内裏

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内裏(だいり)とは、古代都城宮城における天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などの異称がある。都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)[1]があり、宮城内部に 天皇の私的な在所である内裏があった。

平安京の内裏[編集]

平安京内裏図

平安京の北辺には宮城である平安宮(大内裏)があり、その内部の中央東寄りに南北約300m、東西約200mの内裏が存在した。その場所は、現在の京都市上京区下立売通土屋町の付近である。内裏は、宮城の中央政庁である「朝堂院」の北側に位置し、周囲を築地に囲まれ、その内部は北側に後宮、南側に天皇の政務所である紫宸殿や日常生活の中心地である清涼殿などがあった。

平安京内裏は天徳4年9月23日960年10月16日)の火災で全焼したあと、幾度も火災に見舞われ[2]、やがて里内裏が現れてくると天皇はもっぱらそちらに常住するようになり、内裏の意義は低下してくる[3]。平安宮の内裏は鎌倉時代に焼亡したのち再建されることはなく、南北朝以後は内裏の東に位置する里内裏であった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が御所となり、近世になってその内域に紫宸殿、清涼殿などが復元された。現在の京都御所がこれである。

脚注[編集]

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  1. ^ 中国では宮城は皇帝の政務エリア、皇城は官庁エリアとされていたが、日本では特に区別せず同じものとしている。
  2. ^ 平安遷都以来一度も焼失しなかった内裏が天徳4年以後度々火災で焼失するようになった原因としては、放火説や近衛府などによる消火機能の低下説などが言われているが、上島享は最大の原因として、この前後より朝廷の公事や儀式が行われる時間が早朝から深夜に移行していったことが内裏内での火の使用を増やして、結果的に火災の原因となったとする説を出している。なお、上島はほぼ同じ時期に寺院においても儀式の夜間移行と火災増加が増加していることも指摘している。(上島享「大規模造営の時代」『日本中世社会の形成と王権』(名古屋大学出版会、2010年) ISBN 978-4-8158-0635-4 (原論文発表は2006年))。
  3. ^ 佐々木文昭一条天皇以後、火災後に再建された内裏には当代の天皇は入らずに里内裏に滞在し続け、次代の天皇に新造のまま引き渡して(再建されていない場合には即位後最初の事業として内裏を造営して)代始における徳政の象徴とする慣例が生まれたとする説を提示している(佐々木文昭『中世公武新制の研究』(吉川弘文館、2008年) ISBN 978-4-642-02877-6 P60-66)。

関連項目[編集]