母衣

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母衣(和漢三才図会

母衣(ほろ)は、日本軍装の一種。保侶とも書く。

目次

概要 [編集]

律令制下から製造されている。元来は平安時代末期に生まれた懸保侶(かけぼろ)という補助防具である。背中に長い布をたわませたもので、馬を駆けると風をはらんでふくらみ、背後に長く引いて背面からの流れ矢を防ぐ役割を果たすので、大鎧とともに馬を駆りを主武器とする、当時の武士の戦闘法に適していた。

騎馬戦闘が廃れた室町時代の頃から、内部に竹などで編んだカゴを入れることで常にふくらんだ形状を維持した装飾具に変化し、指物の一種となった。

歴史 [編集]

  • 日本三代実録』に文屋善友9世紀頃(平安中期)に大量の保侶を朝廷から与えられた記述が見られ、律令時代から用いられていたことが確認される。この時代はまだ武士の大鎧は形成されていない。
  • 中右記』の記述として、永久元年(1113年)、源重時郎従が甲冑の上に流れ矢を防ぐための保侶という布をまとい、これを一族の風として習い、源重武の郎従達も久安3年(1147年)の合戦で身にまとい、人目を驚かせたとされる。12世紀中頃では、武士甲冑による集団(一門)が揃って保侶を身にまとうという行為は、まだ珍しかった。
  • 文永の役の際、紅の母衣をかけた肥後国の大将・菊池二郎武房が蒙古人の首2つを太刀と長刀(なぎなた)の先に刺して持っていた記述があり、13世紀末の元寇においても用いられた記録がある。武房は仲間の死体の中から起きあがってかろうじて生き延びたとあることから、かなりの混戦だったとみられるが、紅の母衣が確認できるあたり、ちぎられなかったとわかる。

母衣の性格の変化 [編集]

武士の組織化が進んだ戦国時代には、赤や黄など目立つ色で着色されており、敵味方からも識別しやすい母衣は、大名の精鋭の武士や、本陣と前線部隊の間を行き来する使番に着用が許される名誉の軍装として使われることもあった。

母衣衆の例 [編集]

織田信長馬廻から選抜して使番として用いた黒母衣衆赤母衣衆や、豊臣秀吉黄母衣衆などが有名であり、江戸時代諸藩の中にも、藤堂家仙台伊達家など母衣衆を置く藩があった。

なお、信長の母衣衆は地位としては赤母衣衆と黒母衣衆に格差はないものの、『利家記』には戸田勝成前田利家に「赤母衣は少下、おぼへもうすきやうに申候」と語っており、メンバー的にも黒母衣衆がやや年上であったと考えられる。

防御性能 [編集]

和弓の威力は13 - 14メートルの距離から射た場合(弓弦の強度にもよるが)、3枚並べた厚さ10ミリ(計3センチ)のヒノキ材を容易に貫通することが可能であり、少なくとも置き盾3枚分以上、または3センチ厚のヒノキ製盾(複合素材でない盾)の防御性を上回るものだが、その材質上、重量のある鉄鏃を使用した場合、切り裂かれる(重量から絡み取り切れず)。また一定の風圧を受けなければ、防御性を発揮できないという難点もある。そのため、あくまで馬上鎧の補助的防具という役割を脱するものではない。それでも環境が整えば、厚さ数ミリもする鉄製フライパンをも射抜く和弓の矢を無効化することが可能である。

備考 [編集]

  • 流派にもよるが、母衣は「武士の七つ道具」の一つである。
  • 母衣と同様の原理で矢や投石をからめとる防具としては、「野中の幕」がある。これは『新陰流外物謀略』など武術流派の巻物で説かれる対飛道具用の手盾で、鞘など棒(長いとって)となるものの先に陣羽織など防ぎようになるものをぶら下げ、左手で持ち、防ぎながら近づき、斬りつける。これは危急の際の対応であり、風圧の必要性はない。

関連項目 [編集]