堀尾吉晴

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堀尾 吉晴
Horio Yoshiharu.jpg
堀尾吉晴像(春龍玄済賛、春光院蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文13年(1544年
死没 慶長16年6月17日1611年7月26日
改名 仁王丸、小太郎(幼名)→吉晴
別名 茂助(仮名)、可晴、吉定、吉直、帯刀先生
戒名 法雲院殿前楓松庭世栢大居士
円成院高堅世肖居士
墓所 京都市右京区花園妙心寺塔頭春光院
島根県安来市広瀬町の巌倉寺
和歌山県高野山奥の院
官位 従四位下、帯刀先生
主君 織田信長豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
氏族 堀尾氏
父母 父:堀尾泰晴、母:不詳
兄弟 吉晴氏光
正室:大方殿(津田氏)
金助忠氏氏泰、娘(石川忠総室)、娘(堀尾因幡室)、娘(野々村河内室)、娘(池田備中守室)、娘(平井権左衛門室)、娘(蒲生弥五右衛門室)

堀尾 吉晴(ほりお よしはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将大名豊臣政権三中老の1人。出雲松江藩の第2代藩主[註 1]

生涯[編集]

織田信長の時代[編集]

稲葉山城の間道に秀吉を案内する堀尾吉晴(『新撰太閤記』 歌川豊宣画)

天文13年(1544年)、尾張丹羽郡御供所村(現在の愛知県丹羽郡大口町豊田)の土豪である堀尾泰晴(吉久、泰時)の長男として生まれた[1]。父は尾張上四郡の守護代・岩倉織田氏(織田伊勢守家)の織田信安に仕えて重職にあり、同じく同氏に仕えた山内盛豊山内一豊の父)とともに連署した文書が残っている。

当時、岩倉織田氏は傍流である織田弾正忠家の織田信長に圧迫されており、吉晴は永禄2年(1559年)、初陣である岩倉城の戦いで一番首を取る功名を立てたものの、岩倉織田氏が滅亡したため父と共に浪人となった[1]。その後、尾張を統一した信長に仕え、間もなくその家臣の木下秀吉(豊臣秀吉)に付属された[1]

以降は秀吉に従って各地を転戦し、特に永禄10年(1567年)の稲葉山城攻めでは、織田軍の稲葉山城に通じる裏道の道案内役を務めたといわれている。天正元年(1573年)には、近江長浜の内に100石を与えられた。その後も武功を挙げ、播磨姫路において1,500石、後に丹波黒江において3,500石に加増された。

豊臣家の時代[編集]

天正10年(1582年)の備中高松城攻めでは、敵将・清水宗治の検死役を務める。山崎の戦いでは秀吉の命令で堀秀政中村一氏とともに先手の鉄砲頭として参加。天王山争奪の際に敵将を討ち取るという功績を挙げ[1][2]、丹波氷上郡内(黒井城)で6,284石となる。

天正11年(1583年)、若狭高浜において1万7,000石となり大名に列する[2]。天正12年(1584年)には2万石に加増された。天正13年(1585年)、佐々成政征伐に従軍。田中吉政中村一氏山内一豊一柳直末らとともに豊臣秀次付の宿老に任命される。また所領も若狭佐垣(佐柿、現在の福井県三方郡美浜町)2万石に移封され、わずか60日後の閏8月には近江佐和山滋賀県彦根市周辺)に4万石を与えられて移封された[2]。ただしこのように頻繁に所領を移されているため、若狭佐垣では実際の所務(徴税権)などは無かったとされている(『堀尾家記録』)。また近江の要衝に所領を移されているため、吉晴は秀吉の信任を得ていたようである[2]

天正15年(1587年)の九州征伐にも従軍し、正五位下、帯刀先生に叙任された。

天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍。秀次の下で山中城攻めに参加。この役の途中でともに出陣した嫡子・金助が戦傷死している。小田原開城後は、これらの戦功を賞され、関東に移封された徳川家康の旧領である遠江浜松城主12万石に封じられ[2]、豊臣姓も許された。この頃、秀次から独立した立場になったためか、後の秀次事件には連座していない。この後、九戸政実の乱にも従軍して功があったという。

秀吉の晩年には、中村一氏や生駒親正らと共に中老に任命され、豊臣政権に参与した。

関ヶ原[編集]

慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に接近し、石田三成前田利家ら反家康派との調整・周旋を務めた[3]。慶長4年(1599年)2月5日付で家康の重臣・井伊直政が吉晴に対して周旋に対する感謝状を贈っている[3]

そして老齢を理由に慶長4年(1599年)10月1日、家督を次男の忠氏に譲って隠居した[3]。その際、家康から越前府中に5万石を隠居料として与えられている[3]。これは家康から知行を与えられた最初の例である[3]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。家康が会津征伐に赴く際に浜松において忠氏と共に歓待し、家康に従軍を求めた[3]。しかし従軍は忠氏のみでよいとして、吉晴には越前への帰国を命じられた[3]

その帰国途上の7月、三河刈谷城主・水野忠重美濃加賀野井城主・加賀井重望らと三河池鯉鮒(現在の愛知県知立市)において宴会中、重望が忠重を殺害した[3]。吉晴も17か所の槍傷を負ったが[4]、重望を討った[5]。なお、吉晴の菩提寺である京都市春光院に残る吉晴木像には左頬に深い傷跡が彫りこまれており、この際の傷ではないかと推測されている[5]。また、事件の際は殺害現場を見た忠重の家臣に殺害の主犯と勘違いされたという逸話も伝わる[5]

このため9月の本戦には参加できずに越前に帰国した[5]。代わって出陣した忠氏が戦功を賞され出雲富田24万石に加増移封された[4]。なお、吉晴は密かに近江、北国の情勢を家康に報せていたともされている。

江戸時代[編集]

慶長9年(1604年)、豊臣姓を下賜されている[6]

同年、忠氏が早世する。家督は孫の忠晴が継ぐが、幼年のためその後見役を務めた[4]。また同年、隣国伯耆国米子の中村家における御家騒動(横田騒動、または米子騒動)においては、中村一忠の応援要請を受け、応援出兵して騒動を鎮圧している。

慶長16年(1611年)、松江城を建造し本拠を移したが、間もなく6月17日に死去した。享年68。

子孫[編集]

寛永10年(1633年)に死去した忠晴には嗣子が無く、堀尾氏嫡系は3代で改易となる。一族が熊本藩(堀尾茂助)や松江藩(堀尾但馬)に仕えて名跡を存続させた。元NHKアナウンサーで現在フリーアナウンサーとして活躍している堀尾正明は子孫であると称しているが、堀尾氏の子孫を自称する会、堀尾顕彰会では認められていない。

墓所[編集]

堀尾吉晴の墓(島根県安来市広瀬町・巌倉寺)

人物・逸話[編集]

性格[編集]

戦場では勇猛さを見せつけたが、温和で誠実な性格で人望を得ていた。このため、「仏の茂助」と称された[7]。温和な性格だけではなく、秀吉の家臣団の中でも尾張時代から仕えていた最古参の重臣であったことからその影響力も大きく、家康と石田三成の対立を仲介したこともあったという。

徳川時代に伏見に在住していた時、吉晴は浪人に対して他家への斡旋を行ない、同じ人間を3度も面倒見たことがあった。この行為に疑問を持った友人が尋ねると「上(家康)様に叛旗を翻す者があり、討伐を仰せつかった際、国許からすぐには人を呼べぬ。そんな時、彼らに頼めば3人5人と仲間を連れて馳せ参じてくれるではないか」と語った[4]

出雲松江に鯉や鯰などが多く生息する佐陀江という湖があり、家臣の憩いの場となっていた。百姓はそこを灌漑に使いたいからと銀子20枚で堀尾家の奉行に願い出て、奉行も了承して吉晴の許可を得ようとした。しかし吉晴は「国が乱れた時、敵に飛び込んで戦う武士達の慰みの場を、銀子に換えるなど思いもよらぬ」[註 2]と激怒して奉行を叱りつけた。そして他の場所を払い下げるように命じた。吉晴は武士の憩いの場所を金に換える事が許せなかった、金を賤しいものと信じる武将だったのである[4]

その他[編集]

吉晴は実際には藩主になっていないが、忠氏時代には忠氏と二元政治を行ない、忠晴時代には若年の忠晴に代わって政務を代行していたことから、松江藩の初代藩主として見なされることが多い。

文禄の役の後、万暦帝が秀吉を「日本国王」に任命する誥命を送付したものの、秀吉はこれに激怒して吉晴に下げ渡した。吉晴は国書の見事さにそのまま持ち帰って家宝としていたが、後に娘が石川忠総に嫁いだ際に嫁入り道具として持たせた書画の中にこれを加えた。そのため、この国書はそのまま石川家に伝わり、後に重要文化財とされた。戦後、一時期民間に流出したものの、後に大阪市が買い取って大阪市立博物館(後に大阪歴史博物館に移転)の所蔵品として現在も保管されている。従って、時代劇などで激怒した秀吉が国書を破り捨てるシーンは後世の創作によるもので史実ではない。

武人として[編集]

信長が狩に出ていたとき、その目の前で吉晴は大きな猪と取っ組み合いをした末に討ち取った。これを見た信長は吉晴の勇を気に入り、足軽大将に取り立てたという(『藩翰譜』)。

温厚な人物と言われるが、小田原征伐における山中城攻めの時、中村一氏に陣地を奪われて一番乗りの功名まで奪われてしまった。このため戦後、秀次の前であるにも関わらず怒りを爆発させて自らの功を主張し、家臣が引き下がらせようとした際には一氏と刺し違えようとしたとまで伝わっている[7]

脚注[編集]

註釈[編集]

  1. ^ 藩主の順番に関しては初代、2代の両説がある(後述)
  2. ^ 『太閤記』

出典[編集]

  1. ^ a b c d 『シリーズ藩物語 ― 松江藩』P20
  2. ^ a b c d e 『シリーズ藩物語 ― 松江藩』P21
  3. ^ a b c d e f g h 『シリーズ藩物語 ― 松江藩』P22
  4. ^ a b c d e 楠戸義昭『戦国武将名言録』P227
  5. ^ a b c d 『シリーズ藩物語 ― 松江藩』P23
  6. ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」1996年
  7. ^ a b 楠戸義昭『戦国武将名言録』P226

参考文献[編集]

書籍
史料
  • 『太閤記』
  • 『藩翰譜』

関連項目[編集]

外部リンク[編集]