赤松政範

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

赤松 政範(あかまつまさのり、生年不詳 - 天正5年12月3日1578年1月10日))は、戦国時代武将赤松政元の次男。七条赤松氏。上月城主。兄に赤松正満、弟に赤松政直赤松政茂横山義祐、妹に福原則尚室がいる。子には赤松政宗がいるとされている。蔵人大輔。

父同様、西播磨殿と呼ばれており、武勇も優れていた。思慮分別もある城主ではあったが、物静かな一面も持っていたという。 毛利家と織田家との去就に数年かかるほど、先見の明を持ち家臣のことに思いやりを持つ責任感ある武将であると同時に、優柔不断なところもあった。

1577年、羽柴秀吉が約3万の兵で上月城を攻めた時、宇喜多直家の弟・宇喜多広維の援軍3千と赤松家本隊7千、合計1万の兵で迎え撃った。 しかし、織田軍の猛攻凄まじく敗色濃厚となった。 先に妻を刺し殺し、一族郎党と共に自害した。 このとき政範に殉じた将士は高島正澄早瀬正義宇喜多広維国府寺入道中村伊勢入道らであった。

一説に、裏切り者に介錯させる時に、「わしの首を持って織田方に降伏致せ。わしはそなたら城兵の生命をお助け致す。されど、筑前(秀吉)殿が降伏を許さないならば、謀略をもって速攻首を討つべし」と言ったと言う。