信貴山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
logo
信貴山城
奈良県
信貴山城の石碑
信貴山城の石碑
別名 信貴城、磯城
城郭構造 山城
天守構造 四層の天守
築城主 木沢長政
築城年 天文5年(1536年
主な改修者 松永久秀
主な城主 木沢長政、松永久秀
廃城年 天正5年(1577年
遺構 曲輪、空堀、土塁、門跡
指定文化財 平群町指定文化財
再建造物 なし
位置 北緯34度36分45.85秒
東経135度40分6.012秒

信貴山城(しぎさんじょう)は、奈良県生駒郡平群町にあった城である。木沢長政松永久秀の居城となった。

概要[編集]

信貴山城は大和河内の国境にある生駒山系に属する信貴山(標高433m)山上に築かれた山城である。信貴山は大和と河内を結ぶ要衝の地で、松永久秀は山上に南北700m、東西550mに及ぶ城郭を築いて、大和経略の拠点とした。

信貴山中腹には、毘沙門天を本尊とする信貴山真言宗の本山である朝護孫子寺がある。この寺は聖徳太子物部守屋討伐の戦勝祈願をしたことに由来する。

尚、平群町には信貴山城の他、椿井城上庄北城三里城西宮城下垣内城高安山城平等寺館等がある。

沿革[編集]

長禄4年(1460年)12月、応仁の乱畠山義就軍が龍田城を攻めて筒井順永の後詰軍に敗れ、信貴山に陣を退いたというのがこのの文献上の初見と思われている。しかし当時は城と呼べるようなものではなく、陣所として利用されていたと考えられている。その後本格的な城郭を築いたのが木沢長政で、『証如上人日記』の天文5年(1536年)6月26日によると、

松永久秀画像

木沢方へ、今度信貴山之上二城をこしらへ候て、はや移候間、従所々樽共行候条、遣候可然よし

—証如上人日記

という記載が見受けられる。信貴山城の完成を祝して本願寺より酒を贈ったと思われる。しかし、長政が天文11年(1542年)3月太平寺の戦いで敗死すると信貴山城は二上山城と共に落城してしまう。

その後17年間空白があったと思われており、永禄2年(1559年)8月に松永久秀が信貴山城を改修し、今日にみられるような規模の城郭を築いた。その後、大和を一挙に制圧した久秀は多聞山城も築城し、大和南部の抑えを多聞山城、河内の抑えを信貴山城とし、両城を頻繁に行き来した。多聞山城の間は直接距離にして20kmあり、その間に支城を築き、連絡路を確保していたのではないかと思われている。

信貴山城の戦い[編集]

信貴山城の戦い
戦争攻城戦
年月日永禄11年(1568年)6月29日
場所:信貴山城
結果筒井順慶三好三人衆連合軍の勝利
交戦勢力
筒井順慶Japanese Crest Umebachi.png
三好三人衆Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg
松永久秀Japanese crest Tuta.svg
指揮官
三好康長Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg 不明
戦力
不明 不明
損害
不明 信貴山城は落城

破竹の勢いで大和を治めていた久秀に対して、永禄11年(1568年)6月、筒井順慶三好三人衆連合軍が突然攻撃を仕掛けてきた。そして29日に筒井・三人衆連合軍が雨の降る中信貴山城を攻城、攻め落とした。

久秀は前年に東大寺大仏殿の戦いで一旦勝利したが、9月3日に三好政康及び順慶に多聞山城を攻城され再び窮地に立たされていたが、観音寺城の戦いで勝利しに上洛していた織田信長によって助けられることになる。久秀は芥川山城で信長に臣従することができ、織田軍の精鋭2万兵の援軍を引き連れ、信貴山城を逆に攻城、落城から4ヵ月で再奪取に成功する。

信貴山の山頂には空鉢堂が建つ
4層の天守櫓が建っていたと推定されている本丸跡地


廃城[編集]

松永軍の主力は信貴山城に置いていたようで、元亀2年(1571年)8月の辰市城の合戦で信貴山城から出軍し、河内若江城三好義継軍と合流し、大軍を率いて辰市城を攻めかかったが大敗したようで、この時から久秀に衰えがみえ始めている。

天正5年(1577年)10月、信長に謀反を起こした久秀は信貴山城に籠城した。織田軍に攻撃され落城し久秀は自殺、この時に廃城になったと思われている。

信貴山城の略年表[編集]

和暦 西暦 主な出来事
天文5年 1536年 河内国守護職畠山氏の被官、木沢長政によって築城される。
天文11年 1542年 木沢長政が河内太平寺の戦いで討ち死にする。
永禄2年 1559年 三好長慶被官松永久秀によって修復・改修される。
永禄3年 1560年 松永久秀、信貴山城に四階櫓を設ける。
永禄5年 1562年 松永久秀、大和国北部に多聞山城を築いて、居城を移す。
永禄11年 1568年 三好三人衆方の三好康長に攻められ、一度は落城するも織田信長の上洛に応じ、これを奪還した。
天正5年 1577年 織田信長に攻められ松永氏滅亡、信貴山城は廃城となる。

城郭[編集]

安土城図

この山城は大きくわけて、雄岳部分とその裾の扇型に派生した部分の2つからなる。曲輪の数は110以上あり、奈良県下最大規模の中世城郭である。

『和州信貴山古城図』によると、空鉢堂が建っている部分を本丸、少し下った信貴山城の案内看板が立っている細曲輪が二の丸、ハイキングコースがある部分を三の丸と記載されている。

『探訪日本の城』によると、この本丸跡に4層の天守櫓が建っており、伊丹城(1521年)につぐ日本で2番目に建造された天守で、織田信長の安土城もこの天守を参考にしたのではないかと思われ、松永久秀は築城の才覚も備わっていたと記載されている。

信貴山城の天守については、『甲子夜話』に天守の始まりとして登場する[1]。実際の遺構については確認されていないが、文献上の建造年では伊丹城、楽田城(1558年)に次ぐ。この建物の名称については「高殿(たかどの)」や「高櫓(たかやぐら)」と呼んだという[2]

雄岳部分以外に、扇型に派生した曲輪群がある。

松永屋敷の東側にある階段曲輪

立入殿屋敷から松永屋敷までが信貴山城の中心部分で、各屋敷が建設されていたのではないかと思われている。『図説中世城郭事典』では石臼を割って石垣を組むために使用された可能性があり、それは立入殿屋敷と松永屋敷を区切る壁面に設けたが、破城時に石垣を崩したのではないかとしている。

山城は、多人数で攻め込む敵に対して、少数の人数で守る事ができる利点がある。しかし、信貴山城は山全体に曲輪があり、兵力が散漫になり拠点防衛出来にくい難点がある。『風雲信長記』によると、松永久秀は散漫となっていた防御施設を松永屋敷を中心に、木沢長政時代の曲輪を一部破棄し土塁、東側の階段曲輪、堀切など拠点防衛が可能なように大幅改修したのではないかと指摘している。

更に『風雲信長記』によると、上洛前、織田信長系統の山城築城技術に「横堀」という防御施設はなく「堀切」を使用していた。松永久秀は天理にある豊田城で横堀の防御施設を設けており、信貴山城でも松永屋敷の東側に土塁の防御施設があり、横堀と同様の効果があるとされている。横堀はそのまま鉄砲の射撃陣地となり、鉄砲出現以降重要な防御施設とされていく。織田信長系統でも、松永久秀の築城ノウハウを取り入れ、伊賀国丸山城 (伊賀国)以降横堀があらわれてくる。しかし横堀は逆に城から討って出る時に邪魔になる弱点があり、虎口の効果を半減してしまう。そこで、天正時代になると虎口に一定の空間を造るなどして弱点を克服していく。このように織田信長系統の築城技術は、畿内もしくは松永久秀の築城技術を取り込んでいき、その弱点も改良していくが、逆にそのことが松永久秀の織田方での地位を徐々に弱体化していき、謀反の理由とも関係しているのではないか、と解説している。

信貴山山頂からの眺望。空鉢堂から南側を撮影、後方が金剛山

アクセス[編集]

磯城/浅野文庫所蔵
信貴山城の城郭部分/国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省
公共交通機関
朝護孫子寺に参拝者用の有料駐車場あり
徒歩
  • 近鉄高安山駅から信貴山頂まで約2時間
  • 信貴山門バス停付近から信貴山頂まで約1時間
  • 朝護孫子寺本堂付近から信貴山頂まで約30分

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年
  2. ^ 平井聖監修『城 5 近畿』毎日新聞社 1996年

参考文献[編集]

  • 『日本城郭大系』第10巻 三重・奈良・和歌山、新人物往来社、1980年8月、323頁-326頁。
  • 『図説中世城郭事典』第二巻、新人物往来社、1987年6月、337頁-338頁。
  • 『探訪日本の城』6 畿内、小学館、1977年9月、140頁-141頁。
  • 『風雲信長記-激情と烈日の四十九年-(歴史群像シリーズ27)』 学習研究社、1998年3月、150頁-153頁。
  • 戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』四、新人物往来社、1989年3月、125頁-126頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]