蒲生氏郷

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蒲生 氏郷
Gamo Ujisato.jpg
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 弘治2年(1556年
死没 文禄4年2月7日1595年3月17日
改名 鶴千代(幼名)→賦秀または教秀(初名)→氏郷
別名 通称:忠三郎、飛騨守、琉球守、松ヶ島侍従、松坂少将
渾名:麒麟児
戒名 昌林院殿高岩宗忠大居士
霊名 レオン(レオ)
墓所 京都市北区大徳寺黄梅院
福島県会津若松市興徳寺
官位 従四位下、侍従、正四位下、左近衛少将、従三位、参議
主君 織田信長豊臣秀吉
氏族 蒲生氏藤原姓
父母 父:蒲生賢秀
母:後藤但馬守の娘(後藤賢豊の妹)
兄弟 氏郷重郷、妹(布施忠兵衛→関一政室)、妹(田丸直昌室)、妹(小倉行春室)、三条殿(とら。豊臣秀吉側室)
冬姫織田信長次女)
籍(前田利政正室)、源秀院(南部利直正室)、氏俊秀行
養女:三の丸殿(豊臣秀吉側室)

蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。

蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(ますひで)、または教秀(のりひで)。また、キリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン(あるいはレオ)。子に蒲生秀行。  

生涯[編集]

幼少時[編集]

蒲生氏藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。[1]近江蒲生郡日野に六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれる。幼名は鶴千代と名付けられた。

織田家臣時代[編集]

信長は氏郷の才を見抜いたとされ、将来自分の娘の冬姫を娶らせる約束をした。岐阜の瑞竜寺の禅僧南化和尚(玄興)に師事され、斎藤利三の奨めで武芸を磨いた。信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀と名乗り(信長の官職である「弾正忠」から1字を与えられたとの説がある。なお、本項では一部を除いて氏郷に統一する)、織田氏の一門として手厚く迎えられた。

永禄11年(1568年)の北畠具教具房との戦いにて初陣を飾る。永禄12年(1569年)の伊勢大河内城の戦いにも参戦し、戦後、信長の娘の冬姫を娶って日野に帰国した。元亀元年(1570年)の姉川の戦い天正元年(1573年)の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱などに従軍して、武功を挙げている。天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により自刃すると、安土城にいた信長の妻子を保護し、父賢秀と共に居城・日野城(中野城)へ走って手勢500騎、輿50丁、馬100頭、駄馬200頭を支度して明智光秀に対して対抗姿勢を示した。光秀は明智光春武田元明京極高次らに近江の長浜佐和山安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈だったが、直前に山崎の戦いで敗死した。

豊臣家臣時代[編集]

その後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えた。清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ秀吉に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは滝川一益を攻め[2]、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは別働隊として羽柴秀長らと共に織田信雄を監視し、羽柴軍撤退の際、殿を務めた。同年に、秀吉から「羽柴」の苗字を与えられる。[3]ルイス・フロイスの『耶蘇会年報』によると、このころ、高山右近らの影響で大坂においてキリスト教洗礼を受ける。天正13年(1585年)の紀州征伐第二次太田城の戦い)や富山の役、天正15年(1587年)の九州征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐などにも従軍する。この時、討死を覚悟して自分の肖像画を残している。ちなみに九州征伐では、前田利長と共に岩石城を一日で落とす活躍を見せた。又、天正13年(1586年)には従四位下・侍従に任じられる。その間、天正16年(1588年)には飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城。松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。同年4月15日、正四位下・左近衛少将に任じられ、豊臣姓(本姓)を下賜された。[4]

一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥会津に移封され42万石[5](のちの検地・加増により92万石[6])の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であり、当初細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされる。なお、松ヶ島時代(天正13年(1585年)頃)に賦秀から氏郷(うじさと)と名乗りを改めているが、これは当時の実力者だった羽柴“”吉の名乗りの一字を下に置く「賦」という名が不遜であろうという気配りからであった。

会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。7層の天守(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。また、築城と同時に城下町の開発も実施した。具体的には、旧領の日野・松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた[7][8]

以降は、伊達政宗と度々対立しながらも、天正19年(1591年)の大崎・葛西一揆(この際秀吉に対し「政宗が一揆を扇動している」との告発を行っている)、九戸政実の乱を制圧[9]。同年12月、従三位参議に任じられた[10]

文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋へと出陣している。この陣中にて体調を崩した氏郷は文禄2年(1593年)11月に会津に帰国したが病状が悪化し、文禄3年(1594年)春に養生のために京都に上洛し、秋には秀吉をはじめ諸大名を招いた大きな宴会を催した[9]。しかしこの頃には病状がかなり悪化して誰の目にも氏郷の重病は明らかで、秀吉は前田利家や徳川家康にも名のある医師を派遣するように命じ、自らも曲直瀬玄朔を派遣している[9]

文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷において、病死した。享年40[10]

蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された(会津にはやはり伊達政宗に対抗させる目的で上杉景勝が入った)。

人物・逸話[編集]

  • 家臣を大切にしたとされ、諸大名からの人望も厚かったとされる。
  • 戦国武将としては珍しく、側室を置かなかった。だが二人の実子が早世し、蒲生家の血が絶えたため、このことが蒲生家断絶の一因となった。ちなみに側室を置かなかった武将は他にも黒田孝高吉川元春小早川隆景など。
  • 合戦の時、氏郷は燕尾形黒漆張懸兜又は銀鯰尾兜を被って戦場を駆け抜けたとされる。
  • 茶湯に深い理解があり、南化和尚の計らいで宗養里村紹巴[11]、その後、千利休から師事をされ、利休七哲の一人(筆頭)にまで数えられており、彼が所持していた名茶器としては赤楽早船などがある。鶴ヶ城にある茶室「麟閣」は、利休切腹後に会津に蟄居した利休の子・千少庵からもらったものだとされている。又、鶴ヶ城の庭でよく茶会を開いていたとされ、その茶会では家臣のみならず、身分に関係なく農民や商人達も招いて、茶を振る舞ったとされている。
  • 上記の七哲の中でも、細川忠興高山右近とは仲良しであった。ちなみに、小田原征伐の陣中で右近が用意した牛鍋を三人一緒に食べたという話がある。その後、忠興と共に度々牛鍋を食べに寄ったという(『細川家御家譜』)。ちなみに右近は、氏郷が床で息絶えるまで側に付き添ってくれていた。七哲以外の武将だと、前田利長と仲が良かった。余談だが、秀吉が築いた京都・方広寺大仏殿の石垣を運んだ諸大名の中で氏郷と利長が運んだものが特に大きかったという。
  • 和歌に秀でており、宗養・里村紹巴から連歌を師事されている[12]。会津から文禄の役に参陣する途上、近江国武佐で故郷の日野を偲んで、「思ひきや人の行方ぞ定めなき我が故郷をよそに見んとは」という歌を詠んでいる。
  • 武辺談義や怪談など、話好きであったといわれる。
  • 六角氏が滅亡した後、父の賢秀が鶴千代(氏郷)を連れて信長のもとへ臣従の挨拶に行った。鶴千代を見た信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん。(蒲生の子供の瞳は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう。)」と言い、将来自分の娘の冬姫を娶らせる約束をしたという(『蒲生氏郷記』)。
  • 氏郷が織田信長に預けられていた幼少の頃、美濃三人衆の一人、稲葉一鉄が信長と小姓たちに戦話しをしていた時、夜も更けてきて小姓たちが居眠りをし始めている中、氏郷だけは目を輝かせて一徹の話を真剣に聞いていた。信長と一徹は、この子は将来、100万の大名になるだろうと感服した。後に氏郷は実際に陸奥92万石を与えられて、100万石を超えるとまではいかなかったが、それに近い石高を得ている。
  • 『常山紀談』には、陸奥92万石を与えられたとき、氏郷は広間の柱に寄りかかり、涙ぐんでいた。近くの者が感涙だと思い、「お気持ちはよく分かります。大変な御出世ですから。」と言ったら、氏郷は「たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ。それが悲しいから涙が出てきたんだ。」と激しく嘆いたとされる逸話が記されている。(因みに徳川家康はこれとは正反対の発言をし、関東に移っている)。
  • 氏郷は伊達政宗と仲が悪く、二人に関するいろんな逸話が残されている。
    • 常山紀談には、伊達政宗が刺客として送り込んだ少年を氏郷が許したという話がある。それによると、政宗は清十郎という16歳の少年を、氏郷の家臣の元に小姓として奉公させる形でスパイ活動を行わせ、隙を伺い氏郷を暗殺させようとした。しかし、清十郎が父親に対して送った手紙が関所の検閲にかかったことで事態が露見することとなり、清十郎は投獄された。氏郷は命を捨てて主命を遂行しようとした清十郎の忠義に感服し、その忠勤を賞賛して罪を赦し伊達家の元へ返したと伝わる[13]
    • 氏郷が会津に入ると、隣国の政宗と領地の境界をめぐって度々対立した。ある時、またもや政宗は氏郷領内の安達が原の川を挟んだ向かいにある黒塚は自分の領土だと難癖をつけてきた。しかし氏郷は「みちのくの安達が原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか」と言い、拾遺和歌集に載っている平兼盛の歌を引用して氏郷の領地であることを主張し、政宗を黙らせた。
    • 葛西大崎一揆鎮圧に向かう途中、政宗から茶の湯の誘いを受けた。「一服差し上げたうえ、一揆鎮圧について打ち合わせをしたい。」という話だったが、自領であった会津を氏郷に奪われる形になっていた政宗の敵意は誰の目にも明らかで、周りの人々は謀殺を恐れて氏郷を制止するも、「逃げれば小心者のそしりを受ける。」と言って政宗の陣中に入り、政宗が点てた茶を飲んだ。一説によれば、その茶には実際に毒が入っていたのだが、それを見切っていた氏郷はあらかじめ持参していた解毒剤を飲んでおり、事なきを得たといわれている。
  • 氏郷は月に一度家臣を全員集めて、自らの屋敷で会議を行った。この会議の席上では「怨まず、怒らず」が約束事となっており、長幼や禄の大小に関わらず、自由な発言が許されていた。会議後には氏郷自らが風呂(当時は最高ランクの贅沢な持て成しとされていた。後述。)を沸かしたり、料理を振舞ったという。
  • 秀吉は信長が認めた器量人である氏郷を恐れていた。実際、清州会議でも真っ先に氏郷の所領安堵状が出されている。会津92万石に移した際、「松島侍従(氏郷)を上方に置いておくわけにはいかぬ」と側近に漏らしたと伝わる(『名将言行録』)。
  • 前述に関して次のような二つの逸話が残っている。一つは、ある時、秀吉が家臣たちにふざけ半分で、「100万もの大軍の采配をさせたい武将は誰か? 遠慮なく言ってみよ。」と言った。家臣達は、当時の豊臣時代の中で大きな力を持っていた前田利家、徳川家康などの名を口にしたが、秀吉は頭を横に振って、「違う。それは、あの蒲生氏郷だ」と答えたという(大谷吉継である説もある)。もう一つは、秀吉が氏郷を評して、「蒲生氏郷の兵10万と、織田信長様の兵5千が戦えば、勝利するのは織田軍である。蒲生側が織田兵4千の首を取っても、信長様は必ず脱出しているが、逆に織田側が5人も討ち取れば、その中に必ず氏郷の首が含まれているからだ。」と語ったという(『名将言行録』)。
  • 氏郷は天下に対する大望を持っていたとも伝わる。ある時、秀吉が側近を集めて、秀吉亡き後の天下人が誰になるかを皆で語った。血統や年齢での順序ならば秀吉の甥で養子秀次であるが、氏郷は秀次を「彼の愚人に従ふ者誰かあらん」と酷評した。そこで関東で255万石の大領を支配する徳川家康の名を出すと、「彼の人は吝嗇に過ぎる。天下を得(る)べき人にあらず」と評した。そこで次に加賀で家康に次ぐ実力者である前田利家の名を出すと、氏郷はようやく頷いた。そして「加賀少将(利家)は御高齢。もし(利家が天下を)得ずば、我が得るべし」と自ら語ったという(『老人雑話』)。しかし氏郷は秀次・利家・家康の3人よりも先に早世した。
  • 功績のあった家臣に蒲生姓を与え、家中に同名衆を大量に生み出すことがあり、蒲生家中に蒲生姓の家臣が多いのはこのことによる。このことは前田利家にたしなめられている。
  • キリスト教に入信する前、高山右近に追い回されるほどしつこくキリスト教の話を突き付けられたことがあった。興味がなかった氏郷は頑なに耳を塞いでいたが、右近が茶の湯の話を持ち出すと急に興味を持ち出すようになり、キリスト教に入信する。その後、逆に氏郷が右近を追い回すほど深く没頭してしまった。ちなみに黒田孝高がキリスト教に入信したのは、氏郷に勧められたからである。
  • 氏郷は家臣をとても大切にする人物だったと伝えられており、それに関する逸話が多い。
    • ある時、西村某という家臣が軍令違反を犯しながらも武功を立てた。しかし氏郷は功を認めながらも軍令に違反したとして西村を家中から追放した。だが西村は氏郷を尊敬しており、しばらくして氏郷に帰参を願い出た。氏郷は帰参の条件として「わしと相撲を取れ」と言い出した。西村は応じて氏郷と相撲で対決し投げ飛ばしてしまった。周囲の家臣たちは顔色を変えて「お前は馬鹿か。帰参したいのならわざと負けたほうがいい」と忠告した。が、西村はまたも氏郷を投げ飛ばした。だが氏郷は怒らずむしろ笑いながら「お前は浪人している間に根性が卑しくなっているのではないかと思っていたが、どうやら昔のままのようでよかった」と帰参を許したという[14]。但し、帰参を許された後に「浪人している間に武芸は励んだのだろうな」ということで試しに相撲を取ったという別の逸話がある。
    • 玉川という弁舌豊かな才人がいた。氏郷は家臣の推挙を受けて側近に取り立てたが、数日後には解雇した。驚いた家臣が理由を尋ねると「あいつは才能はある。だが根性が気に入らない。わしと仲の良い友人の話をするときは友を誉める。だが悪い友人のときには友を悪しざまに罵る。つまり、俺の気持ちを推し量っておべんちゃらを言うのだ。まあ、玉川は渉外の仕事には確かに長けている。だからその能力を生かせば他家でも重用されるであろう。」と述べた。だが玉川は氏郷に解雇された理由を悟らずに他家でも同じように振舞って解雇されたという[14]
    • 1万石の約束で召し抱えた橋本惣兵衛という家臣が酒宴の時、「某は子を多くもっておる。 10万石をくれるとあらば、 1人くらい川に捨てても構わん。」と豪語した。この発言を耳にした氏郷は激怒し、彼を呼び出し、「そんなことを言う人間は自分の利のために何でもする人間だ。たとえ人質を差し出しても利のためならば人質を捨て、裏切ったりする。そんなお前には1000石しかやれない。それでよければ奉公しろ。不服なら去れ。」と言い、彼の取り分を1000石に減らしたという。
    • 合戦のとき氏郷は「指揮者・武将だからといって後方にいて家臣に命令を出すだけでは駄目である。自分が真っ先に敵陣に入って安全だからわしについて来いと言う。そうすれば家臣はついてくるものだ」という信念を持っていたという[14]
    • 新参者の部下には、「銀の鯰尾の兜をかぶり、先陣するものがいれば、そいつに負けぬように働け」と激励したという。ちなみに、その銀の鯰尾の兜をかぶるものとは、前述にあったように、氏郷自身のことである。
    • 氏郷は財産を惜しまず家臣に与えた。彼の言葉によると「家臣にとって俸禄と情は車の両輪のようなもの。両方を上手く転がしていかないと家臣は付いてこない。給与を多くしても情をかけなかれば家臣は主家を離れる。情ばかりかけても給与を配慮しなければこれも同じことであり、どちらが欠けても家臣の心は主から離れるものだ」という。
    • 会津に移封・加増された時、家臣団に対して「今までお前たちには苦労をかけた。そこで今まで立てた功労を書き出し、どれだけの俸禄が欲しいか願い出よ」と布告した。すると家臣たちは次々と加増を願い出る書面を提出した。家老らが計算すると加増分は100万石を超えており、家老らは仰天して氏郷に報告した。だが氏郷は「いいじゃないか。家臣のためだ。何とか工面しろ」と言うだけだった。家老らは困り果てて、家臣らにありのままに加増がとても無理であることを話した。家臣らは氏郷の正直な気持ちを知って感動し、自ら加増を辞退する者が相次いだという。だが氏郷は自分の取り分を9万石まで削って、家臣達の希望に限界まで応えたのだった[14]
    • 手柄を立てた家臣がおり、その家臣の手柄が俸禄だけで優遇できなくなると、氏郷は休日にその家臣を自らの屋敷に呼んでご馳走と風呂でもてなした。しかも氏郷自らが煤で真っ黒になりながら薪をくべるほどの律儀さであり、この時、風呂に入っている家臣に、「命がけの働きに褒美を出してやれなくてすまない、こんなことしかできないが許してくれ」と言ったという。家臣達は氏郷の部下想いに改めて涙を流したという。又、秀吉の御伽衆になった元主君の六角義賢にも分け隔てなくこの風呂に入れたという。この風呂は「蒲生風呂」といわれ、この逸話は蒲生家に限らず、他家の間でも語り草にもなった。家臣達は皆、自分も蒲生風呂に入れてもらおうと大いに忠義を尽くした[14]
    • 佐久間安政と勝之の兄弟が召抱えられ氏郷にお目見えした時、畳のへりにつまづいて倒れてしまった。これを見た小姓達は笑ったが、氏郷は「佐久間は畳の上の奉公人ではない。戦場で敵を討ち取る事こそが職分の者である。」と叱りつけたという。
    • 筒井順慶の旧臣の松倉権助という家臣がいたのだが、彼はとても臆病者で、周りの人々から馬鹿にされていた。氏郷は「どんな人間にも必ず使い道がある」と言い、いきなり彼を一部隊の隊長に任じた。他の者は「あんな臆病者に隊長の役など務まるはずがありません。」と反対したが、いざ合戦が始まると、今まで蒲生家に仕えてきた部将達より勇敢に戦い、恩賞として2000石の物頭に取り立てられた。氏郷は微笑み、「見ろ、どんな人間にも責任を持たせれば必ずその職責を果たす。ただ噂や評判だけでその人間を決めつけてはいけない。」と言った。その後、権助は抜きん出た働きで敵味方の目を驚かせたが、深入りして討ち死にした。氏郷は近習の者達に「松倉は剛にして大志ある者であり、人の風下に立つ男ではなかった。故に早く取り立てたのだが、いま少し出世をのばしておれば、無理な討ち死になどしていなかったに違いないのに、我が過ちによって、あたら良き武士を失った。」と言い、落涙して悔やんだという。
    • これらの逸話故に、キリスト教宣教師のオルガンティノはローマ法王に、「優れた知恵と万人に対する寛大さと共に、合戦の際、特別な幸運と勇気のゆえに傑出した武将である」と報告している。
  • これらの逸話とは正反対の厳しい面が窺える逸話がある。日野から伊勢に転封になる時、武勇に優れ、氏郷に可愛がられていた福満治郎兵衛という武士の馬の沓が外れた。彼は隊列を離れ、馬の沓を直していると、氏郷はそれを軍紀違反として斬るよう命令し、斬らした。その後、氏郷はしばしば彼のことを思って嘆声を漏らしたという。
  • 氏郷は農業より商業保護に熱心であり、伊勢や会津など移封された先々で近江商人を招いて商業発展に尽力した。また、安土桃山期では群を抜くほどの予算案を毎年立てていたという[14]
  • 1590年に天正遣欧使節が帰国した時、氏郷も秀吉と共に彼らを迎えた。その折り、氏郷はヴァリニャーニに、会津を福音の国にすることを誓ったと言われ、その後、氏郷は会津から4回にわたり、蒲生家臣のロルテスを団長に、遣欧使節団を送ったとも言われている。
  • 会津名物の「起き上がり小法師」は、義父・信長のだるま信仰に倣い、氏郷が広めたという。

家臣[編集]

(五十音順)


急死に関して[編集]

秀吉やその側近・石田三成、あるいは伊達政宗、上杉景勝の重臣・直江兼続などによる毒殺説もあるが、下記の理由によりほぼ否定されている。

氏郷を診断した医師・曲直瀬玄朔が残したカルテ「医学天正記」には文禄の役へ出兵の途中、既に名護屋城で発病し黄疸、目下にも浮腫などの症状が出たと記されている。その他の玄朔の診断内容から、氏郷は今でいう直腸癌または膵臓癌だったと推測されている。

他に死因として肝硬変が上げられている[9]

辞世の句[編集]

  • 限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風[9]
    (風など吹かなくても、花の一生には限りがあるので、いつかは散ってしまうのです。それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのですか)

まだまだ武将として働いていける。その矢先の死に悔いの残る辞世である。

祇園南海幸田露伴の著作にこの句の評釈がある。また、山田風太郎は『人間臨終図鑑』の中で、「この句は戦国武将の絶唱としては白眉である」と評している。

墓所[編集]

京都市北区大徳寺[9]黄梅院、福島県会津若松市興徳寺(遺髪)[9]。近年、黄梅院にある墓を発掘したところ、刀を抱いた形で埋葬されていたことが判明。

参考文献[編集]

関連作品[編集]

漫画
ゲーム

脚注[編集]

  1. ^ 詳しくは蒲生氏参照、高橋富雄『蒲生氏郷のすべて』P30にも記載あり。尚、・氏郷の「郷」の字も秀郷に由来するものと考えられる。
  2. ^ 『戦国人名事典』(新人物往来社、編者:阿部猛西村圭子
  3. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』P27。
  4. ^ 村川前掲書P36。
  5. ^ 野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P13
  6. ^ 野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P14
  7. ^ 『福島県史』。
  8. ^ 野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P15
  9. ^ a b c d e f g 野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P16
  10. ^ a b 『御湯殿上日記』、『毛利家文書』。参議であるだけではなく、石高が91万9320石で、「武家清華」である徳川・毛利につぐ大領である。同じ「武家清華」である上杉・前田より、大領である。氏郷も、「武家清華」になった可能性がある。村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号。
  11. ^ 『日本人名大事典 2 カ-コ』(平凡社
  12. ^ 『日本人名大事典 2 カ-コ』(平凡社
  13. ^ 楠戸義昭『戦国武将名言録』(PHP文庫) 100P
  14. ^ a b c d e f 朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、272頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
蒲生賢秀
近江蒲生氏当主
1584~1595
次代:
蒲生秀行