高松城 (備中国)
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高松城 (岡山県) |
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本丸址公園
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| 通称 | |
| 城郭構造 | 梯郭式平城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 石川氏 |
| 築城年 | 不明 |
| 主な改修者 | |
| 主な城主 | 石川氏、清水氏、花房氏 |
| 廃城年 | 江戸時代初期 |
| 遺構 | 水攻め堰堤の一部 |
| 指定文化財 | 国の史跡 |
| 位置 | 北緯34度41分34.8秒 東経133度49分19.36秒 |
高松城(たかまつじょう)は戦国時代、備中国高松(岡山県岡山市北区高松)に存在した城。羽柴秀吉による水攻めで有名である(詳細は「備中高松城の戦い」参照)。
目次 |
[編集] 概要
城の形式は梯郭式平城で、石垣は築かれず土塁によって築城されていた。城の周囲は低湿地帯でこれらが天然の堀を形成していた。
築城時期ははっきりしないが、松山城主・三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城である。天正3年の備中兵乱で石川氏が主家三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、清水宗治が城主となった。清水宗治は備中兵乱の際、石川氏の娘婿・重臣でありながら主家を離れて毛利氏に加担したが、清水宗治が城主となった経緯は不詳である。石川氏滅亡以前より宗治が城主であったともいわれる。
天正10年(1582年)織田信長の家臣・羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、4月、高松城攻めにかかった。高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落を誇っていたため、攻城戦は持久戦となった。5月8日に入り軍師・黒田孝高の献策により城を堰堤で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえるものが開始された。これにより低湿地にあった高松城を水没させようというものである。世に言う「高松城水攻め」である。人夫に過分な金子を与え突貫工事で11日後に堤防が完成。折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ城は見事に水没した。
ここに信長を招く準備をしていたが、6月2日本能寺の変が起こり計画は頓挫した。翌日、光秀の毛利軍への密使を秀吉軍が拘束。密書で信長の死を知った秀吉軍は毛利軍に知られぬよう密使を暗殺してこれを秘匿し毛利方の外交官・安国寺恵瓊を仲介役に和議を成立させた。城兵の命と引き替えに6月4日宗治は切腹。秀吉は主君の仇敵・明智光秀と対決すべく「中国の大返し」を行い、強行軍で近畿に引き返した
その後、高松城は宇喜多領となり、花房正成が城主として入城。そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、宇喜多氏の旧臣であった花房職秀(職之)が城主となり、高松城に入城した。この時期に城域も整備されたが、職秀の死後、一国一城令で廃城となったと思われる。
現在は秀吉が築いた堰堤や、城の石積みが僅かに残るのみで、城の痕跡はほとんど残っていない。城跡には宗治自刃の碑、宗治首塚・胴塚があり、公園として整備されており資料館が開館している。堰堤跡は高松城水攻め史跡公園として整備され、発掘調査により土杭等が確認されている。城跡と堰堤跡は「高松城跡 附:水攻築堤跡」の名称で国の史跡に指定されている。
[編集] 現地情報
[編集] 所在地
- 岡山県岡山市北区高松558-2
[編集] 交通アクセス
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 岡山県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会/編 『新版 岡山県の歴史散歩』 山川出版社 1991年 114-115ページ
- 西ヶ谷恭弘/著 『定本 日本城郭事典』 秋田書店 2000年 309ページ
- 野中信二/著 武士の宴(小説、短編集『西国城主』に収録)
- 林信男/著 『備中高松城水攻の検証』 1999年
- 渡邊大門/著『戦国の交渉人―外交僧安国寺恵瓊の知られざる生涯―』洋泉社・歴史新書 2011年