朝廷
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朝廷(ちょうてい)とは、前近代における、天子(国王、皇帝、天皇)を中心とする官僚組織をともなった政府および政権。また、天子が政治を行う場所としての廟堂、朝堂(朝政と朝儀の場)。日本において「朝堂政治」が開始されたのは推古天皇の時代をはじまりとしている[1]。
中国史においては、国家的行事や儀式の場を外朝、王宮で暮らす人々の生活の場を内廷もしくは内朝として区別することが多い。
日本においては、朝堂院が即位・朝賀などの国儀大礼や庶政をおこなう国家の正庁であり、その規模の明確なものでは藤原宮の朝堂院が最古であるが、推古朝の小墾田宮の朝庭には、すでにその原型がみられる。
日本では、天皇が政務を執る場所が天皇の私的なすまいである内裏にうつってからも、「朝廷」の呼称が用い続けられた。平安時代、朝堂院は876年(貞観18年)、1058年(康平元年)に焼失し、そのたびに再建されたが1177年(安元3年)の安元の大火ののちは再建されなかった。こののち朝儀は主に内裏の紫宸殿でおこなわれることとなった[2]。日本ではこれ以降も、天子を長とする公家政権に対し朝廷の語が用いられた。
なお、朝廷の政務に関しては「政務としての公事」を参照のこと。
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[編集] 中国の朝廷
「zh:朝廷」も参照
中国の朝廷は、天子(始皇帝以前は王、始皇帝以後は皇帝)統治下の丞相を中心とする政府で、前漢代に丞相はじめ三公、大将軍、九卿、郡守などの官制が整えられ、隋代には科挙の制が採用されて、中央官庁として三省六部が整備された。また、外朝(国家的行事・儀式の場)と内廷(王宮で暮らす人びとの生活の場)の双方を往き来できる皇帝の側近として、去勢した男子による宦官が設けられた。宦官は、すでに春秋戦国時代にその嚆矢がみられる[3]。
中国においては、皇帝は建国者の男系子孫が代々これを継いだ。また、支配領域(天子の治める領域であるところから天下とよばれた)で内戦が起こり、その勝者が皇帝に対して禅譲を要求して新皇帝として即位し、国号を改めて勝者の子孫が皇帝となる場合があった(易姓革命)。それ以後は、前代同様、通常は新皇帝の直系男子に世襲される。中国においても帝位を簒奪することは不義不忠とされてきたが、易姓革命論によれば、天命を失えば、その王朝は滅亡し、他の血統の者が帝位に就くことが許容されたのである。
清朝においては、紫禁城のうち太和殿、中和殿、保和殿を「外朝三殿」(もしくは「前殿」)と称し、乾清宮、交泰殿、坤寧宮は「後三宮」と称し、後者が内廷(内朝)にあたった。
なお、宦官は、皇帝や諸官の奴隷ではあったが、外朝と内廷とを取り結ぶ役割を果たし、信用を得て主人の秘密を握ることも多かったため、宮廷内で暗躍して王朝の政治を左右することが多かった。なかでも、後漢、唐、明の3王朝は宦官の猖獗によって衰亡したといっても過言ではない。
[編集] 日本の朝廷
天子(大王・天皇)が政治をおこなっていた場所(朝庭、朝堂)。もしくはその政府・政権のことを指す。日本での天子号が使用された時期は不明であるが、厩戸王(聖徳太子)が「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と記した国書を隋の煬帝に送っていることから、推古朝には使用されていたと考えられている。これは天皇号が成立したと有力視されている天武朝以前であり、日本では王号の別号として天子の称号が使用されていた。
古墳時代から飛鳥時代にかけての畿内政権は、以前は「大和時代の朝廷」という意味合いで「大和朝廷」と呼称されてきたが、1970年以降、古墳時代の政治組織にかかわる研究の進展から、古墳時代に関しては「ヤマト政権」「ヤマト王権」と呼ばれることが多くなっており[4]、中学・高校の教科書で「大和朝廷」の表記は少なくなっている[5]。
このことについて、関和彦は、「朝廷」は「天皇の政治の場」であり、4世紀・5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し[6]、鬼頭清明もまた、一般向けの書物のなかで、磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、継体朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として「大和朝廷」の語は継体天皇以後に限って用いるべきと説明している[7]。そして、鬼頭自身は「大和朝廷」は欽明天皇を創始者とし、推古朝・乙巳の変前後までの政治形態であるとし、日本における「律令国家」成立の画期を白村江の戦いとしている[8]。
ヤマト王権による統一事業の進展によって、6世紀末から飛鳥[9]の地に大王の王宮がつぎつぎと建てられ、本格的な宮都が営まれる段階へと進んだ。7世紀にはいると位階制度として冠位十二階(603年)、官人の規範として憲法十七条(604年)が定められて、王権組織が再編成された。また、中央行政機構・地方組織[10]の編成が進められた。さらに、607年、隋に対しても従来の「倭国王」に代わり「日出づる処の天子」を主張した(『隋書』倭国伝)[11]。
宮城(のちの大内裏)の正庁たる朝堂院も、推古朝の小墾田宮の頃にその原型が見られる。『日本書紀』推古16年(608年)条に記載された、隋使裴世清が小墾田宮で天皇に来朝の挨拶をしたとされる朝庭と呼ばれる広場がそれである。吉村武彦は、これについて、「朝庭は、普通は『朝廷』の字を使うが、ここはのちの朝堂院にあたるスペースの中央広場であるから、『朝庭』の方が的確である」と述べている[12]。また、熊谷公男は、「左右対称の整然とした配置をとった『朝庭』を付設した宮は、小墾田宮がはじめてであった可能性が高い」としている[13]。こののち、多元的な君臣関係はしだいに解消、克服され、しだいに天子による一元的支配のしくみが整うこととなった。
およその規模が判明しているものでは前期難波宮跡(難波長柄豊碕宮)の朝堂院が古く、平城宮や平安宮の規模におとらない。また、ここでは朝堂の数が少なくとも14堂にもおよんでいること、朝堂各殿舎の規模はむしろ小規模ながら、「朝庭」がきわめて広大であることが特筆される。これについては、乙巳の変後の改新政府が、朝庭の場を、天つ神の世界に通じる、神聖で厳粛な場とみなし、一君万民の思想を鼓吹し、浸透させる空間としていたとする見解が少なくない[14][15]。
規模や内部の殿堂配置の明確な朝堂院では、持統朝の藤原宮朝堂院(694年)が最古である。朝堂院は、国家的行事や儀礼のほか、公卿が政務を評議して天皇が決裁する場であった。主として大極殿、朝堂、朝集殿の3種の殿舎から成り、大極殿はその正殿にあたる。平城宮、平安宮(大内裏)でも構成や配置、規模に大きな差はなかった[16]。
国号として「日本」、君主号として「天皇」を称する[17]ようになって以降、二官八省[18]の官僚制度が整えられて古代国家が完成した。古代から中世にかけて、天皇を中心とする官僚政治が維持されており、朝廷とは、天皇が政治をおこなっていた場所(朝堂)およびその政府を意味している。ただし、退位した天皇(上皇)が実権をもって一般政務を行う院政も、上皇が「天皇家の当主」である資格を正統性の根拠とする政権であり、広義には朝廷にふくめることが多い。また、近世にあっても天皇は将軍宣下など国政上の諸権能を有していた。
なお、中国の場合とは異なり、日本では、天皇の私的な住まいである内裏(御所)の七殿五舎(後宮)には宦官が置かれず、もっぱら女官によって秩序が維持され、国風文化の時代にはかな文字が生まれて、『源氏物語』など女流作家の手による宮廷文学がさかんであったことはよく知られる。
[編集] 朝政と朝儀
早朝、文武百官が朝堂に参列したうえで天皇が政務をみることを朝政(あさまつりごと)という。転じて、朝廷の政務一般を指す場合もあるが、その場合は「ちょうせい」と音読する。
朝儀とは、同じく朝堂において行われる、さまざまな公の儀式の総称であり、天皇即位儀、元日朝賀、任官、叙位、改元の宣詔、告朔などの朝拝を中心とする儀式と、節会や外国使への賜饗などの饗宴を中心とする儀式とがあった。
[編集] 朝廷と幕府
江戸時代、幕府に仕える儒者の中には征夷大将軍が主宰する政府である幕府についても「朝廷」と呼称し、将軍を「皇帝」と称した者もあった[要出典]。
今日において「朝廷」という言葉は「幕府」に対応する言葉としてよく使われるが、これは天皇・貴族(公家政権)と武家(武家政権)を対立した存在として捉えるようになった江戸時代以降の影響が強い。鎌倉時代、室町時代にあって征夷大将軍(公方)による政権は「幕府」と呼称されておらず、「武家政権=幕府」という用例は江戸幕府成立後のものである。元来「征夷大将軍」職は、令外官の一たる「朝廷における役職」であり、実態としても鎌倉幕府における摂家将軍や親王将軍、幕末期の大政委任論など、朝幕関係構築の前提として、「朝廷における幕府の立場」が常に念頭に置かれていた。武家政権(幕府)に対する公家政権(朝廷)という用法は近世もしくは近代の所産といえる。
幕末期の王政復古の大号令によって、幕府も含めた旧来の朝廷機構は事実上廃止され、こののち新政府によって近代国家の体裁が整えられていくこととなる(明治維新)。
[編集] 朝廷の分裂
壬申の乱の際、大海人皇子を中心とする飛鳥の朝廷と大友皇子を中心とする近江朝廷とが対立した。この内乱では飛鳥朝廷側が勝利し、大海人皇子は天武天皇として即位した。
また、建武新政ののち、朝廷は後醍醐天皇を奉じる大覚寺統の南朝(吉野朝廷)と、持明院統に属する光明天皇を擁して京都に所在した北朝とに分かれて対立した。ここでは、朝廷が2つに分立したことから、この時代を「南北朝時代」と呼んでいる。
さらに、薬子の変における嵯峨天皇と平城上皇の関係、また治承・寿永の乱終末期における安徳天皇と後鳥羽天皇の関係など、一君万民を建前とする朝廷からすれば異例の事態といえる。
[編集] 遠の朝廷
「大宰府」も参照
律令体制下の日本の地方制度は五畿七道と称される。七道のうち、東海道、東山道、北陸道、南海道、山陽道、山陰道はいずれも畿内5か国(五畿)に接していた。唯一、陸接していない西海道すなわち現在の九州地方には、中央からの出先機関として大宰府が置かれ、大陸との外交や軍事を主任務とし、筑前国司を兼帯するとともに西海道に属する諸国の人事・行政・司法の一部を総管した。その権限の大きさから「遠の朝廷(とおのみかど)」「西御門」と呼ばれた。
なお、大宰府跡の発掘調査により、大宰府政庁は、第1期(7世紀後半-8世紀初頭)、第2期(8世紀初頭-10世紀中葉)、第3期(10世紀中葉-12世紀)の3つの建て替え時期のあったことが判明した。そのうち、第2期と第3期では朝堂院形式が採用されており、条坊も整備されて、律令国家確立期にあたる8世紀初頭には、景観の上でも「遠の朝廷」と呼ぶにふさわしい状態となったことがわかる。
[編集] 脚注
- ^ 岸『日本の古代7 まつりごとの展開』「1 朝堂政治のはじまり」p.9-24
- ^ 『百錬抄』の記載による。
- ^ 斉の桓公の家臣豎刁が最初といわれる。
- ^ その成立時期について、白石太一郎は3世紀前半の「邪馬台国連合」とは一応区別して3世紀中葉以降に「初期ヤマト政権」が成立したとし、箸墓古墳(奈良県)・椿井大塚山古墳(京都府)など出現期の前方後円墳が畿内につくられた時期としている。白石『日本の時代史1 倭国誕生』序章「四-1 初期ヤマト王権の成立」p.69-79
- ^ 笹山晴生ほか『詳説日本史』(山川出版社)、江坂輝弥ほか『高等学校新日本史B』(桐原書店)、加藤友康ほか『高等学校日本史B 改訂版』(清水書院)などではいずれも「ヤマト政権」、大津透ほか『新日本史』(山川出版社)では「ヤマト(大和)政権」、尾藤正英ほか『新選日本史B』(東京書籍)では「大和王権」などの表現が採用されており、高校での「大和朝廷」の表記はなくなっている。
一方、2006年(平成18年)における中学校教科書における表記は、『わたしたちの中学社会 歴史的分野』(日本書籍新社)、藤岡信勝ほか『改訂版 新しい歴史教科書』(扶桑社)の教科書では「大和朝廷」の表現が採用されている。なお、仁藤敦史ほか『中学生の歴史 日本の歩みと世界の動き』(帝国書院)では「ヤマト王権」、大口勇次郎ほか『新中学校歴史 日本の歴史と世界』(清水書院)、大濱徹也『歴史 日本の歩みと世界』(日本文教出版・大阪書籍)、笹山晴生『歴史 未来を見つめて』(教育出版)では「大和政権」であった。
学習指導要領では2008年(平成20年)の中学校学習指導要領の改訂でも「大和朝廷」の用語はのこった([1])が、高校では従来「大和朝廷による国土統一」([2])の文言があったが、2009年(平成21年)告示の新学習指導要領では「大和朝廷」の用語は削除されている。 - ^ 関『争点日本の歴史2 古代編Ⅰ』「『ヤマト』王権の成立はいつか」p.53-54
- ^ 鬼頭『朝日百科 日本の歴史1 原始・古代』「大王と有力豪族」p.250脚注
- ^ 鬼頭『大和朝廷と東アジア』(1994)p.45-53,p.162-183
- ^ 飛鳥時代の大和朝廷について、吉田孝は、内つ国(畿内)の豪族層が大王(天皇)を核として結集した権力組織ととらえ、場合によっては大王が独裁的な行動に傾斜することは、大王ぬきに権力組織を構成することができなかった当時の状況と深い関連があると論じ、「現在の学術用語として『大和朝廷』を『大和王権』ともよぶのは、大王を核とする権力組織であることを重視するからである」と述べている。吉田『大系日本の歴史3 古代国家の歩み』「内乱の勝者」章p.131
- ^ 『隋書』によれば、7世紀の倭には中国の牧宰のような「軍尼」、里長のような「伊尼翼」などの地方組織があり、10伊尼翼が1軍尼に属していたという。「軍尼」はクニ(国)、「伊尼翼」はイナギ(稲城)であろうと推定される。
- ^ 隋の煬帝の不興をかったのが、本来、天の命令をうけて天下に一人しかいないはずの「天子」の称号を、倭国王が勝手に用いたためと理解されている。しかし、遣隋使は、5世紀代の倭の五王のように、中国の官職を求めるために派遣した使節ではなかった。608年の遣隋使が「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」ではじまる国書をたずさえたことを『日本書紀』は記載している。もとより後世の文飾である可能性もあるが、前年の遣隋使の国書にあった「日出づる処の天子」の文言が不評だったために外交上苦心して「天皇」号をつくり出した可能性も考えられる。
- ^ 吉村『集英社版日本の歴史3 古代王権の展開』「第4章 飛鳥の都」p.117
- ^ 熊谷『日本の歴史03 大王から天皇へ』「第4章 王権の転機」P.231
- ^ 熊谷『日本の歴史03 大王から天皇へ』「第5章 律令国家への歩み」P.275-276
- ^ 吉田『大系日本の歴史3 古代国家の歩み』
- ^ 規模の面では、大きい順に藤原宮、平城宮、平安宮であり、時代をくだるごとにやや小規模化する傾向があった。難波宮、恭仁宮、長岡宮には大極殿の記録はあるが、朝集殿(儀式などの際に諸官が待機する殿舎。東西2殿より成る)は確認されていない。
- ^ 天皇の称号が初めて用いられたのは、律令国家の成立同様、神格化の進んだ天武天皇のときからとする説が、最近では特に有力である。従来説は、『隋書』の記事や「天寿国繍帳」の銘文中に「天皇」号がみえることを根拠に、推古天皇のころと考えるものであるが、依然、一定の支持を得ている。他に、岡田英弘のように天智天皇のときからとする見解もある。
- ^ 二官とは神祇官と太政官、八省とは中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省を指す。
[編集] 出典
- 吉田孝『大系日本の歴史3 古代国家の歩み』小学館<小学館ライブラリー>、1992年10月20日。ISBN 4-09-461003-0
- 吉村武彦『集英社版日本の歴史3 古代王権の展開』集英社、1991年8月11日。ISBN 4-08-195003-2
- 熊谷公男『日本の歴史03 大王から天皇へ』講談社、2001年1月10日。ISBN 4-06-268903-0
- 白石太一郎『日本の時代史1 倭国誕生』吉川弘文館、2002年6月10日。ISBN 4-642-00801-2
- 関和彦「『ヤマト』王権の成立はいつか」『争点日本の歴史2 古代編Ⅰ』新人物往来社、1990年12月20日。ISBN 4-404-01775-8
- 鬼頭清明「大王と有力豪族」『朝日百科 日本の歴史1 原始・古代』朝日新聞社、1989年4月8日。ISBN 4-02-380007-4
- 鬼頭清明『大和朝廷と東アジア』吉川弘文館、1994年5月1日。ISBN 4-642-07422-8
