書院造
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書院造(しょいんづくり)は、日本の室町時代中期以降に成立した住宅の様式である。その後の和風住宅は、広い意味で書院造の強い影響を受けている。
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[編集] 概要
書院造は、一般的には、床の間などのある座敷を指すことがあるが、厳密には、武家住宅の建物全体の様式のことである。しかし、建築様式としての定義は定まっていない。
藤田盟児(広島国際大学教授)は書籍[1]において幾つかの説から、建物の内部を引き戸建具や壁で幾つかに仕切り、天井を張り、床の間(または押板)、違い棚、付書院などの座敷飾りを客間に備え、敷地を含み客を迎え入れるところと、主人とその家族が普段の生活をするところに分けられているもの、構造としては、角柱に貫や桁、長押などの角材を用いた軸組構造のものと解釈している。
今日の宴席では、しばしば床の間の位置によって「上座(かみざ)」「下座(しもざ)」などと座席位置が決められることがあるが、これは床の間との位置関係が身分序列の確認を促す役割を果たしていたことを示していると言えよう。
書院はまた、押板(床の間の前身)や違い棚は、書画、置物などを飾る場所として造られてきた。
[編集] 歴史
[編集] 鎌倉・南北朝時代
13世紀中期、鎌倉時代に家臣が主君を迎え入れる空間が必要であったことから、客を迎え入れるための建物と普段生活する建物とに分けられるようになったとされる。これは、1236年(嘉禎2年)に執権北条泰時が将軍の御成のために寝殿を建てたことが初見と考えられている[1]。 鎌倉幕府の御所では、表に儀式用に用いられた寝殿と、客と対面するために用いられた「小御所(こごしょ)」、奥に、常御所(つねのごしょ)という生活用の建物があったという。その後、付書院や違い棚などは南北朝時代に発生する。書院はもともと禅僧が書を読むために室内からはり出し、当初は「出文机(だしふづくえ)」という出窓のように付けられた机で、机の背後に明かり障子などを設けたものあったが、南北朝時代に飾り棚として用いられ、「書院」と呼ばれるようになった[1]。
[編集] 室町・安土桃山時代
室町時代に北山文化が発生し、客間として用いられた「会所(かいしょ)」などに座敷飾りが造られるようになり、そうした会所が東山文化で、茶道、華道、芸能など日常生活の芸術とともに発展した。この頃の会所の現存例には、足利義政が慈照寺(銀閣寺)の東求堂(1485年(文明17年))に造った、書斎の「同仁斎」があげられる。これは四畳半の小さな一間であるが、付書院と棚を備え、畳を敷き詰めたものである。
室町時代後期には、寺院の書院や武家住宅に押板や棚、書院を備えるものが造られるようになり、次第に書院造の形式が整えられていった。
近世、織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城や聚楽第の御殿の壁や襖障子には狩野派の絵師により金碧濃彩の障壁画が描かれ、権力者の威勢を示すものであった。いずれも現存しないが1603年(慶長8年)に3代将軍徳川家光によって建てられた二条城の二の丸御殿大広間は、同様の障壁画を持つ書院造の現存例である。これは将軍が対面を行う場所であり、また、将軍、諸大名の席次が厳格に定められている。将軍の座る上座は押板、棚、書院、帳台構(武者隠し)によって荘厳されており、また下手から見ると床面が徐々に高くなり、上座は折上格天井という格式の高い造りになっている。
[編集] 江戸・明治時代
江戸時代には室町中期に発生した茶室建築に書院造の要素を取り入れた数奇屋風書院造が造り出された。 庶民の住宅においても、名主相当の有力者の場合、代官を自宅に迎えるため、接客用の土地や部屋に書院造の要素である長押や、床の間、書院などの座敷飾りが取り入れられた。明治以降には、庶民住宅にも取り入れられたが、それでも、床の間のある座敷は一種特別な部屋であり、家主の家族であっても普段は立ち入れない場所であることがあった。
[編集] 書院造の例
- 初期書院造
- 慈照寺東求堂
- 書院造の完成

