不来方

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不来方(こずかた)は、現在の岩手県盛岡市を指し示す言葉である。「盛岡」が都市名として使われ始めた時期については諸説あるが、「不来方」は、少なくとも570年の間存在する由緒ある名であることから、現代、盛岡の雅称として使われることが多い。 南部氏による開府当時、居城名自体も「不来方城」であり、この時、都市名として「盛岡」という地名は存在しなかった。

変遷[編集]

「不来方」の発祥[編集]

伝承によれば、かつてこの地には「羅刹」と呼ばれるがいて、人里を荒らしまわっていた。このことに困っていた里人たちが、三ツ石(盛岡市に現存する「三ツ石神社」)のに祈願したところ、鬼は神によって捕らえられた。この時、鬼が二度とこの地に来ない証として、岩に手形を残した。これが「岩手郡」、のちに'岩手へと連なる地名の由来である。また、「二度と来ない方向」の意味で、一帯に「不来方」の名が付されたと伝えられている。

また「さぁさぁ踊れ」と人々が囃し、奉納した踊りが、「さんさ踊り」だとされ、現在でも盛岡の夏の風物詩として受け継がれている。

さらに、三ツ石神社のある盛岡市名須川町はかつて「三ツ割村(みつわりむら)」の一部であり、「三ツ石」の伝承が地名成立に影響を与えてきたことが知られる。

「不来方」から「森ヶ岡」へ[編集]

不来方の改名は、三戸城下から進出した時の南部藩主がこの名を「心悪しき文字」と忌み嫌ったためと伝えられる。後に「森ヶ岡」次いで「盛岡」が城下町の名として用いられるまで、当地は「不来方」の名で呼ばれたと伝えられる。これは「永福寺」所在地の裏山が「森ヶ岡」と呼ばれたことに関わると見られる。

「森ヶ岡」から「盛岡」へ[編集]

永福寺の山号は、現在「宝珠盛岡山」である。「盛岡」は、江戸時代後期の元禄期、当時の南部藩主・南部重信公と、盛岡城の鬼門を鎮護する真言密教寺院、永福寺・第四十二世清珊法印との連歌によって生まれたと伝えられる。

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城下町として「盛岡」の名が定着、後に藩名そのものも「南部」から「盛岡」へ改められる。 しかし、町名として「不来方」が残ることは無かった。

「盛岡県」から「岩手県」へ[編集]

明治3年(1870年)、版籍奉還により「盛岡県」が誕生するも、明治5年(1872年)に「岩手県」が誕生し、盛岡県はこれに伴って統合された。 明治22年(1889年)、市制施行により「盛岡市」が誕生する。

狭義としての「不来方」[編集]

現在の盛岡市中心部は「岩手郡仁王郷不来方」に相当する。その名は南北朝期には既に古文書に記されており、「陸奥話紀」の記載では、清原武則の甥・橘頼為が領主となっていたのが「逆志方」。南部氏は蒲生氏郷らの勧めでこの地への築城を決めたという。

一般に、南部氏が築いた盛岡城の別名が「不来方城」と解されているが、厳密には両者は別の城である。 永享11年(1439年)に福士氏が城代として定着し、「不来方殿」と呼ばれたのが「不来方城」の始まりであり、「不来方城」を基礎に拡大して南部氏が築いたものが、後の「盛岡城」である。

現在の岩手医科大学附属病院の北辺(盛岡市本町通)には、不来方町の石碑が残っている。

広義としての「不来方」[編集]

「不来方」は、「盛岡の雅称」として用いられることが多い。この場合、盛岡市中心部のみならず、盛岡地域全体を示す象徴的な言葉であることが多い。「岩手県立不来方高等学校」の開校によって、所在地である矢巾町附近に「不来方」を冠する施設が多いが、本来、矢巾地域を示す言葉ではない。

  • 不来方祭 

国立大学法人岩手大学の大学祭の名称。 校地が盛岡市にあることから、盛岡の古名より命名される。

  • 不来方橋

盛岡市盛岡駅前通と盛岡市大沢川原を結ぶ橋。北上川に架かる。公募により命名。

  • 不来方賞

岩手競馬サラブレッド系3歳馬で争われる重賞競走。詳しくは不来方賞の項を参照。

岩手県紫波郡矢巾町。岩手県が設置した初めての学系制普通科高等学校。人文・理数・外国語・芸術・体育の5学系が受験時に選択できる。 校名は、盛岡の古名に因む。校章は盛岡藩主・南部家の家紋「向かい鶴」をモチーフとしている。

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