中接触事故で失われている。 この34機の中には米軍からの供与機も含まれており、それらの機体は引退後米軍に返還されている。そして無人標的機QF-86Fに改造されてミサイル実験の標的となり、空に散った。

現在02-7966号機と02-7960号機が浜松広報館に保存されている。また、ブルーインパルスに所属した履歴のある12-7995号機が浜松基地北門前にモニュメントとして保存されているが、記入されているシリアルナンバーは既にスクラップとなっている#929号機のものである。 春日基地に保存されている#777号機(82-7777)は、カラーリングを「ブルーインパルス」風に塗装してあるだけで、ブルーインパルスに所属した事はない。 河口湖自動車博物館にも個人収蔵のブルーインパルス塗装02-7960号機が展示されているが、前記の通り本物の02-7960号機は浜松広報館に館内展示されており、河口湖自動車博物館の機体の本来のシリアルナンバーは02-7962である[6]

[編集] T-2 1982年 - 1995年

ブルーインパルスT-2(#111)、トーチングでの離陸

2代目機体T-2は、国産初の超音速高等練習機。運用機は戦技研究用機と呼ばれた。 離陸時にアフターバーナーを使用してスモークオイルに点火する「トーチング」[7]や長い助走を使った力強い演技が売り。5番機による「単独機最大能力旋回」は、その音と動きが特にダイナミックだった。 T-2時代末期の1994年には三沢基地航空祭でアメリカ空軍の「サンダーバーズ」との競演も果たしている。事故による中断も挟み、14年間に175回の公式展示飛行を行った。

超音速機であり翼面荷重が大きく、またエンジン推力が比較的少ないため高機動を行うと速度低下が著しく、課目間のつなぎのための旋回(プロシージャーターン)がF-86F時代に比べてどうしても大きくなってしまうことにより、演技に間延びした感が出てしまうのは致し方ないことだった。この間延び対策のためにF-86F時代の標準だった5機編隊にソロを一機加えた6機編隊へと変更された。

改修点は、アクロバット飛行用に胴体内の第7タンクをスモークオイル用に転用したスモーク発生装置、非力なためフルスロットルでなくともアフターバーナーを使用可能にするパート・スロットル・アフターバーナー(PTA)は右エンジンも使用するとスモークオイルが完全燃焼してしまうため左エンジンのみ使用可能とするスイッチを追加装備、コックピットへの握り手の追加、一部計器の配置や仕様の変更、スモークオイル残量計の追加などである。また初期にはブルー仕様機は、後期型でも通常の前期型同様に機銃の代わりにバラストを搭載していたが、機体を学生教育に使用する際に支障が出たために、のちに機銃を搭載することとなった。

また後期には尾翼にポジションナンバーを書くようになり、T-2を母体として開発されたF-1支援戦闘機からのフィードバックとしてバードストライク対策がなされた一体型風防も装備された。

T-2時代の使用機体は、新造機として取得された#172~177号機のほか、通常のT-2として納入されたものから改修された#111、112、128、163号機もあった。使用されたのは10機で、1981年に8機受領、のち2機補充。事故により#174、112、172号機の3機を失っている。

解散直後にそのまま退役した#111号機と飛行開発実験団で運用されることとなった#163号機を除き、戦技研究班解散後に入ったIRAN(定期修理)で通常のT-2とほぼ同じ仕様に改修され、単にブルーインパルス塗装のT-2となった。現在、全機退役し、浜松広報館に#111号機、石川県立航空プラザに#163号機、かかみがはら航空宇宙科学博物館に#173号機、宮城県東松島市旧桃生郡矢本町)JR仙石線鹿妻駅前に#128号機、百里基地に#175号機、青森県立三沢航空科学館に#177号機がそれぞれ展示されている。

[編集] T-4 1996年-

ブルーインパルス T-4(2004年 千歳基地航空祭)

3代目機体T-4は、「ドルフィン」の愛称で親しまれる国産中等練習機(そのため、T-4ブルーのパイロットは「ドルフィンライダー」とも呼ばれている)。現在運用している機体で、長野オリンピックの開会式に会場上空にて展示飛行をした。1997年にはアメリカ遠征も行い、サンダーバーズと2度目の競演も果たしている。なお、後記の問題を解決するために、飛行隊の一部門から独立部隊への格上げが行われ、正式な組織名が『第4航空団 第11飛行隊』となっている。

翼面荷重が小さく、エンジン推力比も大きいため「360°ループ」のような高Gの連続課目や「バーティカルキューバンエイト」のような垂直系の高負荷課目が余裕を持って出来るようになった。 運用する機体は、戦技研究仕様機とよばれ、発煙装置とその関連装備、強化型風防をはじめとしたバードストライク対策、低高度警報装置などの他、新たにラダーリミッタの制御プログラムがアクロ専用として変更され、高速域での制限最大作動角を5度から10度に増大している。このためF-86FやT-2時代と違い原則として通常のT-4で訓練することがなくなった。また、通常のT-4も同様に緊急時は操縦桿のボタン操作により15度まで拡張可能である。

機体性能を生かした高機動課目と日本人らしい緻密さを持ち味にした課目が高い次元で融合し、オリジナル課目として5機で星(☆)の形を描く「スタークロス」がある。T-2以降、機体のカラーデザインは一般公募されており、T-2は(松本零士らによって大胆な変更が加えられたものの)女子高生4人のグループによるデザイン、T-4は斎藤茂太の子でモデラーやF-4のファンとして知られる精神科医の斎藤章二によるものが採用されている。

現在までのところ、#720、725~731、745、804、805号機の運用しているT-4は全機新造機として取得されているが、機体の疲労度の再評価プログラムが行われており、今後他の部隊と同じ仕様へと改修を施した上で、機体の入れ替えが行われる可能性もある。

なお、2003年度の防衛予算案でブルーインパルス仕様としてF-2A/B・計11機が計上されたが、"時期尚早"として却下されている。

[編集] アクロバット飛行隊の問題と解決

1960年に誕生した「ブルーインパルス」は発足当初、航空自衛隊のパイロットの絶対数が不足していたなどの事情によって、部隊としてではなく、飛行隊内における飛行戦闘技術の研究開発を行うセクションという現業的な名目で編成され、操縦課程訓練で若いパイロットを育成する教官が展示飛行要員として任務を兼任していた。この形態は1995年の第21飛行隊戦技研究班(T-2ブルーインパルス)解散まで約35年間続く。しかしパイロットの負担が大きく、在任期間が長期化する[8]、など人事面での問題点が多かった。

このためT-4に機種更新する過程において「展示飛行専門の飛行隊を立ち上げ、パイロットの任期を通常の3年に戻す。なおかつ3年間アクロ専任とすることでパイロットの負担を軽減する」措置がとられた。このローテーションは2000年に墜落事故の影響により一時的な変更があったものの、2002年までには元の体制に戻っている。

任期の3年の内訳は簡潔に表すと、次のとおり。

1年目 TR(訓練待機)として演技を修得する。展示飛行時にはナレーションを担当、もしくは後席に搭乗する。
2年目 OR(任務待機)として展示飛行を行う。
3年目 ORとして展示飛行を行いつつ、担当ポジションの教官としてTRメンバーに演技を教育する。

ORとTRは各機毎に固定でいわば徒弟制が採られており、たとえ隊長である一番機パイロットであっても、新入隊員が一年のTRを経て務める事になる。

ブルーインパルスへの異動は「本人の希望による異動」と「命令による異動」があるが、たとえ本人の意思に反した異動の場合でも、次の異動が近づくと「もっとアクロバット飛行をやっていたい」と言い、戦闘飛行隊(TAC)復帰後も編隊飛行の技量が著しく向上しているなど操縦技術がさらに磨かれている場合が多いそうである。

[編集] 沿革

  • 1958年(昭和33年)
    • 10月19日 浜松基地開庁祭でF-86Fによる曲技飛行を行う。日本における初めてのジェット機による公開宙返り。
  • 1960年(昭和35年)
    • 3月4日 浜松北基地で第一回の初公式展示。空幕幹部に向けた部内飛行で、正式発足前だったものの第一回としてカウントされ、16科目におよぶ展示飛行を実施。
    • 4月12日 浜松第1航空団第2飛行隊内に「空中機動研究班」としてアクロチームが誕生。
    • 5月21日 5回目の展示飛行。ジョンソン基地(現在の入間基地)にて行われた3軍記念日において初めてスモークを使用した展示飛行を実施。
    • 8月1日「特別飛行研究班」に改称。
  • 1961年(昭和36年)
    • 7月21日 伊良湖畔沖における訓練中に初めてのアクシデント。
    • 10月22日 カラースモークを初めて使用。
  • 1963年(昭和38年)
    • 10月5日 美保基地での展示飛行において、新塗装機の初披露。
  • 1964年(昭和39年)
  • 1965年(昭和40年)
    • 11月20日 第2飛行隊の解散に伴い第1航空団第1飛行隊の指揮下に入り「戦技研究班」と改称。
    • 11月24日 テイクオフ・ロール事故を起こす。
  • 1970年(昭和45年)
  • 1979年(昭和54年)
    • 4月1日F-86Fによるパイロット教育終了に伴い第1飛行隊解散。それに伴い戦技研究班は第1航空団第35飛行隊の指揮下に入る。
  • 1981年(昭和56年)
    • 2月8日 入間基地で『F-86Fブルーインパルス最終飛行展示』を行う[10]
    • 3月3日 浜松基地上空で「F-86Fブルーインパルス」最後の訓練飛行(最終アクロ訓練)を行う。
    • 3月31日 第35飛行隊・戦技研究班(F-86Fブルーインパルス)解散。
  • 1982年(昭和57年)
    • 1月12日 松島基地第4航空団第21飛行隊内に「戦技研究班(T-2ブルーインパルス)」新編。
    • 7月25日 松島基地航空祭で「T-2ブルーインパルス」最初の公式飛行展示を行う。悪天候のため「航過飛行」のみ。
    • 8月8日 千歳基地航空祭で「T-2ブルーインパルス」最初の第1区分公式飛行展示(フル演技)を行う。
    • 11月14日 浜松基地航空祭で「下向き空中開花」を演技中に4番機がホンダ・エクスプレス(現:ホンダロジスティクス)敷地内のモータープール(完成車両の出荷前集積場)に墜落。パイロット1名が殉職、周辺住民12名の負傷者を出す大事故を起こす[11][12][13][14]
  • 1983年(昭和58年)
  • 1984年(昭和59年)
    • 7月29日 松島基地航空祭で曲技飛行を含む展示飛行を5機で再開する。
  • 1990年(平成2年)
  • 1991年(平成3年)
    • 6月 次期(三代目)ブルーインパルス使用機材にT-4を選定。
    • 7月4日 金華山沖での飛行訓練中に2機が墜落、パイロット2名が殉職。この年の展示飛行を中止する。
  • 1992年(平成4年)
    • 8月23日 松島基地航空祭で水平区分系のみで展示飛行を4機で再開する。
    • 10月 第21飛行隊内に「T-4準備班」発足。
  • 1993年(平成5年)
    • 8月 展示飛行にソロ1機を追加、5機体制で展示飛行を行う。
  • 1994年(平成6年)
    • 8月7日 千歳基地航空祭より6機体制になる。
    • 8月10日 米空軍アクロバットチームサンダーバーズ三沢基地航空祭で競演[16][17]
    • 8月11日 第4航空団にT-4アクロ(T-4ブルーインパルス)仕様1号機(46-5720)納入。
    • 8月21日 松島基地航空祭で「T-4ブルーインパルス」機、一般に初披露される[18]
    • 10月1日 第4航空団第21飛行隊内「T-4準備班」を昇格させる形で「臨時第11飛行隊」に新編。
    • 同日10月1日 百里基地で『航空自衛隊創設40周年記念行事』を兼ねた「1994年航空訓練展示」でT-4ブルー機展示、1機(726号機)地上展示、2機(720号機・725号機)が、飛行展示を行う[19]
T-4・F-86F・T-2ブルーインパルス(百里基地、1995年11月12日)

[編集] 展示飛行課目(T-4、2008年現在)

ブルーインパルスの展示飛行は通常6機で約30分間行われる。1番機から4番機までは基本的に編隊を組んで(集団で)飛行し、5番機・6番機がソロを担当する。もちろん6機揃った演技も多数ある。

課目は、第1区分から第4区分まで4パターンあり、天候や地形の条件によりその都度選択され、展示飛行中の気象の変化や残燃料等により、随時変更がなされることがある。基本的に飛行場のある空自基地上空(鹿屋、岩国等一部の米軍、海自基地飛行場も含む)ではアクロバット飛行を行うが、民間飛行場やイベント会場、陸自駐屯地等それ以外の場所での展示飛行は近隣の空自基地から飛来するリモート形式となり、水平系の機動課目を組み入れた編隊連携機動飛行かフライバイ中心の編隊航過飛行を行う。 かつては、飛行展示の前に斎藤高順・作曲の行進曲「ブルーインパルス」がBGMで流されていた。


第1区分(第2区分)

  1. ダイヤモンド・テイクオフ・ダーティーターン
  2. ローアングル・キューバン・テイクオフ
  3. ロールオン・テイクオフ
  4. ファン・ブレイク
  5. 4ポイント・ロール
  6. チェンジ・オーバー・ターン
  7. インバーテッド&コンティニュアス・ロール
  8. レイン・フォール
  9. バーティカル・クライム・ロール
  10. スロー・ロール
  11. チェンジ・オーバー・ループ
  12. ハーフ・スロー・ロール
  13. レター・8
  14. オポジット・コンティニュアス・ロール
  15. 4(3)・シップ・インバート
  16. キューピッド
  17. ラインアブレスト・ロール
  18. 360°&ループ
  19. ワイド・トゥー・デルタ・ループ
  20. デルタ・ロール
  21. デルタ・ループ
  22. ボントン・ロール
  23. バーティカル・キューバン8(キューバン8)
  24. スター&クロス
  25. タッククロスI
  26. ローリング・コンバット・ピッチ
  27. コーク・スクリュー

第3区分(第4区分)

  1. ダイヤモンド・テイクオフ・ダーティーターン
  2. ローアングル・キューバン・テイクオフ
  3. ロールオン・テイクオフ
  4. ファン・ブレイク
  5. 4ポイント・ロール
  6. チェンジ・オーバー・ターン
  7. インバーテッド&コンティニュアス・ロール
  8. レベル・オープナー(2010年度はサンライズを実施)
  9. インバーテッド・ロール
  10. スター・ロール
  11. レター8
  12. ハーフ・スロー・ロール
  13. トレール・トゥー・ダイアモンド・ロール
  14. オポジット・コンティニュアス・ロール
  15. 4(3)シップ・インパート
  16. キューピッド
  17. ロール・バック・トゥー・アローヘッド
  18. オポジット・トライアングル
  19. デルタ360°ターン
  20. ボントン・ロール
  21. サクラ
  22. タック・クロスI(II)
  23. ローリング・コンバット・ピッチ
  24. コーク・スクリュー

ローリング・コンバット・ピッチはF-86Fブルーインパルス以来引き継がれ、またT-4では戦技研究の段階でこれだけは行うことが決まっていた、という伝統的な課目だが、ローリングの仕方等微妙な違いがある。

またブルーのオリジナル課目であるスタークロスは97年アメリカ空軍ネリス基地で行われた「ゴールデン・エアタトゥー」で披露された際にアメリカ、カナダ、ブラジル、チリの他4ヶ国のアクロチームから好評を受け、その後チリ空軍のチームであるアルコネスに採用されたというエピソードもある。

デルタ・ロール&ボントン・ロールは、2004年に初めて公開された新課目である。なお同時に披露された新課目サクラ、オポジット・トライアングルは、現在第3(4)区分に含まれている。

そして2010年はブルーインパルス創設50年を記念して、新たにサンライズ、カリプソ、バックトゥバック、ダブルロールバックの4課目が行われた。

[編集] 展示飛行使用曲 

  • フロンティア・ファンタジー MALTA作曲
  • The Simmer of the Air 矢部政男作曲、ウォークダウン時に使用
  • Dolphin in the Sky 矢部政男作曲、離陸時に使用
  • Speed Of Light Joe Satriani
  • OMENS OF LOVE T-Square デルタロール・デルタループに使用
  • The Right Stuff ライトスタッフ ローリング・コンバットピッチ・コークスクリュー・着陸時に使用

[編集] 脚注

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  1. ^ 浜松基地第1航空団第2飛行隊所属時代のコールサインは「インパルス」。さらに小規模の編隊にはカラーコードが付けられ、アクロ編隊には決まって「ブルー」が与えられていたため「インパルス・ブルー」と呼ばれていた。
  2. ^ 訓練時は現在も「インパルス・ブルー」を使用する
  3. ^ 当時編隊長だった稲田淳美3佐は、愛称をコールサインのまま「インパルス・ブルー」にするか「ブルーインパルス」にするか悩んでいた。その時、呉市出身で広島に投下された原爆を呉から山越しに見た奥さんから「もし衝撃的というのなら、その結果があまりにも悲惨ではあるけれど、原爆のあの青い閃光の衝撃ほど強烈なものはない」と言われ、この言葉が決め手になったという。(武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』100頁より)
  4. ^ 部隊マークの中に飛行隊のコールサインが含まれるほか、[展示飛行の際の会場アナウンスや航空自衛隊のウェブサイトなどでブルーインパルスの正式名称が第11飛行隊であることがアナウンスされている。
  5. ^ 訓練空域は現在、第11飛行隊に対しては太平洋上に金華山を中心とする扇型の空域が割り当てられているが、シーフォグが発生するなど必ずしも訓練に適した環境ではない。さらに2000年の事故以降はその対策として最低高度と曲技飛行自粛区域が設けられ、実質訓練空域が狭くなった。また対地感覚を養おうにもホームベースの松島基地上空は他の部隊の都合もあり、週に3回曲技を行えれば良い方である。そのため、砂漠の中心に専用のエリアを割り当てられ状況さえ許せば常にフィールドトレーニングを行えるサンダーバーズなど、他国の曲技飛行チームと比べると訓練環境では劣る。
  6. ^ JARG(日本航空機研究会)発行のシリアルリスト2001年版による。なお、#962号機はブルーインパルスに所属したことのある機体である。
  7. ^ スモークオイルを噴出しないでアフターバーナーを使用するとスモーク発生装置のノズルが溶解してしまうために取られた措置であったが、トーチングが好評だったために装置の改修などは最後まで行われなかった。
  8. ^ 通常、部隊での任期は3年が標準だが、F-86/T-2時代は平均して5-6年、最も所属歴の長いパイロットは10年近く所属していた
  9. ^ 「五輪」カラーの中で黒色のスモークだけがうまく出来ず、完成したのが開会式10日前の10月1日だった。
  10. ^ 通算総展示飛行回数は午前544回、午後545回。午前は浜松でしか見られなかった6機編隊を、午後は浜松以外の基地で飛行する5機編隊で披露した。同日午後のF86Fブルーインパルス最終展示飛行前にはT-2ブルーがノーマル仕様機で百里基地より展示飛行を披露。
  11. ^ この年の展示飛行は中止され、以後演目から「下向き空中開花」が削除された。現在のT-4ブルーにおいて採用されている「レインフォール」はこの演技をモチーフにしたのみで、180度ロールがないなど全く別物の演技である。
  12. ^ この演技は4番機のみ引き起こしの直前に180度ロールを加えるもので、当日はループの頂点がいつもより低くなってしまったこと、またリーダー機の指示が約3秒遅れたことにより作業の多い4番機の引き起こしが間に合わなくなったことによる事故であった。それらの手順実施に伴う高度損失の可能性は前年の練習時から発覚しており、リーダーの指示が遅れた場合は4番機は自己判断で180度ロールを省略してリーダー機に追従して良いことになっていたが、このパイロットは事前より頑なにそれを拒み、機長の指示の遵守を宣言、渋々合意書へのサインが全パイロット中最後であったという(武田頼政著「ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち」より)。結果、この時4番機は機体を引き起こしたものの、上昇までに至らず墜落した(事故調査の結果、墜落せず上昇するためには約0.7秒遅かった)。
  13. ^ 4番機の本来のルートの延長線上には住宅地や行楽シーズンで混雑する東名高速道路が横切るなど、実際の墜落現場に落ちなければ被害がより甚大になっていたことからパイロットはとっさの判断で墜落場所を選んだのではとも言われているが、フライトデータレコーダーが搭載されていなかったこの機体の墜落に至るまでの状態は分析不可能であり、事故当時、機体がどのような状態で、それに対しどのような判断・操作をしたのかは操縦していた本人にしか分かり得ないのが実状である。
  14. ^ この事故で損傷した車両は、後に防衛庁が全て買い取ったと言われている。
  15. ^ 展開基地は小牧基地で9機を使い描いた。
  16. ^ この年の三沢基地航空祭は当初9月15日(祝)に開催の予定だったが『サンダーバーズ』の「パシィフィック・ツアー」に合わせて約1ヶ月早められた。ブルーインパルスは千歳基地航空祭終了後、松島基地へ帰らずに直接千歳から三沢へ移動、8月10日航空祭終了後に松島へ帰投した。当日は平日だったにも関わらず約4万人の観客が訪れた。
  17. ^ この時、T-2ブルーのメンバーが左肩にしていた「共演記念パッチワッペン)」は、サンダーバーズ側の許可を得ないで製作してしまった逸話がある。
  18. ^ この時、T-4ブルー原案イラストをデザインした斎藤章二がT-4ブルー機披露式典に招待され、同機で体験搭乗をした。
  19. ^ T-4ブルー機は「研究飛行」との名目で航過系、水平系演技を実施。
  20. ^ 「T-4ブルーインパルス」は当時臨時第11飛行隊として白スモークを使い「研究飛行」との名目で水平飛行系を中心に編隊連携機動飛行展示を実施、「ブルーインパルスジュニア」も公開された。
  21. ^ 浜松基地から「F-86Fブルーインパルス」使用機の02-7960号機をトラックによる陸送で運び、T-2ブルー機とT-4ブルー機の間に展示した。
  22. ^ 通算総展示飛行回数175回。なお、1982年11月14日の墜落事故後の浜松基地航空祭では「宙返り飛行系演技」と「背面飛行系演技」が全面禁止され、「浜松スペシャル」と題した「水平飛行系演技」のみとされており、この最終飛行展示も例外扱いはされず、「水平飛行系演技」のみで締めくくられた。「宙返り飛行系演技」・「背面飛行系演技」が全面解禁されたのは1999年11月14日の浜松基地航空祭から。
  23. ^ 当初は翌週12月10日に開催される那覇基地航空祭で『T-2ブルーインパルス最終飛行展示』で締めくくる予定だったが、米軍兵による少女暴行事件で沖縄県民感情が悪化したためキャンセルされた。
  24. ^ 松島基地外柵のポイントに居たギャラリーを基地内に招き入れ、「T-4ブルーインパルス」が前座で飛行展示(研究飛行)を行い、非公式ながら小規模の航空祭が行われた。最終訓練終了後、「T-2ブルーインパルス」最終メンバーに第三賞状が贈られた。
  25. ^ この年は「T-2ブルーインパルス」最後の年だった事から、最後の花道として滋賀県彦根市琵琶湖で行われる「鳥人間コンテスト選手権大会」や三重県鈴鹿サーキット」で開催される「F1日本グランプリ」でのフライバイ要請があったが、スケジュールの都合により断念した。また「T-2ブルーインパルス」も『F-86Fブルーインパルス最終飛行展示』のように入間基地で盛大に行う事も検討されたが結局実現には至らなかった。
  26. ^ なお、前日に慣熟飛行を行った際、飛行音に市民が驚き、市に苦情が舞い込むという珍事が起きた。慣熟飛行当日は熊本県内に光化学スモッグが発生しており、機体が見えにくかったことも原因とされる。
  27. ^ この時の展示飛行中に6番機にバードストライクが発生して緊急着陸。不完全燃焼の展示飛行となってしまった。
  28. ^ “F2支援戦闘機など全滅…空自松島基地”. 読売新聞. (2011年3月17日). http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110317-OYT1T00229.htm 2011年3月17日閲覧。 
  29. ^ “ブルーインパルス、松島の空に戻る : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)”. 読売新聞. (2011年8月20日). http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110820-OYT1T00628.htm 2011年8月20日閲覧。 

[編集] 参考文献

  • 航空ファン イラストレイテッド』96-2 No86 「BLUE IMPULSE F-86, T-2, T-4【青い衝撃の歴史】」文林堂
  • 武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』文藝春秋、2011年

[編集] 関連音楽

  • The Simmer of the Air :矢部政男作曲、ウォークダウン時に使用
  • Dolphin in the Sky :矢部政男作曲、離陸時に使用
  • ブルー・インパルス(青い衝撃):斉藤高順作曲、T-2時代のテーマ曲
  • 航空自衛隊行進曲「空の精鋭」:矢部政男作曲
  • BLUE(ブルー):吉永光里、T-2ブルーインパルス イメージソング
  • STAY(ステイ):吉永光里、T-2ブルーインパルス イメージソング
  • PARADISE(パラダイス):吉永光里、T-4ブルーインパルス イメージソング
  • 白いMY LOVE:吉永光里、T-4ブルーインパルス イメージソング
  • ブルーインパルス賛歌:矢部政男作曲、ブルーインパルス創立50周年記念ソング

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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