穴太衆

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穴太衆(あのうしゅう)は、日本近世初期にあたる織豊時代(安土桃山時代)に活躍した、石工の集団。主に寺院城郭などの石垣施工を行った技術者集団である。石工衆(いしくしゅう)、石垣職人(いしがきしょくにん)とも称す。「穴太」の歴史的仮名遣での読み仮名は「あなふ」である。

目次

[編集] 概要

穴太衆は、近江比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと]などとも俗称。現在の滋賀県大津市坂本穴太延暦寺日吉大社門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城石垣を施工したことで、織田信長豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。彼らは全国のに召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い。

じぷと現代でも、坂本の町に多数立ち並ぶ「里坊(さとぼう)[1]」と呼ばれる延暦寺の末端の寺院群は、彼らの組んだ石垣で囲まれ、町並みに特徴を与えている。

[編集] 穴太積

穴太積の石垣(近江国滋賀郡坂本[現・滋賀県大津市坂本])

穴太積(あのうづみ、穴太積み)は、野面積(野面積み)を指して昭和初期以降に用いられるようになった俗称であり、穴太衆が手がけた野面積の石垣のことを言う。しかし、野面積のことを穴太石垣と誤解されることもある[2]。穴太衆は石垣職人であり、したがって、実際は玉石積切石積も行えた。

[編集] 諸家

[編集] 後藤家

石垣職人としての後藤家の始まりは、後藤基次加藤清正からしばしば伝授を受けてきた事により、『城石垣始秘伝抄』の「城取りの石垣の事」においてうかがえる。しかし、又兵衛は大坂夏の陣において討死にする事となる。夏の陣の前に又兵衛は腹違いの弟である彦八(後の初代後藤杢兵衛)に対し、自分の最後が近づいたのを悟り、これまで学んだ成果を『石垣根元抄』として、元和元年(1615年)4月に伝授する事となる。この書は、「元和8年(1622年)以来家宝とし、一子相伝の他これを許さずのもの也」として、以後、後藤家最大の財産となる。後藤家が関わった石垣として、加賀藩金沢城がある。

[編集] 粟田家

現在も穴太の技術を継承しており、株式会社粟田建設として、十三代目から始まり、今は十五代目が活動を行っている。

北垣聡一郎の『近江の石垣築成者 穴太衆』(1976年)によれば、粟田氏の話として、「先祖は阿波国から来た」と語っていたとしている。

[編集] 穴太衆の石垣があるとされる城

[編集] 脚注・出典

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  1. ^ 松村明監修; 小学館. “里坊”. デジタル大辞泉 - 大辞泉. コトバンク. 2010年4月11日閲覧。
  2. ^ 穴太積みの石垣について”. ウェブサイト「近江の城郭」. 2008年2月11日閲覧。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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